『友だちなど必要ではない。陽の光や空気や水があれば』
そう言いながら――そう言っていたくせに、氷河は瞬に親切だった。
瞬に、生活の様々な場面で 細やかな気遣いを示してもくれた。
アテナの命令が最優先と言いながら――実際、その務めを おろそかにしているわけではないのだろうが――突然 自分の懐に飛び込んできた怪しい闖入者に、彼が ここまでの親切を示してくれるのは なぜなのか。
彼が、彼の任務の役に立たない人間を ここに引き留めておこうとするのは なぜなのか。
彼は やはり ここで一人孤独に アテナの聖闘士としての務めを果たしているのが つらかったのだろうと、瞬には思えてならなかった。

“思えてならなかった”――それが実は、“そう思いたくて ならなかった”だったことに 瞬が気付いたのは、瞬が氷の砦に やってきて20数日以上が経った ある日。
次の新月の夜が あと2日後に迫った日の夕刻だった。
その頃には、瞬も気付いていたのである。
氷河は氷雪の聖闘士で、寒さには強く――というより、暑さに弱く、彼が居間や食堂の暖炉に火を入れ起こしてくれるのは 瞬のためで、彼自身が暖を必要としているからではないということに。
彼は、彼が生きていくのに絶対に必要なものではない(はずの)瞬のために、わざわざ そうしてくれているのだ。

なぜ。
それは もちろん、必要だから――に決まっている。
陽光や空気や水ほどではないにしても、やはり彼には 友だちが必要なのだ――孤独でいないためのものを必要としているのだ。
自分のために暖炉の火を気にしてくれている氷河を見て、瞬は そう思った。

「なんだ?」
暖炉に薪をくべ、振り返り、瞬の視線が自分に注がれていることに気付いた氷河が、瞬に尋ねてくる。
親切にしてやる必要のない人間に 親切にしてくれる人の顔を見上げ、瞬は呟くように、
「一人でいることが寂しくない人がいるなんて、そんなの信じられない……」
と言った。
「そういう人間もいる。おまえの兄だって、『群れるのが嫌いだ』が口癖だろう」
「兄は情が深いから、わざと そんなふうに言うの。大切な人には どこまでも のめり込んでしまう自分を知っているから、わざと そんなことを言って――兄さんは兄さん自身を牽制しているんだよ」
「……」
あり得ることと思ったのか、氷河は、瞬の言葉に異を唱えることはせず、無言で瞬を見詰め返してきた。

「氷河が アテナの聖闘士として戦うのは、地上の平和を守るため、そこに生きる人々の暮らしを守りたいからでしょう? 人を愛することを知らない人が――愛する人を必要としない人が、アテナの聖闘士になれるはずがない」
だから氷河は“一人”が嫌なはず。
少なくとも、一人でいることを好むはずがない。
瞬は そう考え、氷河が その事実を認めてくれればいいと願っていた。
氷河は、だが、『そうだ』と答えてはくれなかった。――すぐには。
長い間をおいてから、瞬の頑固に呆れたように 短く吐息して、
「愛する人はいた。もう 死んでしまったが」
と告白してくる。

「え……」
決して孤独を好んでいるわけではないという事実を やっと氷河が認めてくれた――と、瞬は その告白を喜ぶべきだったのかもしれない。
氷河は やはり他者を求め愛することができる人間で、実際に愛する人がいた。
その人が既に失われてしまった人であっても、氷河は愛を不必要なものと思っているわけではなく、“一人”を好んでいるわけでもなかったのだ。
そうであることが わかったのだから、瞬は喜んでいいはずだった。
にもかかわらず、瞬は、氷河のその告白を 全く喜ぶことができなかったのである。

『愛する人はいた』
その人は、氷河の恋人だったのだろうか――おそらく、そうだったに違いない。
そう思った途端、瞬の胸は、鋭いナイフを突き立てられたように痛み、瞬の瞳の奥は にわかに熱を帯び始めた。
瞬は、考えたことがなかったのである。
氷河に愛する人がいて、だが その人を失ったという可能性、失った人が大切すぎて、氷河が 他の誰かを必要だと思うことができなくなったという可能性を。

「ご……ごめんなさい。つらいことを思い出させてしまって……」
胸が痛い――あまりに痛くて、何かを考えることができない。
だから、瞬の謝罪は、おそらく言葉だけのものだった。
新月の夜まで、あと2日。
兄を救わなければならない。
氷河の心が 誰か他の人のものだというのなら なおさら、兄だけは絶対に救わなければならない。
瞬は、自分が今 何を考えているのか――否、どんな衝動に支配されているのかが、よくわかっていなかった。
兄を助けなければ 自分が孤独になる――兄だけは何としても救い出さなければならない。
ただ、そんな思いだけが 渦巻き、降り積もり、瞬の中を埋め尽くしていた。






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