「やっぱり、いつか この地上は滅びるのか……?」
星矢の その声と言葉を作ったのは、希望ではなく不安。
星矢の不安の訳を知っている紫龍が、やはり あまり明るいとは言い難い声と表情で、この場では あまり意味のない慰めを 星矢に投げてくる。
「それは――いずれは 当然そうなるだろう。我々の太陽は、60億年後には赤色巨星になり、脈動変光星になり、最後に白色矮星になって死んでいく。当然 地球もその影響を受けるわけで――」
「そんな何十億年も先のことなら、なんで沙織さんや瞬が こんなに青ざめてんだよ!」
応じる声が 叫びになる。
「違うの!」
星矢の叫びを遮る瞬の声も叫びだった。
もっとも、瞬の叫びは すぐに、静かで抑揚のないものに変わってしまったが。

「違うの。そうじゃない。そうじゃなくて……。星矢、憶えてる? 子供の頃――僕たちが それぞれの修行地に送られる前、星矢が この家の塀に落書きして、辰巳さんに その罰として塀のペンキ塗りをするように命じられたこと」
「へ?」
星矢は、人類と地上の あまり遠くない未来のことを話しているつもりだったのに、瞬が持ち出してきた話は、2億年前なら ともかく、ほんの数年前の過去の出来事。
なぜ 瞬が そんな短い単位で 時間を逆行したのかという問題は さておいて。
星矢は、自分のいたずらの罰に仲間たちを巻き添えにしたというのに、その事件のことをすっかり忘れていた。
星矢らしいことと思ったのか、瞬は その件に関しては星矢を責めてこなかった。
いじめっ子は いじめを忘れ、いじめられっ子は いつまでも その事実を忘れない。
いじめられっ子には理不尽極なことだが、それは極めて ありがちな現象なのだ。
「“タツミのハゲ”事件か」
と 瞬に応じたのは、事件の被害者の一人である紫龍だった。
瞬が小さく頷く。

「星矢の落書きのせいで みんなが塀のペンキ塗りをすることになったのに、その罰から最初に逃げ出したのは星矢だった。兄さんも さっさとその仕事をやめちゃって、星矢の逃亡に呆れて 紫龍も仕事放棄。最後に僕と氷河だけが残って……。もっとも僕は、トレーニングに戻りたくなかったから、わざとゆっくりペンキ塗りをしてたし、その仕事は とっても楽しかったんだけど……」
氷河が残ったのは、彼が責任感が強い子供だったから――ではなかっただろう。
真面目だったからでもなく、贖罪の心を持っていたからでもなく――ひとえに 瞬が その仕事を続けていたからだったに違いない。
当然、氷河も その罰ゲームを楽しんでいたことになる。

「ペンキ塗りをしながらね、どうしても落書きしたかったのなら、星矢は 他の人に ばれない暗号で その落書きをすればよかったのに――っていう話をしたんだ。『へのへのもへじ』を『へのへのもへし』って書いたら、それは『タツミのハゲ』っていう意味の暗号だってことにして、『へのへのもへし』って書いていれば、辰巳さんをあそこまで怒らせることもなかったのに……って」
「はあ……? 『へのへのもへじ』じゃなく『へのへのもへし』?」
「うん」
子供というものは 面白いことを考えるものだ――と、星矢は思ったのである。
自分も子供だったことを忘れて。
今も十分 子供だという考えは抱かずに。
子供というものは、そういうものなのだろう。

「それで、ペンキを塗りながら、僕と氷河だけがわかる暗号を作ったんだよ。言えない言葉、言いにくい言葉、言っちゃいけない言葉を、『へのへのもへじ』の変形で表現するの。たとえば、『へのへのもへじ』の最初の『へ』の字をハイフンにしたら『トレーニングなんて もうやめたい』、『へのへのもへじ』の『も』の字を『く』の字にしたら『ごめんなさい』とか、そんなふうに」
「おまえら、暇なことしてたんだなー……」
「星矢が逃げるから!」
子供は 自分が子供であることを意識せず、いたずらっ子は自分のいたずらを忘れ、逃亡者は(無事に逃げおおせた時には)自分が逃亡者だったことを忘れる。
人間とは そういうものなのだ。
「ああ、悪かった」
忘れていた罪に関して(一応)謝るだけ、星矢は ましな方なのかもしれなかった。

