「兄さんが あなた方の手の内に――って、それはどういうことですか?」
「おまえの兄が俺たちに囚われているということだ。おまえの兄の生殺与奪の権は俺たちが握っている」
「まさか……兄さんに限って――」
兄はアテナの聖闘士である。
アテナの聖闘士の中では 最も下位の青銅聖闘士だが、その戦闘力は 軽く白銀聖闘士を凌駕し、鳳凰座の聖闘士の聖衣の自己修復能力は 黄金聖衣も備えていない力だと、瞬は(兄当人ではなく)仕事仲間たちに教えてもらっていた。
その兄が、他人の虜になるなど――そんな事態は考えにくい。

だから、瞬は、兄に限って そんなことはあり得ないと 彼等に訴えようとした。
瞬が そう反駁することを見越していたかのように、金色の神が、
「我々は神だ」
と、機先を制してくる。
「……」
瞬は、その言葉の前に口をつぐむしかなかった。
それが人間なら、鳳凰座の聖闘士を捕え 自由を奪うことは容易ではないだろう。
だが、神なら。
神になら、それは たやすいことなのかもしれないのだ。

「要するに、兄貴を殺されたくなかったら、俺たちの言うことをきけと言っているんだ。もちろん、俺たちに従うだろうな? 人間ってのは、肉親の情に篤い生き物だそうじゃないか」
「ぼ……僕にできることなら、何でもします。でも、僕は聖闘士でも何でもない、ただの下働きで――僕に何ができるというの……」
非力な弟を人質にとって 鳳凰座の聖闘士に何事かをさせようというのなら、まだ話はわかるが、二柱の神がしていることは それとは真逆の行為である。
瞬には、兄にできず 自分にできることがあるとは思えなかった。
神の考えを量りかねて 眉根を寄せた瞬に、金色の神が ちらりと視線を落としてくる。
銀色の神は ふんと鼻を鳴らし、何か言いたげに口許を歪ませた。
瞬に 瞬のすべきことを命じてきたのは、だが、金色の神の方。

「聖域の北――いや、人間世界の北の果てに、堅固な氷の城砦がある。その砦の奥には小さな壺が一つ秘匿されている。その壺を奪ってくるのが、おまえの仕事だ」
「壺?」
「砦にはアテナの結界が張り巡らされていて、白鳥座の聖闘士が砦と壺を守っている。そして、壺にはアテナの封印が施されている。我々 神には、アテナの結界の中に入り込むことも、アテナの封印を破ることもできない。それは、アテナに敵意のない人間にしかできないことなのだ」
「じゃあ、あなた方はアテナの敵なの?」
アテナは地上の平和と安寧を守る神――人間世界を守護する神である。
そのアテナの敵となれば、彼等はアテナの聖闘士の敵、人類の敵、平和の敵ということになる。
アテナの聖闘士ではないにしても アテナの聖闘士になりたいと望んでいる人間に、アテナの敵を利するようなことができるわけがない。
瞬の問い掛けに、だが 金色の神は答えを返してこなかった。
ただ、
「我等が仕えているのはアテナではない」
と言っただけで。

つまり 彼等は、アテナに敵対する者ではないが、アテナの意に沿う者でもない――ということなのだろうか?
アテナの意に沿うことをしない者――そんな者たちに、どうして鳳凰座の聖闘士の弟が屈し、従うことができるだろう。
瞬には、彼等の考えが――人選が、まるで理解できなかった。
アテナの結界やアテナの封印が 人間にしか破れないものだというのなら、確かに瞬は人間であるから その人選は正しい――と言えるだろう。
だが、その壺と壺のある砦をアテナの聖闘士が守っているというのなら、彼等は そのアテナの聖闘士以上の力を持つ者、せめて そのアテナの聖闘士に伍する力を持つ者を 利用しようと考えるのが妥当なのではないだろうか。
つまり、アテナの聖闘士を。
アテナの聖闘士のアテナに対する忠誠心を崩すことはできないと思っているのなら、アテナの聖闘士以外の人間の中で最も強大な力を持つ者を、その手先にしようと考えるのが順当。
彼等はなぜ、人間の中でも最も弱い者を選んで、その無謀に挑ませようと考えたのか。
瞬は彼等の人選が得心できなかった。

