瞬が、微かに頬を上気させる。 その言葉通りに、氷河は瞬を抱きしめることができていただろう。 星矢と紫龍を従えたアテナが、 「やっぱり、瞬があなたのエルピスだったのね」 と、我が意を得たりと言わんばかりの顔で言いながら、その場に登場しさえしなければ。 だが、アテナは登場してしまった。 舌打ちを止められなかったのは、氷河の未熟。 そんな氷河を一瞥しただけで咎めることをしなかったのは、アテナの寛容。 「アテナ……」 あるいは、アテナは、瞳を涙で潤ませている瞬に免じて、氷河の不敬を不問に処すことにしたのかもしれなかった。 アテナが、瞬のために微笑を作る。 「エリスがね、氷河に呪いをかけた時、その去り際に、やたらと氷河に 急いで旅に出るよう言っていたと、紫龍から聞いて――。なにか怪しいと思って、ちょっと策を弄してみたの。『エルピス探しは間に合わなかった。氷河は その腕を失ってしまった』と嘘をついて、氷河の腕にまわった毒を消すことのできる乙女はどこにいたのかと、エリスに訊いてみたのよ」 「あ……」 さすがは知恵(悪知恵)の女神。 彼女の聖闘士が片腕を失うかもしれない事態に直面していたにもかかわらず、彼女が なかなか行動を起こさずにいたのは、そんなふうにして エリスを計略に はめるためだったらしい。 確かに、その策は 呪いをかけられた直後に実行できる策ではない。 さすがの争いの女神も、権謀術数では(悪)知恵の女神の敵ではなかったらしく、エリスは手もなくアテナの策に はまり、エルピスの正体と居場所を得意げにアテナに語ってくれたのだそうだった。 「まあ、結論だけを言うと、エリスが定めた氷河のエルピスは瞬のことだったのよ。氷河がエルピスを探すために旅に出れば、氷河は それだけ 瞬から遠ざかることになる。エリスは、だから、すぐにエルピス探しの旅に出るよう、氷河をせっついたのですって」 「『策士、策に溺れる』の典型だな」 紫龍の呟きに、 「『上には上がいる』だろ」 星矢がコメントをつける。 「もちろん、褒めているのでしょうね?」 アテナに皮肉げに睨まれた星矢は、肩をすくめて ごまかし笑いをした。 アテナも紫龍も星矢も――彼等が その周囲に まとっている空気は明るく軽快。 彼等は、最悪の事態は既に脱したと考えて、心を安んじている。 そうだと感じられることが、瞬の瞳と心から少しずつ涙を取り除いていった。 「ありとあらゆる災厄が、世界中に散っていったあと、小さな希望だけが手許に残った。パンドラの物語そのものよ。エリスは、すべてが終わってから 希望は実は彼のすぐ側にいたのだと 種明かしをして、氷河を嘲笑う計画でいたらしいわ」 だが、その計画はアテナの(悪)知恵によって、あるいは エリスの迂闊によって、見事に頓挫した。 エリスには腹立たしいことだったろうが、氷河と聖域にとっては幸いなことに。 瞬にとっても その結末は非常に喜ばしいものだったのだが、瞬には まだ一つ解せないことがあったのである。 すなわち、 「あの……でも、エリスは、氷河のエルピスは乙女だと……」 ということ。 「ああ、それはね――」 それまで なめらかな口調で事の次第を語っていたアテナが、初めて言葉を淀ませる。 彼女は少々 気まずげな顔になり、言いにくそうに その謎の訳を瞬に明かしてくれた。 「それは、つまり……エリスは、あなたを少女だと思っていたのよ」 「は?」 「エリスは、氷河があなたを好きでいることを察して――好きな人がいるのに、氷河は片腕を失わないために、自分にかけられた呪いを解くことのできる乙女を探しに出なければならなくなる。当然、氷河は苦しむわね。同時に それは、氷河に愛されているあなたを苦しめることにもなると、エリスは考えた」 「神のくせに、瞬の性別を見誤ったのかよ!」 星矢が、争いの女神の とんでもない不手際に呆れた顔になる。 だが、アテナは それを――エリスの誤認をミスと認めながらも――彼女が神なればこそ起こったミスと考えているようだった。 「ええ。さすがは、あらゆる災厄の母。意図せず、事態を更にややこしくしてくれるところは、あらゆる災厄の母の面目躍如としか言いようがないわ」 『神のくせに』なのか『さすがは神』なのか、評価の別れるところである。 