「でも、『へのへのもへじ』の変形だと、いかにも ふざけた落書きって感じがするでしょう。だから 次に 僕たちは、『へのへのもへじ』の変形を暗号化するルールを決めたの。たとえば、5文字目の『も』の字を『く』の字に変える時は、縦棒を5本書いてから『く』の字を書く。2文字目の『の』の字を『○』に変える時は、縦棒を2本書いてから『○』を書く――っていうふうに」
「それ、言語っていうのか?」
「言語というより、マークだな。非常口のマークや郵便局のマークに類するものだ。暗号化は、そのマークをデジタル化するようなものか。言語とはいえないだろう。そのマークを作った者と、マークの意味を あらかじめ知らされていた者にしか通じないのでは。郵便局のマークを江戸時代の人間に見せても理解してもらえない。解読不可能だ」
「なんか……」

星矢には、少しずつ 状況が見えてきたのである。
アテナイ壁画には、やたらと縦棒がたくさん記されていた。
そういうルールで表わされる記号(言語ならぬ記号)なら、それも道理である。
だが、この場合 問題なのは、
「なんで、それが2万年も前の洞窟の岩に刻まれてるんだよ!」
ということである。
もちろん、その問題にも明確な解答があった。

「それは沙織さんが……」
「沙織さん?」
「沙織さんが、氷河のバイクのエンジン音がうるさくて傍迷惑だから、走りたいなら誰にも迷惑をかけないところで走れって言って、僕と氷河とバイクを 2万年前に飛ばしたんだよ。クロノスに頼んで」
「クロノスに頼んだぁ !? 」
時の神クロノス。
確かに彼なら、アテナの聖闘士を2万年前の旧石器時代に飛ばすことも、1億年前の白亜紀に飛ばすことも可能だろう。
無論、それは、可能だから 実行してもいいことではないだろうが。

「クロノスは、ご丁寧に、時間だけじゃなく、僕たちのいる場所までを移動させてくれた。狭い島国じゃなく、広いヨーロッパ大陸にね。バイクに二人乗りして 城戸邸の門を出たら、急に辺りの風景が変わって、目の前に象が飛び出してくるんだもの、僕、びっくりしちゃった。あれ、クレタゾウだったんだよね」
「へー。ヨーロッパに象なんていたのか。クロマニョン人にも会ったのか?」
「残念ながら人類には会えなかったけど、それどころじゃなかったよ。へたにバイクで走りまわって、動物や人の命を奪ったりしたら、歴史が変わっちゃうかもしれないんだもの。僕たちは 慌てて近くの洞穴に避難して、クロノスが僕たちを元の世界に戻してくれるまで、そこに隠れてることにしたの。でも、万一 長期戦になったりしたら、食料や水の心配をしなきゃならなくなるでしょう。それで、氷河が一人で外の様子を確かめにいったんだ。僕は洞窟に残ってバイクの見張り。一人で 氷河の帰りを待っている間、さすがに不安だったから、その不安を紛らすために、タグで聖衣を出して、チェーンで岩に落書きしてたんだ」

「不安を紛らすために落書き――って……。まあ、不安の紛らし方なんて、人それぞれだろうから、それでもいいけどさあ」
アテナイ壁画には、石英を含んだ硬い岩に どんな道具で文字(実際には文字ではなく記号だったわけだが)を刻んだのかという謎もあると、学者先生は言っていた。
ネビュラチェーンなら、岩壁が石英だろうが ダイヤモンドだろうが、その硬さなど ものともせずに『へのへのもへじ』を刻んでのけるだろう。
アテナイ壁画の筆記具の謎は、つまり そういうことだったのだ。

「そこに氷河が戻ってきて、懐かしがって……クロノスが元に戻してくれるまで、二人で そこで暇潰しに落書きを続けたんだよ」
「子供の頃に遊びで作った暗号なのに、意外と憶えているもんだな。まあ、どこかの誰かは、自分の いたずらの罰に仲間を巻き込んだことも忘れているようだったが」
「で、これ、どういう意味なんだ?」
氷河の嫌味が聞こえなかった振りをして、星矢が 学者先生の置き土産の写真を指差す。
「それが……」
口ごもり 瞼を伏せた瞬に代わって、得意げに 嬉しそうに 星矢の質問に答えてきたのは氷河だった。

「『瞬は氷河が大好き』だ」
氷河が得意げで嬉しそうなのも当然のこと。
そして、
「そんな暗号まで作ったのかよ……」
と、星矢が呆れたのも当然のことだったろう。
今度は氷河が、星矢のぼやきが聞こえなかった振りをする。
「だから、俺は隣りに『嬉しい』と書いた。結論をいえば、これは順に『瞬は氷河が大好き』『嬉しい』『氷河は瞬が大好き』『ありがとう』『ずっと一緒にいよう』『指切りげんまん』と書いてある」
氷河は得意の絶頂、星矢は脱力の極み。
もはや立ち上がる気力もない星矢に(最初から座ってもいなかったが)、
「で、最後の仕上げに、俺たちの愛のやりとりが消えないよう、俺がフリージングコフィンで壁画を保全したというわけだ」
氷河は、冷酷に とどめの最終奥義を繰り出してくれたのだった。

