瞬が幸福でいてくれないと、自分は幸福になれない。 瞬が幸福になってくれて初めて、自分も幸福になれる。 氷河の願いは、他には何もなかった。 瞬が幸福でいてくれること以外には。 「氷河……」 氷河の願いを聞いた瞬が、涙で潤んだ瞳を大きく見開く。 互いの愛を確信した二人が、互いを切なく見詰め合う、この感動的な場面。 その感動的な場面を遮って、二人の背後から、 「大変 よくできました」 という、愛と感動の名場面に 今ひとつ ふさわしくない声をかけてきたのは、知恵と戦いの女神アテナ その人だった。 「我儘な王子。“極めて意思的で、決断力と その決断力に伴う行動力を備え、常に前向きで、諦めることを知らず、弁が立ち、柔軟で 合理的思考を為すことができ、その上 演技力にまで恵まれている”ヒュペルボレイオスの氷河。さすがに ただの我儘な馬鹿王子ではなかったわね。ちゃんと わかっているじゃないの。その通り。自分の幸福だけを願っている人間は、決して幸福になることはできないのよ」 「アテナ……」 ただの我儘の、馬鹿王子のと、言いたいことを言ってくれるものである。 少しく むっとした氷河に、知恵と戦いの女神は 我儘な王子をなだめるような微笑を投げてきた。 「ああ、そういう顔をするのは やめてちょうだい。私は、ヒュペルボレイオスの国王カミュに、あなたの我儘をどうにかしてほしいと泣きつかれて、今度のことを企んだだけなんだから」 「叔父上が?」 思いがけない人の名を出され、氷河が二度三度と瞬きをする。 そんな氷河に、アテナは ごく浅く頷いた。 「ええ、そう。あなたが いつまでも我儘な王子のままでいたら、あなたは 本当の幸福を知らないままで一生を終えてしまう。そんなことになったら、自分は義姉上に会わせる顔がないと、ヒュペルボレイオス国王は言っていたわ」 「……」 「あなたが心から愛している人なら、それが誰であっても、二人には結ばれてほしい。けれど、今のままでは、あなたは 自分の愛する人をさえ 不幸にしてしまいかねない。あなたが本当の幸福がどんなものであるのかに気付かない限り。だから気付かせてくれと、カミュに頼まれたの――正確には、私の神殿で カミュが そう祈った。私としては、その祈りに応えてやらないわけにはいかなくて――最初のヒュペルボレイオスへの神託と、エティオピアへの神託は、両方とも私が仕組んで下した神託よ」 「叔父上が……」 あのカミュが――ヒュペルボレイオス王家の者としての義務と節を通すことを何よりも重んじている あの叔父が、『心から愛している人なら、それが誰であっても、二人には結ばれてほしい』と言ったというのか。 ならば 彼は、人間の本当の幸福が何であるのかを知っている人間なのだ。 その上で 彼は、我儘な甥の本当の幸福を願って、アテナに その祈りを捧げてくれたに違いなかった。 「優しい叔父様だね、氷河」 瞬が微笑んで そう言ってくれる。 瞬が そう言うのなら、そうであるに決まっていた。 感動感激のあまり、まさか ここで大泣きを始めるわけにもいかず、氷河は瞬に無言で頷くことだけをした。 そして、瞬の優しい手を しっかりと握りしめ、アテナに向かって尋ねた。 「俺の願いは叶ったのか」 「あなたが瞬の手を握っているのを見ても ゴールディが巨大化して暴れ始めないところを見ると、そのようね。それが瞬の幸福だから、ゴールディは暴れ出さないのよ」 今でも十分巨大だったし、握りしめられている二人の手を睨んで 不機嫌そうに うーうーと唸っているのは気になったが、瞬は おそらくゴールディが彼の本来の心を失ってしまうようなことまでは望んでいないのだろう。 『瞬が幸せになるように』という氷河の願いは、叶ったのだ。 「そうか」 頷く代わりに 軽く顎をしゃくった氷河に、瞬が幸せそうに、 「氷河が優しくて、僕、とっても 嬉しい」 と囁いてくる。 瞬に そう言われ、氷河は 途端に ぽわーんと夢心地になった。 瞬が そんなことを言って、氷河を幸福にしてくれるということは、氷河の幸福が瞬の幸福でもあるということで、そう思えることが、氷河を更に幸福にしてくれたのである。 自分の幸せでなく、自分以外の人の幸せを願うことで、確かに氷河は幸福になれたのだ。 二人が結ばれることで世界が滅亡するという神託(アテナの偽神託)も もちろん無効になった――と、アテナは二人に保証してくれた。 それが瞬の幸福だから。 ゴールディの超巨大化による地上世界崩壊の恐れも、もちろん消え去った。 そうなることが、瞬の幸福だから。 ゴールディは どうやら、(今のままでも十分 巨大だが)超巨大化の能力を失ってしまったらしい。 アテナに そう言われた瞬は、ゴールディを伴って故国に帰り、兄とエティオピアの民たちの心を安んじさせたのである。 それが瞬の幸福だから。 そんなふうに 氷河の願いは叶い、瞬は幸福になったのである。 瞬の幸福は 氷河の幸福であるから、もちろん氷河も幸福になった。 氷河が瞬と甘い語らいを始めると ゴールディが めそめそ泣き出し、瞬は 二人の語らいを中断して ゴールディを慰めに行くことになるのだが、それが瞬の幸福なら、氷河も幸福なはずだった。 氷河が瞬に会うためにエティオピアに向かおうとすると、カミュは ぶつぶつと嫌味を言う。 氷河が『瞬に会いたい』と言ってエティオピアの王城を訪ねると、瞬の兄は 何かと難癖をつけて 二人を会わせまいと画策を始める。 すべてが これまで通りなのだが、おそらく そういう状況も瞬の幸福なのだろう。 カミュに 嫌味の矢を何十本何百本と撃ちかけられ、一輝に 嫌がらせの石つぶてを何十個何百個と投げつけられても、それが瞬の幸福なのだから、もちろん氷河も幸福(のはず)だった。 のだが。 最近 氷河は、『俺は今、本当に幸せなんだろうか』と自問することが多くなった。 しかし、その自問の最中にも、瞬に、 「僕、とっても幸せ」 と言われると、氷河は、 「もちろん、俺も」 と答えずにはいられないのである。 人間の幸福は、至って単純でありながら、極めて複雑。 人間の幸せとは、実に奥深いもののようだった。 Fin.
|