ヒョウガが、セイヤたちの挑発めいた言い草を やり過ごすことができず、逆に その挑発に乗るようなことをしてしまったのは、彼等の言及する 清らかな心と姿の持ち主が イッキの身内だったから――だったかもしれない。 宮廷の腐敗に毒されもせず、自分には歩み得なかった道を歩み続けているイッキに、ヒョウガは ある種の憤りと敗北感のようなものを抱いていた――抱かされていたのだ。 「人は、誰でも簡単に堕落する――汚れる。イッキの身内だろうが野の白百合だろうが、それは同じこと。人が堕落するのは一瞬だ。いや、そもそも清らかな人間なんてものは、この世に存在しないんだ。人は皆、醜悪。廉潔の仮面をつけているか、外しているか――そのどちらかでしかない」 ヒョウガが真顔で、確信に満ちて そう断言すると、セイヤは急に心配そうな顔になり、憐みの響きを帯びた声で、いきりたった友人をなだめてきた。 「ベルサイユにいる時のおまえって、プロヴァンスに来てる時のおまえとは別人みたいだな……。おまえは、んなこと言うけどさ、清らかな人間は確かにいるんだよ。あのイッキの身内だぜ。そんな仮面なんか つけてるわけないだろ」 「うむ。おまえが そんな考えでいるのなら、野の百合のことは忘れた方がいいな。危険だ。へたに関わって、復活したイエスに出会ったパウロのように回心させられでもしたら、おまえは おまえの堕落を後悔し、苦しむことになるかもしれん」 「そんなことになるはずがないだろう! イッキの身内だろうが何だろうが、もし その野の百合とやらが 今 俺の前に現れたら、俺は その化けの皮を一瞬で剥がしてみせる!」 仮面着用が義務であり作法でもあるベルサイユで、ヒョウガが つい自制を忘れ、大声をあげてしまったのは、やはり どう考えても セイヤたちの言う清らかな野の百合がイッキの身内だから――だったろう。 ヒョウガの言によれば、廉潔の仮面をつけている貴族は 他にも幾人かはいて、ヒョウガも その存在を認めているようだったから。 ヒョウガがあげた大声を聞きつけたのか、先程の貴婦人とは別の、30歳前後の婦人が、取り巻きらしき数人の男女を引きつれて、小首をかしげながら、ヒョウガたちの側に歩み寄ってくる。 嫣然とした笑みを浮かべ、彼女はヒョウガに話しかけてきた。 「ヒョウガ。あなたが声を荒げるなんて珍しい。いったいどうしたの」 「ペリゴール伯爵夫人……」 これまた、いかにもベルサイユの貴族らしい作り笑い(に、セイヤたちには見えた)を浮かべた その貴婦人の名に、プロヴァンスの田舎から都会に出てきた二人の田舎者たちは 少なからず驚くことになったのである。 ペリゴール伯爵家といえば、嘘か真か8世紀のフランク王国国王にして西ローマ帝国皇帝シャルルマーニュ大帝の末裔といわれる名門中の名門。 その夫人が、まるで計算したように唇の左右を全く同じ角度に上げた微笑を作って、セイヤたちを見詰めていた。 「ヒョウガ。あなたの お連れが女性でないこともあるのね。お二方、ヒョウガを あんなふうに激昂させる芸当をしてのけるなんて、大変なお手柄よ。ヒョウガは感情らしい感情の持ち合わせがないのではないかと、皆が噂するような青年なのに」 「感情らしい感情の持ち合わせがない? ヒョウガが?」 爵位で呼ばないところを見ると、彼女もヒョウガの“手助け”の恩恵に預かったことのある婦人なのかもしれない。 ペリゴール夫人の語るヒョウガの人物像に、セイヤたちは 思い切り虚を衝かれてしまったのである。 やはり、ベルサイユでのヒョウガは、彼等の知るヒョウガとは違う男であるようだった。 セイヤたちが知っているのは、士官学校在学中のヒョウガ、プロヴァンスにやってきている時のヒョウガだけ。 ヒョウガほど喜怒哀楽のわかりやすい男はいないというのが、セイヤたちの認識だったのだ。 