『言わずにいるだろうな』が 無言の目配せに変わり、『はい』が微かな首肯に変わって数日が経った日の昼休み。
借りていた本を返却するために図書室に向かった瞬は、ちょうど 図書室から出てきたところだった氷河に、すれ違いざま、
「日曜日、10時、中央公園の西ゲートに来い」
と、命令――命令だろう――された。
「日曜日?」
返事を待たずに立ち去ってしまうのは、すべてが自分の思い通りになると考えている王子らしいことなのかもしれなかったが、たとえ予定が入っていても、瞬は氷河の命令を優先させていただろうから、それは妥当な振舞いなのかもしれなかった。
実際、氷河に指定された日、花の終わったラベンダーの植え替えという重要な予定を入れていたにもかかわらず、瞬は、迷うことなく その予定を延期することにしたのだから。



待ち合わせ(?)の当日。
氷河を待たせるわけにはいかないと考えて、瞬は 指示された時刻の10分前に指示された場所に到着するよう家を出た。
電車で2駅、プラス 徒歩10分。
つい早足になって、徒歩10分のところを5分で歩いてしまったせいで、瞬が公園に着いたのは 指定時刻の15分も前だった。
少々 早く着きすぎたかと苦笑しながら 西ゲートに向かうために角を曲がった途端、そこに氷河の姿があることに気付く。
瞬は慌てて、角からゲートまでの30メートル強を全力疾走することになった。

「す……すみません。お待たせして……!」
息を弾ませたまま 瞬が謝ると、氷河は、
「早いな」
という、真意を図りかねる答えを返してきた。
遅刻したわけではないのだから皮肉を言われる筋合いはないし、実際 それは皮肉ではないような気もしたのだが、皮肉でないのなら何なのか。
戸惑い 沈黙してしまった瞬に それ以上は何も言わず、氷河が歩き出す。

てっきり公園の中に入っていくものと思っていたのに、氷河は なぜか、たった今 瞬が全力疾走してきた道を逆に辿り始めた。
瞬が曲がった角を、駅に向かう道とは逆方向に曲がる。
いったい氷河は どこに向かっているのかと悩みながら 彼のあとを追った瞬の前に現れたのは、古い石造りの橋。
その橋を渡らずに、川に沿って、上流方向に更に15分。
コンクリートで補強されていた防波堤が 剥き出しの土手になったところで、氷河は やっと その足を止めた。
そして、土手の下に広がる平地を指差す。
そこは何もない野原――と思ったのは、瞬の見誤りだった。
川と土手の間にある幅10メートルほどの野辺。
そこには、素晴らしい宝があったのだ。

「わあっ!」
その事実に気付いた瞬は、歓声をあげて 2メートルほどの高さのある土手を勢いよく駆けおりた。
近くで見て、間違いのないことを確かめる。
もちろん花は まだなのだが、ほのかな薄紫色を帯びた蕾を 幾つも つけている野草。
それは間違いなく、藤袴の本種だった。
「すごい! すごい、こんなに いっぱい! どうして……すごい! どうして!」

環境省が定めた絶滅危惧2種指定。
レッドリストに載っている藤袴の本種が、なぜ こんなところに 平気な顔をして(?)並んでいるのか。
瞳を輝かせて『すごい!』『どうして !? 』を幾度も繰り返しながら 藤袴の蕾たちを見詰めているうちに、瞬の『どうして?』は、絶滅危惧種が ここにあることへの『どうして』とは違う『どうして』に変わっていったのである。
すなわち、『どうして氷河は 僕をここに連れてきてくれたのだろう?』という意味の『どうして』に。

土手の すぐ下で、興奮気味の同伴者を無言で眺めている氷河の許に駆け戻る。
そして、瞬は彼に尋ねた。
「あの……氷河さんは、ここに本種の藤袴があることを、以前から知っていたんですか?」
氷河の答えは、完全に瞬の想定外。
「生えていそうなところを探した」
「探した――って、も……もしかして、僕のために?」
「気になっただけだ。絶滅危惧種だし。本種だろうとは思ったんだが――この間は偉そうなことを言ってしまったが、実は俺も 藤袴は雑種しかみたことがなかったから、おまえに見定めてもらおうと思った。それだけだ」
「……」

どう言い繕っても、それは『おまえのため』である。
彼は わざわざ、本種の藤袴を探してくれたのだ。
彼にとっては下々の者にすぎない(はずの)人間のために。
驚いて、嬉しくて、瞬は胸も声も弾んでしまったのである。
真面目に礼を言いたいのに、笑顔を消し去ることができない。
「本種だよ! 間違いなく本種! こんなにいっぱい。嬉しい!」
「そうか」
笑顔全開の瞬の返事を聞いて、氷河は ほっと安堵したように、もしかしなくても笑った――ようだった。
初めて見る氷河の笑顔。
瞬は思わず目を凝らし、その珍奇なものを二度見してしまったのである。
氷河が、微かにではあったが笑っている。
確かに笑った。
笑うと、彼は目許がひどく優しい。
絶滅危惧種の花の蕾を見ている時より ずっと、もっと、瞬は胸が高鳴った。

「これから 花が咲くまで、僕、ここに通い詰めてしまいそう」
「花が咲くのは夏が終わってからだろう。まだ先だ。これからの季節、こんな 日陰を作る木も建物もないような ところに通い詰めていたら、熱中症で倒れてしまうぞ」
「その時には、公園の中の木陰に逃げ込むから」
色々な種類の興奮と高揚を抑えきれず そう言ってから、瞬は、中央公園の中に もっといい避難場所があることを思い出した。

「藤袴に会わせてくれた お礼に、僕、氷河にお茶を ご馳走します」
「馬鹿な。そんなことをさせられるか」
「何万円もするディナーは無理だけど――公園の中にオープンテラスのあるカフェがあるの。とってもケーキがおいしい お店」
「ケーキ?」
思いがけないチョイスだったのか、氷河が微かに顔をしかめる。
だが、どんな顔をされても、瞬はもう氷河が恐くはなかった。

「甘いもの、嫌いなの? 抹茶系の甘くないケーキやムースも、それから サンドイッチもある お店なの。僕の お薦め」
「おまえのお薦めなら、行ってやってもいい」
「はい……!」
どうして この人を恐いなどと思っていたのか。
昨日までの自分が、今は理解できない。
雲の上とまでは言わないが、木の上から 下々の者が立つ場所まで下りてきてくれた優しい王子様を促して、瞬は彼を 気に入りのカフェまで連れていったのである。






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