「僕は聖闘士でも何でもないんです。何の力もありません。アテナの聖闘士が守っているものを奪うなんて、そんな大それたことができるわけがありません――したくても、できない」
もちろん アテナに逆らうようなことはしたくないが、それ以前に“できない”のだ。
それだけの力がない。
瞬の その訴えに、金色の神は思いがけない答えを返してきた。
彼は、あろうことか、
「おまえには、その清らかな美貌があるではないか。おまえは、自分が思っているほど無力ではない」
と言って、瞬の力を示唆してきたのである。
ヒュプノスの言葉に あっけにとられた瞬に、
「清らかなことに どんな価値があるのか、俺には全くわからないが、価値があると感じる者も多いらしいからな」
と、銀色の神が毒のある言葉を言い添えてきた。

「そ……それは どういうこと……」
「察しの悪いガキだな。その綺麗な顔を駆使して、白鳥座の聖闘士を誘惑し、たらしこみ、隙を見て アテナの結界の外に壺を持ち出せと言っているんだ」
「アテナの聖闘士が アテナの命を受けて守っている壺だ。理で 渡せと説得することはできないだろうし、力で屈服させることもできない。となれば、情や欲に訴えるしかないだろう」
それは 極めて理論的で自然な考えだと、金色の神は思っているらしいが、瞬にはそうは思えなかった。
論理的どころか。
瞬には それは、それこそ 理の無いこと――無理なこととしか思えなかったのである。

「そ……そんなこと、無理です。だいいち、僕は、その白鳥座の聖闘士を知りません」
「そんなことは、俺たちの知ったことじゃない。俺たちは ただ、アテナの聖闘士を誘惑するのに最も適した綺麗な顔の持ち主を誘惑者に選んだだけだからな」
「どうしてもできぬというのなら、おまえの兄が死ぬだけだ」
「そんな……!」
瞬は泣きたくなってしまったのである。
兄の命は助けたい。
何としても助けたい。
だが、無理なものは無理なのだ。

「ゆ……誘惑なんて、どうすればできるの」
「肌を露わにして、意味ありげな目で見詰め、色っぽく……ははは、おまえには無理か」
銀色の神が、自分の提案を自分で笑い、無理だと断じる。
無責任極まりない神は、わざとらしく肩をすくめ、
「仕方ない。鳳凰座の聖闘士を殺すしかないか」
と、ふざけた口調でぼやいてみせた。
「だめっ!」
いくら何でも――人間の力を凌駕する力を持つ神でも、それは あまりに身勝手で無責任、あまりに理不尽である。
瞬は、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべている銀色の神の前で 悲鳴をあげた。

そんなふうに、いいように銀色の神に からかわれている瞬を哀れんだのではないだろう。
哀れみの心などというものを持ち合わせているのなら、そもそも彼は こんな無理難題を 鳳凰座の聖闘士の弟に持ち掛けたりはしなかったはずだった。
おそらく彼は――金色の神は――最初から それを瞬に与えるつもりだったのだ。
アテナの結界が張り巡らされた氷の城砦の中で、アテナの封印が施された壺を守っているアテナの聖闘士に抗する武器として。
「では、これを使うがいい」
そう言って、金色の神が瞬の前に差し出したのは 剣でも弓でもなく、小さなガラスの小瓶だった。