「お目にかかれて光栄です、ペリゴール伯爵夫人。いや、ヒョウガが あまりに自分の辣腕を自慢するので、おまえの手腕をもってしても、ヴィルロワ元帥の秘蔵の君を落とすことはできないだろうと話していたところだったんですよ。友人として、少しは謙譲の美徳を持つようにと、ヒョウガに忠告していたんです」 「いくらヒョウガでも、落とせるわけないって言ったら、こいつ、んなことないって わめき始めてさー」 「ヴィルロワ元帥の秘蔵の君?」 ベリゴール伯爵夫人は、どうやら ヴィルロワ侯爵家の奥深くに隠されている野の百合の噂を聞いたことがあったらしい。 シリュウたちの説明を聞くと、彼女は その瞳の中に 興味津々と言わんばかりの輝きを見え隠れさせ始めた。 「お友だちの忠告が、ベルサイユ一のドンファン、ベルサイユ一の放蕩児としてのヒョウガの誇りを傷付けたというわけね。ヴィルロワ元帥の秘蔵の君の噂は、私も聞いていてよ。私の気に入りの小間使いの従姉がヴィルロワ侯爵家に務めていて、その又聞きなのだけれど。美しくて、清らかで、驕ったところがなくて、優しくて――教会に行って神父様のお説教を聞くより、野の百合の側にいる時の方が よほど清々しい気持ちになれるのだとか。私の小間使いの従姉は、ヴィルロワ元帥の秘蔵の君を、地上で最も清らかな人だと断言していたそうよ」 「作り話じゃなかったのか……」 ヒョウガが つい そんな独り言を洩らしてしまったのは、彼が、フランス宮廷の貴族の中に 清らかな人間がいるという噂の存在自体を疑っていたからだった。 ペリゴール伯爵夫人の話を聞いて初めて、ヒョウガは、フランス貴族の中に清らかな人間がいるという噂を――そういう噂が存在するという事実だけは――信じる気になったのである。 「ヴィルロワ元帥の秘蔵の君を落とすのは、ヒョウガでも無理かしらね。元帥が溺愛しているそうだし、元帥のガードも固いでしょうし。私の又聞き情報では、わずか七歳で終生童貞の誓願を立てたシエナの聖カタリナもかくやとばかりに清らかな姿と暮らしぶりだとか――」 「落とせる」 ペリゴール伯爵夫人が言い終える前に、ヒョウガは断言していた。 このフランスの宮廷に、清らかな貴族などいるはずがない――いてはならない。 もし噂の君が本当に清らかな人間だったとしても、それはイッキのガードが強固で、未だ 悪徳の誘惑を受けたことがないからにすぎない。 それがヒョウガの考え――信念だった。 真顔というより、むしろ怒りに燃えた目をして そう断言するヒョウガに、シリュウが眉をひそめる。 ヒョウガに、 「じゃあ、賭けるか?」 と言い出したのは、セイヤだった。 思いがけない提案に、ヒョウガが一瞬 目を見はり、すぐに その表情を薄い嘲笑に変える。 「賭け? いくらだ。10スーじゃ話にならんぞ」 「そうだな。10万リーブルくらいでどうだ?」 「なに?」 セイヤの持ち出した賭け金の額に、ヒョウガは息を呑んでしまったのである。 賭けをするにしても、せいぜい10リーブル、一晩の酒代を奢る程度のことを 彼は想定していた。 10万リーブルという金額は、パリの下町の洗濯女が100人、一生働き続けても稼ぎ出せない金額である。 パリでなら、相当規模の邸宅が一つ買える額だった。 「10万リーブルと軽く言うが、おまえ、そんな金を持っているのか」 「俺んちは、おまえんちと違って貧乏貴族だけど、全財産はたけば それくらいはどうにかなるだろ。どうせ俺が勝つに決まってるもんな。10万リーブルなんて、おまえには はした金かもしれないけど」 「10万リーブルは、俺にでも十分に大金だ。ブルゴーニュに上質のブドウ園が5つは買える」 10万リーブルという金額を気軽に持ち出せるほど、セイヤは この賭けを自分に 絶対有利なものと思っているらしい。 