「マーマ!」
「えっ」
何か不思議な音を聞いたような気がする。
瞬が ぱちくりと瞬きをすると、その奇妙な音を発した人は 慌てたように、
「母上!」
と、彼の母を違う音で呼び直した。
先程の音は、やはり その言葉と同義の言葉だったらしい。
氷河の言い換えに きょとんとしていた瞬は、次の瞬間 ぷっと吹き出してしまっていた。
氷河が、少し――否、大いに――きまりの悪い顔になる。
が、瞬は笑顔のまま、その笑いを消し去ることができなかった。
きまりの悪さは頂点に達しているのだろうが、瞬があまりに楽しそうにしているので――しかも、瞬は彼にとっては“マーマ”の命の恩人である――氷河は瞬を睨みつけることもできないでいるようだった。

瞬を睨むことはせず――だが、氷河は 険しい顔を作ることはした。
生き返り 寝台に上体を起こした母の姿を、長い間、安堵したように――だが、切なげに 名残惜しそうに――見詰め、やがて彼は瞬の方に向き直った。
「俺は、母を甦らせたら、おまえを騙して手に入れた剣を おまえに返し、その剣で おまえに切られたいと思っていた。おまえに命を奪ってもらえるなら、それこそ本望だと。ありがとう。その剣で俺を――おまえの優しさを裏切った男の命を奪ってくれ」
氷河が最初から その覚悟でいたことが、瞬には もうわかっていた。
伝説の剣の力を知っている氷河が、瞬の忠告にもかかわらず、剣の前で その目を閉じなかった時から。
必滅の剣が放った光を見ても、氷河の瞳は その輝きを失うことはなかったのだから。
氷河は騙したくて瞬を騙したのではなく、なりたくて卑劣漢になったわけでもないのだ。
伝説の剣が、氷河を許すと言っている。
瞬は剣の判断が嬉しかったし、それを当然の判断だとも思っていた。

「命を粗末にしないで。せっかく お母様を生き返らせたのに、氷河を死なせてしまったら、僕、氷河のお母様を悲しませてしまう。僕を そんな冷酷で哀れな人間にしないで」
「しかし――」
「僕、国に帰ります。この剣を持って、国外に長くいるわけにはいかないから。城の皆には うまくごまかすように頼んできたんだけど、一人で氷河の国に来たことが兄さんに知れたら、僕、兄さんに怒られちゃう。急いで帰らないと」

そう言われてしまうと、氷河も無理を言うことはできない。
氷河にできることは、瞬のために、新王国で最も速く駆けることのできる馬を用意するくらいのことだけだった。
瞬の綺麗な目が いたく気に入って 瞬を城に引きとめたがる母を説得するという つらい仕事をさえ、氷河は、瞬と瞬の故国のために なんとか やりおおせたのである。


「軍を指揮できる将軍すべてを失って、古王国は、これから3、4年は戦はできまい。次の将軍が育ったとしても、今回のことに懲りて、おまえの国に兵を送り込むことはしないだろう。それどころか、戦そのものを恐れ 回避するよう努める国に生まれ変わるかもしれない。俺の国も、おまえの国には、永遠の友好を貫く。おまえは母の命を救ってくれた――取り戻してくれた」
本当は、瞬が馬に乗る手助けなどしたくはないのだが、その心を懸命に押し殺し、氷河は王城の庭で その務めを果たした。

「嬉しい。もしかしたら、この世界から戦をなくすこともできるかもしれませんね」
氷河の手を借りて馬上の人となった瞬が、嬉しそうに答えてくる。
今は、瞬を故国に帰してやるしかない。
だから――馬の向きを変えようとした瞬の手と その手が握りしめている手綱を掴み、氷河は、
「瞬。今度はおまえを盗みに行く!」
と、瞬に宣言したのである。
「え」
「おまえの心と身体を」
「簡単に盗まれません。兄が許さないでしょう」
「諦めるものか」

固い決意の表情で そう告げた氷河に、瞬が困ったような笑みを浮かべる。
そうしてから瞬は、小さな声で、
「早く来て。待っているから」
と答え、その答えに対する氷河の反応を見るのも恥ずかしくてならないというように素早く、『さようなら』も言わずに 馬を駆け出させていた。


『早く来て。待っているから』
瞬が残していった その言葉の意味を理解するのに、氷河はかなり長い時間を要したのである。
氷河がその難事業を完遂したのは、瞬を乗せた馬が 氷河の城の門を駆け抜けていってしまったあとだった。
とはいえ、瞬の言葉の意味を理解したあとの氷河の行動は 迅速を極めていたと言っていいだろう。
『母の命の恩人を長く待たせるわけにはいかない』という もっともらしい理由をつけて、氷河が瞬の待つ国に向かったのは、彼が瞬を見送った翌日早朝のことだった。






Fin.






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