「消えた……?」
「あの人、まさか本当に神……だったの?」
それまでエリスの姿のあった空間を見詰め、瞬が小さな声で呟く。
瞬は、おっとりしているように見えて、その実 頭の回転が速い。
非日常を極めた この現象に驚くことを数秒で済ませた瞬は、既に次の段階に進んでしまっているようだった。
すなわち、自称 運命の女神の自称が自称でなく本物で、彼女が語った物語が物語ではなく事実だった場合の対応を思案する段階に。
そんなところにまで進んでしまっている瞬を、氷河は慌てて元の場所に引き戻そうとした。

「何か仕掛けがあるんだ。瞬、気にするな。所詮は狂人の妄想、真面目に聞く価値のない たわ言にすぎない。万々が一、あの女が本物の女神だったとしても、俺たちには あの女の命令に従う義務も義理もない」
「で……でも、あの人の言っていたことが もし本当だったなら、僕たちのせいで この世界が滅びてしまうって……」
『そんなことは、俺たちの知ったことじゃない』と、氷河は、できることなら言ってしまいたかったのである。
だが、それを口にしてしまうと、『この世界から、不幸な子供たちをなくしたいね』が口癖で悲願の瞬に軽蔑される事態を招きかねない。
氷河自身は そんな大層な願いを抱いたことはなかったが、そういうことを真剣に願う瞬を好ましいと思うし、健気で強い人間だとも思う。
そういう瞬が好きで、失いたくない――愛されていたい。
運命が どうあろうと、氷河は、瞬だけは――瞬と共に生きる人生だけは、それこそ神に逆らってでも守り抜きたかった。

「たとえ あの女の言っていたことが事実だったとしても、恋というものは、自分の意思でどうこうできるものじゃないだろう。俺は、おまえと恋をしようと考えて恋に落ちたわけじゃない。意思とは全く関係なく、俺の心が いつのまにか おまえを好きでたまらなくなってしまっていたんだ」
「それは僕だって……」
それが意思の力でどうにかなるものでないことは、瞬も わかってくれているらしい。
氷河は胸中で ほっと安堵の息を洩らしたのである。
瞬に、この世界を守るために身を引くなどと言われてしまっては たまらない。
“正しい運命”というものが 誰にとって正しいものなのかは知らないが、氷河にとっては、瞬との出会い、瞬との恋こそが“正しい運命”だったのだ。

「だろう? つまり、あの女が何を言おうが、この世界が滅びることになろうが、俺たちにできることは何も――」
『ないのだ』と、氷河は言おうとした。
が、そんな氷河を、瞬は思いがけない言葉で遮ってきたのである。
「ね。だったら――その絵梨衣さんっていう人が、自分の不幸な境遇のせいで心弱くなって、そんなことになるのなら――僕たちで絵梨衣さんが幸せになれるよう、力を貸してあげようよ。それで、絵梨衣さんが幸せになれれば、この世界が滅びることもなくなって、僕たちの恋も守られる。いいことだらけだよ」
瞬が――瞬も、二人の恋を諦めるつもりがないことは喜ばしいことだが、エリスの言う“正しい運命”話を真に受けた瞬の計画に、氷河は諸手を挙げて賛同する気にはなれなかった。
見知らぬ少女を幸福にするために、なぜ自分たちが、決して無限にあるわけではない時間と労力を割かねばならないのだ――。
それが氷河の本音、それが氷河の率直な意見だったのだ。

「しかし、俺は そんな女に会いたくないぞ」
エリスの言っていたことを真に受けて危惧しているわけではないのだが、自分が 本来の運命の相手とやらに会って、楽しいことが起きるとは思えない――状況が良い方に転ぶとは思えない。
面倒だからというのではなく――氷河は、その絵梨衣という少女に会うことを、積極的かつ能動的に避けたかった。
そんな氷河の気持ちは、瞬も察してくれたらしい。
瞬は、氷河に小さく頷き返してきた。

「そうだね……。氷河は絵梨衣さんに会わない方がいいかもしれないね。氷河が それで僕と絵梨衣さんの板挟みになって苦しむことになったら、つらいと思うし――。僕が何とかするよ。僕、氷河と一緒にいられなくなるなんて、そんなの つらくて耐えられないもの。みんなが幸せになれるのが いちばん いいよね!」
「瞬……」
そんな女に かまけている時間があったら、その時間を おまえの恋人のために使ってくれと、言ってしまいたい。
だが、言えない。
困っている人、悲しんでいる人、苦しんでいる人たちを 見て見ぬ振りができないのが瞬であり、それが瞬のいいところ。
氷河にできるのは ただ、
「深入りしすぎて、おまえまでが つらい思いや悲しい思いをするようなことにだけはならないでくれ。それは、俺を つらくし悲しませることだからな」
と、瞬に忠告することだけだった。


児童養護施設に暮らす高校生たちの情報交換会 兼 親睦会を主催した区に問い合わせたところ、相沢絵梨衣という少女が、あの会に出席していたのは事実だった。
瞬と同い年。
自分より年少の子供たちの世話をしながら、星の子学園という施設で暮らしているらしい。
絵梨衣に会うために 瞬が星の子学園に向かう その日、
「俺が一生を共に生きたいと思っているのは、おまえだけだぞ」
と氷河は幾度も繰り返し、今ひとつ不安を払拭しきれないまま、瞬を戦場に(?)送り出してやったのだった。





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