二度と立ち上がることができそうにないほどのダメージを受けても、泣き言や恨み言を言う力が残っているのは、奇跡製造機たる星矢の面目躍如と言えるだろう。
得意満面の氷河に、星矢は 残り少ない力を振り絞って 泣き言を(?)言ってのけた。
「あの学者先生、この壁画のこと、すげー真剣に、神の言語だの 滅びの予言だのって言ってたんだぞ。しかも、おまえらの この落書きは世界遺産に認定されちまってるんだぞ。どうすんだよ!」
「解読されることはないだろう」
奇跡の泣き言も、それを奇跡と認識する人間がいなければ、ただの泣き言である。
氷河は、星矢の泣き言など――“奇跡の泣き言”はもちろん“ただの泣き言”も――いちいち 気に掛けるような男ではなかった。

そんな二人の やりとりの脇で、さきほどからずっと 沙織が肩を震わせながら笑っていた。
沙織の その様子に気付いた星矢は 今やっと、この騒ぎの全貌を俯瞰することができるようになったのである。
「沙織さん、最初から 知ってたんだな!」
「何が書いてあるのかまでは知らなかったわよ。でも、クロノスに頼んで二人を過去に飛ばしたのは私だし、壁画を覆っているのはフリージングコフィンでしょう。硬い岩に刻んだ道具はネビュラチェーンだろうと、すぐに察しはついたわ」
「察しがついてたのに、何も言わなかったのかよ!」
「私に何が言えるというの。だいいち、私は それどころじゃなかったわ。あの先生の前で笑いをこらえるので精一杯。顔の筋肉と腹筋が引きつりまくりで、ほんと、どうなることかと思ったわ」
沙織の深刻な表情と沈黙は、地上世界の終末を憂うからではなく、神の言語が発見されたからでもなく、ギリシャの神々の滅びの予言を知っていたからでもなく――ただ ひたすら 笑いをこらえるためのものだったのだ。
不吉も不安も世界の終末もあったものではない。

「あの先生は、どうすんだよ!」
「どうするもこうするもないわ。神の言語は人間に解読されることはないんだし」
「これは そういう問題じゃないだろ!」
「あら、別に 問題なんか存在しないでしょう。問題どころか、神の言葉が 愛の言葉だなんて素敵じゃないの。滅びの予言ではなくて、恋の告白。ギリシャの神々の言葉としては、これ以上のものは望めないわ。しかも、それが世界遺産に登録されて、氷河と瞬の恋の証を、大勢の観光客が有難がって見学しているというんだから愉快だわ」

「世界遺産……」
沙織に問題はなくても、瞬には それは大問題。
氷河は得意顔だったが、瞬の頬は真っ青だった。
沙織は、しかし、そんなことは全く意に介さない。
知恵と戦いの女神は――ギリシャの神は、そんな繊細さなど持ち合わせていないのだ。
「歴史に刻まれる恋! なんてロマンチックなんでしょう。滅びの予言なんかより ずっと人類のためになるわ。私の聖闘士たちの恋が、人類の未来を明るく照らすオーパーツだなんて、私は 心から誇らしく思うわよ!」

沙織は、あくまでも どこまでも明るく、希望に満ち、そして わざとらしく大仰である。
面倒事に責任を持ちたくないのが見え見えの態度で、誰のせいで そのオーパーツが出現することになったのかを あえて無視し、極めて個人的な落書きが世界遺産に認定された事実までをも 積極的に無視しようとしているのだ、彼女は。
否、沙織は、現実問題から目を背けようとか、責任逃れをしようとか、そんなことすら考えていない。
もちろん、滅びの予言も 世界の終末もあったものではない。
沙織は――知恵と戦いの女神は、ただ ひたすら この状況を面白がっている。
彼女は、人間のすること為すこと すべてが愉快でたまらないと、腹の底から、人間という存在を楽しんでいるのだ。

もしかしたら――否、十中八九――神は、どこの神も そういうものなのだろう。
人間という存在が 愉快でたまらない。
だから彼等は、人間に自由意思を与えて、人間の 生きざまを眺め、心から楽しむ。
神とは 実に無責任な存在なのだ。
ギリシャの神々は特に。






Fin.






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