賭けの対象に関しての情報を、セイヤも噂でしか知らないというのなら、セイヤの自信の拠り所は ひとえにイッキという男への信頼ゆえということなのだろう。 そう考えざるを得ないことが、ヒョウガを不快にした。 「いくらイッキの身内でも、ただの人間にすぎないものを そこまで信じるのもどうかと思うぞ。賭けに乗ってやってもいいが、おまえ、その野の百合を俺に紹介するくらいのことはしてくれるんだろうな」 「それくらい、自分でどうにかしろよ。俺にもシリュウにも、そんなツテはないから。俺とシリュウが士官学校に籍を置いたのは、たった3ヶ月。パリやベルサイユの裕福な貴族の子弟様たちと違って、生活費が続かなくて すぐにやめちまったことは、おまえも知ってるだろ。イッキとオシリアイになる時間もなかったし……。おまえの方が、イッキとは断然親しかったじゃないか」 「親しかったわけではない」 その認識は完全な間違いだと、ヒョウガは すぐに訂正を入れた。 ヒョウガは、イッキに対して常に対抗心を燃やし、その存在を認めてはいたが、彼と親しく言葉を交わしたことは一度もなかったのだ。 「イッキは、今はストラスブールに行ってるって聞いたぜ。オーストリアと きな臭いことになりかけてるとかで。まあ、間違っても、野の百合が自分から腐敗した宮廷に出てくることはないだろうから……。おまえ、嘘でもイッキと親しかったことにして、適当な理由を作って侯爵家に押しかけていけばいいじゃん」 「できないことはないな……。兄君に用があるとでも言って訪ねていけば、イッキが留守なのは、この際 かえって好都合かもしれん」 何はさておき、清らかな野の花と お近付きにならないことには話が始まらない。 セイヤのアイデアは使えそうだった。 士官学校時代は 事あるごとにヒョウガの前に立ちふさがり、目障り極まりなかった男。 今は大きく水をあけられてしまった、かつてのライバル。 その男が大切にしまっている宝を汚してやったら、自分は初めて イッキの前で留飲を下げることができるに違いない。 セイヤが持ち出してきた賭けは、ヒョウガにとっても益のないものではなかった。 だから――ヒョウガは その賭けに乗ることにしたのである。 「いいだろう。賭けよう。俺が清らかな野の百合を落としたら――おまえから10万リーブルを奪うのは、いくら何でも酷だから、おまえの自慢の美人の姉さんを俺に紹介しろ。俺が野の百合を堕落させることができなかったら、俺は おまえに10万ルーブルを払う」 「俺の姉さんは、アルビの子爵家に嫁に行って、ベルサイユどころかパリの館にも来たことがないぜ」 「もちろん、アルビまで訪ねていくさ。旅費は俺持ちで」 「おまえ、俺の姉さんにまで、貴婦人の体面を守る手助けを押し売りする気なのかよ?」 セイヤが心底から嫌そうな様子で、その顔を歪める。 しかし、その賭けの勝利は自分のものと確信しているらしいセイヤは、すぐに その表情を 明るい北叟笑み(としか言いようのないもの)に変えて頷いた。 賭けの成立を見てとったペリゴール伯爵夫人が、相変わらず人工的な笑みを顔に張りつけたまま、ヒョウガとセイヤの間で ゆらゆらと扇を揺らす。 「フランス宮廷一のドンファンと、この世で最も清らかな人間の対決。ヒョウガの役どころは、聖アントニウスを誘惑する悪魔といったところかしら。あとで結果を教えてちょうだい」 人を堕落させようとする企みを止めようとしないあたり、ベリゴール伯爵夫人は、恋愛遊戯と享楽を最大関心事とするベルサイユの貴族らしい貴族なのだろう。 あるいは 結果報告を求める彼女の言葉は、ヒョウガに訪問の口実を与えるための方便だったのかもしれなかったが。 「清らかな野の百合を爛熟した紅薔薇に変えて、ご紹介に伺いましょう」 心得顔で、ヒョウガは――ヒョウガもまた、貴族らしい微笑を彼女に返した。 |