だが 今、氷河の仲間たちとアテナには、エリスの神としての力量を論ずることより先にしなければならないことがあった。 「まあ、瞬がエリスの定めた氷河のエルピスで、氷河が瞬をどれほど愛していても、瞬も氷河を愛していなければ、瞬には 氷河の腕にまわった毒を浄化する力は持ち得ないのだけれど」 「そんで、腕の傷口にキスしなきゃ、エリスの呪いは解けないんだっけ」 「うむ。瞬、一刻も早く 氷河にかけられた呪いを解いてやれ。もし おまえも氷河を憎からず思っているのなら」 アテナ、星矢、紫龍が そう言って、エリスの呪いを(解くことができるなら)解いてやるよう、瞬を促す。 「えっ。今、ここで?」 今はすっかり涙の乾いていた瞬が 頬を朱に染めて 仲間たちに問い返したのは、“今 ここで”氷河にかけられた呪いを解くための前提条件は整っていたからだったろう。 “今 ここで”アテナと仲間たちのいるところで、氷河の呪いを解くことに ためらいを覚えているようだった瞬は、星矢の、 「あっ、氷河の腕が落ちる!」 という、冗談なのか 脅かしなのか わからない発言に驚き、弾かれたように、氷河の呪いを解く行為を実行したのである。 瞬が、氷河の腕の痛々しい傷口に 唇で触れると、枯れかけた枝のように土気色になっていた氷河の腕には、すぐに生気と血の気が通い始めた。 普通なら、腕を上方に持ち上げるなり 振りまわすなりして、その回復を確かめるところなのだろうが、氷河は生き返った右腕を瞬の肩にのばし、その身体を 自分の側に抱き寄せることで、その確認をしてみせた。 体裁にも外聞にも全く頓着していない、実に堂々とした氷河の たわけた振舞いに、星矢と紫龍は嫌そうに顔を歪め、瞬は真っ赤になって顔を伏せてしまったのである。 そんなアテナの聖闘士たちを見やり、アテナは くすくすと楽しそうに笑った。 「エリスに、瞬は男の子だと教えてあげたら、彼女、氷河は そんな趣味の持ち主だったのかと、今の星矢たちより嫌そうな顔をして、もう二度と氷河の顔は見たくないし、関わりも持ちたくないと言っていたわ。よかったわね、氷河」 「それはよかった。もしエリスに会うことがあったなら、実ることはないかもしれないと思っていた恋が 貴様のおかげで実ったと、俺は、あの女に 心から礼を言ってしまいそうだ」 「そんなことをしたら、あなたは、怒髪天を衝いたエリスに、また別の呪いをかけられることになるでしょうよ」 『触らぬ神に祟りなし』 触ってしならない神の方が 氷河を避けてくれるのなら、これほど有難いことはない。 そして、『災い転じて福と為す』 あらゆる災厄の母たる争いの女神のおかげで 思いがけない幸福を手に入れることになった氷河の幸運(むしろ強運)に、アテナは感心しているようだった。 「パンドラの箱の物語には、色々なバージョンがあるのよ。エルピスは、多くの災厄たちに遅れて、最後に世界に飛び去ったバージョン、最後まで パンドラの許に残ったバージョン。希望は遠くにあるものなのか、近くにあるものなのか。探し求めるものなのか、自分の内に育むものなのか――。希望ほど 不思議で、謎めいていて、見付けにくくて、捉えどころのないものはないわね」 「それは、瞬の目の中にあるものだ。他のどこにもない」 今まさに自身の希望を その胸に抱きしめている男が、自信満々で言う。 『喉元過ぎれば何とやら』 のろけとしか思えないことを、恥ずかしげもなく堂々と真顔で言ってのける氷河に、星矢たちだけでなくアテナまでが、気の抜けた吐息を洩らすことになったのである。 「ぬけぬけと言ってくれるものだこと。氷河。あなた、エリスに憎まれても当然だと思うわよ。ここにエリスがいなくて、本当によかったわ」 ともかく 氷河は、そうして めでたく彼の希望に巡り会い、我が物にすることができたのである。 希望は遠くにあるものなのか、近くにあるものなのか。 探し求めるものなのか、自分の内に育むものなのか 希望ほど 不思議で、謎めき、見付けにくく、捉えどころのないものはない。 希望は、希望を求める人間が そこにあってほしいと望む場所にあるものなのかもしれなった。 Fin.
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