「氷河……!」
生気に輝く青い瞳。
再び その青に出会えたことが嬉しくて――瞬は、氷河を、彼のすべてを、強く抱きしめたかった。
あいにく、そこにいるのは瞬と氷河だけではなかったので、瞬は かろうじて自分の歓喜を行動にするのを思いとどまることができたのであるが。
そんな瞬に、アテナが やわらかな笑みを投げてくる。
「ハーデスは、美しくないものから逃げようとする傾向があるのよ。そして、私は、本来は上品で高雅な神ですから、その点 誤解しないでちょうだいね」
「もちろんです! アテナが聡明で、お優しい神だということは、その瞳や お姿を見れば わかります。アテナは氷河を救ってくださった……!」
「聡明で お優しく上品な神よ」
「あ、はい。聡明で、お優しく、上品な神だということは、その瞳や お姿を見れば わかります。ありがとうございます、アテナ!」

瞬が『上品な』を付け加えて アテナに謝意を伝えると、アテナは 極めて上品かつ高雅な仕草で 満足そうに頷き、それから済まなそうな顔になった。
「ハーデスのことは許してやって。ハーデスは美しいものが大好きな神なのよ。けれど、彼の望む美しさの条件を満たす人間は 数百年に一人 現われるかどうかで――。ハーデスは、どうしても あなたを自分のものにしたかったのでしょう」
「僕は氷河が生きていてくれさえすれば、それだけで――。あの、でも、僕? 氷河ではなく?」
「ああ。あなたの目には、自分より氷河の方が美しく見えるというわけね。そして、もちろん、氷河の方がハーデスより美しい。人の好みは 人それぞれよ。あなたは 人の姿形だけではなく、心も見ているから。その点では、ハーデスも見る目はあるのだけどね……。ハーデスは、あなた欲しさのあまり、天界を治めるゼウスや太陽神アポロン、月神アルテミスに断わりもなく、あんな天体ショーを起こして、彼等を怒らせてしまったから、しばらく大人しくしているでしょう。いくらハーデスでも、あの三人を怒らせてしまったのでは、ただでは済まないわ」
「――」

次々に出てくる偉大な神々の名。
瞬は もはや溜め息を洩らすこともできなかったのである。
それが たった一人の非力な人間を巡ってのことなのだと言われても、それは瞬の理解の範疇を超えたことだった。
想像を絶する事態に、ぽかんとしている瞬。
天上の神々の思惑などどうでもいいと言わんばかりの目で、知恵と戦いの女神の話にも 上の空で、瞬だけを見詰めている氷河。
アテナは、今度は そんな氷河の方に視線を落としてきた。

「ところで、私は、実は あまり優しい神ではないのよ。私は、あなた方に何も与えません。すべてを元に戻すだけ。氷河。愚かなハーデスを見て、少しは賢くなった?」
「ハーデスが悪いんじゃない。俺が愚かだった。瞬が、人の生まれなど気にする人間ではないことは わかっていたんだ。身分や地位のことで卑屈になったりせず、好きだと言っておけばよかった。俺の恋の障害は、身分や地位の欠如ではなく、エティオピア国王の権力でもなく、瞬の兄の 瞬への愛だけだったのに」
「氷河……」
瞬はアテナの目を気にして 氷河を抱きしめずにいたのに、身分や地位や権力を気にすることをやめた氷河は、瞬の肩を抱き寄せ、抱きしめていた。
アテナは、聡明で、ほどほどに優しく、上品で、その上 寛大な女神でもあるらしい。
彼女は、氷河の不作法を不問に処してくれた。

「それがわかっているなら、結構よ。エティオピア国王のブラコンも相当のものらしいけれど、二人でなら、そんなものは 乗り越えられない試練でもないでしょう。ハーデスは、結果的には あなた方二人の恋を実らせ、あなた方の絆を強めてくれた。ハーデスには不本意の極みでしょうけど、彼にしては 素晴らしい お手柄だったね」
「ハーデスには感謝している。俺に、俺の愚かさを気付かせてくれた」
「あなたの謝意をハーデスに伝えておくわ。きっと彼は地団太踏んで 悔しがることでしょう」
楽しそうに笑いながら そう言い、一瞬で 氷河と瞬をエティオピアの都まで運んでくれたアテナは、
「大事な人に幸せになってほしいと思うなら、優しさだけでなく、知恵を働かせ、勇気を出すことが必要よ。多分、それで自分自身も幸せになることができるわ」
という、知恵と戦いの女神らしい激励の言葉を残して、瞬たちの前から姿を消していった。


そうして。
『知恵を働かせろ』というアテナの助言をれた瞬は、すぐには 兄の待つエティオピアの王城には戻らず、まず『エティオピアの国の片隅で、氷河と一緒に暮らしていきます』という短い知らせだけを、兄の許に届けたのである。
瞬の兄が、氷河と瞬に 二人揃っての城への帰還を許したのは、それから まもなくのこと。
今回の生贄騒ぎで、彼にも 色々と思うところがあったのだろう。
瞬が生きていてくれるなら、それが何より大事。
瞬に死なれることを思えば、多少の不平不満不都合は我慢もできる。
たとえ 気に入らない男と一緒でも、最愛の弟を自分の目の届くところに置きたい。
それがエティオピア国王が最終的に辿り着いた結論だったらしかった。


たとえ一国の王でも、無位無官の庶民、奴婢奴僕でも、人間の人生には 試練や障害がつきもの、常に順風満帆とはいかない。
だが、だからこそ、人間は それらの経験から学び、知るのだ。
愛する人の幸福。
人間の人生に、それ以上に大切なものはないのだということを。






Fin.






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