「これは何……? まさか、毒……?」
「我等は死と眠りを司る神。であればこそ、死や眠りを弄ぶことはしたくない――安易に人間の命を奪うようなことはしたくない。これは毒ではない。むしろ、生き物の命を奪う毒とは対極にあるもの。これは愛を生む秘薬。この瓶の中には、愛の神が作った人の心を惑わす香りが入っている」
「愛を生む秘薬……?」
「そうだ。この香りを嗅がせれば、その者は、その時 最も自分の側にいる人間を愛するようになる。魔法の愛の薬だ」
「眠りを司る神ヒュプノス様は、さすがに お上品な言葉を使う。何が愛を生む秘薬だ。要するに、匂いを嗅いだ途端に、手近な者に激しい情欲を催す催淫剤だろう」
「この薬を作った愛の神は、愛とは 美しいものを希求する心、この薬が生む愛も そういうものだと言っていたが」
「それこそ、情欲を綺麗な言葉で飾り立てただけのことだ」
お上品な言葉、綺麗な言葉を駆使する神々を嘲っているように そう言って、銀色の神は 戸惑い顔の瞬の上に 視線を運んできた。

「北の城砦を守る白鳥座の聖闘士は、貴様の兄貴とは いわば同輩同僚。行方不明の兄を探しに来たとでも言えば、その弟を無下に追い払ったりもしないだろう。貴様は たやすく氷の砦に入ることができる。その姿の他には何の力も持っていないおまえだからこそ、白鳥座の聖闘士も油断する」
「僕には とても――」
「俺たちは あんまり気の長い方じゃない。期限は ひと月弱――次の新月の夜までだ。次の新月の夜までに、アテナの結界の外に壺を持ってこい。でないと、貴様の兄貴は、俺とヒュプノスから 死と永遠の眠りを贈られることになるだろう」
「次の新月……」
「ま、貴様が白鳥座の聖闘士を籠絡できるかどうかという問題は さておいて、ともかく、貴様は あの砦の中に入り、白鳥座の聖闘士に会わなければならん。そうしなければ、貴様は、兄を助けるどころか、兄を助けるための努力もできないうちに、ここで凍え死んでしまうからな」
「えっ」

いったい それはどういうことなのかと、タナトスに問う必要はなかった。
瞬は いつのまにか純白の世界の中央に立っていたのだ。
つい先ほどまで 瞬の視界を埋め尽くしていた色とりどりの花は消え、今 瞬の目に映るものは 白い雪と水色の空。
その2色で半分ずつに塗り分けられたような世界。
2つの色の境界に、まるで雪の大地が空に向かって鍵を差し込んだように、純白の砦が建っている。
瞬は、いつのまにか、世界の北の果て、アテナに封印された壺が隠されているという氷の城砦の前に運ばれていたようだった。
城砦の門まで、もう さほどの距離はない。
瞬の足で、せいぜい4、50歩。
城砦の門と壁の内は アテナの結界が張られており、金銀の神は その中にまでは瞬を運ぶことはできなかったのだろう。

タナトスとヒュプノスの姿は、この白い世界の内にはない。
ただ 雪の上に、炎の色をした小瓶が落ちているだけだった。
まるで、前に進むのも進まないのも、小瓶を拾いあげるのも拾わずにいるのも、おまえの自由だというかのように無造作に、瞬と 小瓶は 白い世界の中に放り出されていた。
小瓶を拾うか 拾わないか、城砦に向かって歩き始めるか、この白い雪の世界の ただ中に留まるか。
小瓶を拾わず、この場を動かなければ、自分はアテナに反逆することなく、罪を知らぬ清らかな人間のままでいられるだろう。
だが、それは、自分の命だけでなく 兄の命をも見捨てることになるのだ。
瞬が迷ったのは、ほんの一瞬だけだった。

兄は生きたいだろう。
生きていたいに決まっている。
ならば、兄のために自分が汚れることが どれほどの苦しみだというのか。
両親を亡くして、兄に守られ庇われ生きていた幼い頃。
長じてからも、兄という存在は、常に瞬の心の支えだった。
兄は生きたいだろう。
生きていたいだろう。
ならば、その願いを叶えなければならない。
そう思うから――白い雪の上に転がっていた 炎の色をした小瓶を拾いあげ、瞬は、白鳥座の聖闘士が守っているという氷の城砦に向かって歩き出したのだった。






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