氷河は嘘をついていない。 そして、タナトスもまた嘘をついていない。 その からくりは、まもなく瞬の知るところとなったのである。 氷河の嘘ではない言葉に狼狽したタナトスが洩らした、嘘ではない言葉によって。 「瞬の兄が ここにいるだと? 馬鹿な。地上世界のすべてを見通すことのできる我等の目をもってしても、瞬の兄の姿を この地上のどこにも見い出すことはできないんだぞ。この地上に姿がないということは、死んでいるということ。フェニックスは 我等の許に――冥界にいるということだ」 「に……兄さんが死んだ……?」 「一輝が死んだ? 嘘をつくな。あいつは殺しても死なないから不死鳥なんだ。あいつは、この砦の奥で ぴんぴんしている」 「何を言う。嘘をつくことが許されている人間の言葉など信じられるか!」 「タナトス。キグナスは嘘を言ってはいまい。アテナの結界が我等の目の邪魔をしたのだろう。アテナの結界の中にいたから、我等は すべてを見通す我等の目をもってしても、フェニックスの姿を見付けられなかったに違いない」 同輩の慌て振りを見ていられなくなったのか、それまで沈黙を守っていたヒュプノスが初めて口を開く。 眠りを司る神の推察は正鵠を射たもののようだった。 氷河が、あまり楽しそうではない様子で――明らかに不本意そうに――そのあたりの事情を語り出した。 「一輝は、アテナに何か面倒事を命じられたらしい。おそらく戦い以外の雑務。それをするのが嫌で、アテナの目から逃れるには聖域以外のアテナの結界の中にいるのが いちばんだとか何だとか言って、この砦にやってきたんだ。そこに瞬が来て――あの馬鹿野郎は、兄がぐうたらな聖闘士だということを瞬に知られたくなかったらしい。ここにいることを瞬には知らせるなと、偉そうに俺に命じやがった」 「兄さんがここに……」 瞬は もしかしたら、氷河に出会ってから初めて、一抹の恐れも 負い目もなく――むしろ、それらを忘れて と言うべきか――氷河の顔をまじまじと見詰めた。 そんな瞬の様子を見て、もう瞬に逃げられることはないと確信したのか、氷河は それまで何があっても瞬を離さずにいた腕を解いた――瞬に、自分の足で立つことを許してくれた。 もちろん瞬は もう、氷河からにげることは考えていなかった。 というより瞬は、それどころではなくなっていたのである。 「そんな……じゃあ、僕は、あんな思いをして――アテナを裏切るようなことまでして、氷河を騙すようなことまでして――それで兄さんを助けられるんだと思っていたのに、僕がしたことは 何の意味もないことで……じゃあ、僕は 今まで、氷河に嫌われ憎まれるためだけに、無意味な空回りをしていたっていうの !? あんな思いをして、結局、僕は ただ氷河に嫌われただけなの…… !? 」 あまりのことに、まともに ものを考えることができず、まともに言葉を組み立てることもできない。 自分は この ひと月近く、兄にも氷河にも 自分自身にも益のないことのために――益がないどころか、害するために――必死に努めていたのだ。 そう思うと、自分に そんな非道をさせた二柱の神々に腹が立ち、それ以上に、自分の愚かさに腹が立ち、それ以上に、自分が氷河に対して為してしまった罪への後悔が耐え難く、やり切れなく、そして、そんな自分が悲しかった。 自分のことなのに、氷河の前で、腹を立てればいいのか、泣けばいいのか、悔いてみせればいいのかが わからない。 いっそ 自分の愚かさを 思い切り笑い飛ばしてしまおうかとさえ、瞬は思ったのである。 そんなふうに 瞬の心は迷っていたのに、瞬の瞳は勝手に涙を 零してしまっていたらしい。 氷河が その指で 瞬の涙を すくい取る。 そして、彼は 穏やかな口調で――少なくとも激昂しているようには聞こえない声で――むしろ 戸惑っているような声で、 「俺はおまえが好きだが」 と言った。 氷河の その言葉を聞いて、瞬は 自分に腹を立てる権利などないことは わかっていたのに、彼の嘘を責めてしまったのである。 「嘘っ。氷河は 愛する人がいたって――死んでしまったけど、愛する人がいるって……」 だから 瞬は絶望し、混乱し、我を失い、あの卑劣な薬を氷河に対して使ってしまったのである。 使うつもりなどなかったのに。 氷河には愛する人がいて、氷河は決して その人を忘れることはないだろうと思ったから。 たとえ それが紛いものの愛でも、たとえ ほんの いっときでも、氷河に愛されたいと思ったから。 自分を本当の裏切者、本当の反逆者にした、氷河の あの言葉。 自分を卑劣な人間にした、あの言葉。 あの残酷な言葉を、氷河は嘘で糊塗しようというのか。 それが心ならずも卑劣な反逆者になってしまった者への同情から出たものだったとしても――同情だというのなら なおさら――瞬は 氷河に そんなことを言ってほしくなかった。 涙ながらに氷河をなじった瞬に、氷河が思いがけない言葉を告げてくる。 「あれは――俺が失った愛する人というのは、俺のマ……母のことだが」 「えっ……」 馬鹿げた誤解、早とちり。無意味な空回り。 「で……でも、愛の神が作った愛を生む薬が――氷河は きっと あの薬のせいで……」 「愛の神が作った愛を生む薬? あの変な匂いが そうだったのか? 俺は そんな薬に惑わされて、おまえに あんな無体を働いてしまったのか? なら、済まない。許してくれ」 あろうことか、氷河が、彼に卑劣な薬を用いた愚か者に 頭を下げてくる。 瞬の混乱は一層 大きくなり――瞬はただ、卑劣な反逆者に謝罪してくる氷河の前で、ぽかんと腑抜けのように立ち尽くすことになってしまった。 幸い 氷河は、すぐに彼の謝罪を切り上げてくれたのだが。 「しかし、あの薬に大した力があったとは思えない。あの変な匂いを嗅がされる ずっと前から、俺は おまえが好きだったんだ。初めて会った時から、おまえは可愛くて、綺麗な目をしていて――うむ。やはり、あの薬は何の力も持っていなか――」 「そ……そんなはずないよ! あの薬が氷河を変えてしまったんだ! あんなに優しかった氷河が、あの薬の匂いを嗅いだ途端に 違う人みたいになって――恐い人になって、僕、恐くなって――」 あの薬が何の力も持っていなかったはずがない。 だとしたら、氷河の豹変に説明がつかない。 氷河が本当に恐い人だったことになってしまう。 そんなことがあるはずがない。 あの薬に強力な力があったのか なかったのか、そのどちらが よりよいことなのかがわからず、瞬は また氷河の前で ぐすぐす泣き出すことになった。 「いや、それはだな。それは、つまり……」 氷河が、そんなに瞬に、しどろもどろで言い訳を始める。 「俺は、初めて おまえに会った時からずっと、おまえのことが好きだったんだ。おまえは 奇跡のように澄んだ瞳の持ち主で、俺は本当に 一瞬で恋に落ちた。だが、その澄んだ瞳が むしろ問題で――おまえは清らかで、おまけに、あの一輝の弟だ。感情に任せて 迂闊なことはできない。そんなことをしたら、俺は確実に一輝に殺される。だから、俺は ずっと我慢していたんだ。そんなところに、おまえに思い詰めた目をして、『好きだ』なんて言われてみろ。怪しい薬の世話にならなくても、理性なんて一瞬で ぶっ飛ぶぞ」 「ぶっ飛……」 人間には嘘をつくことが許されている。 氷河は、自分に都合のいい綺麗な言葉で事実を飾り立てることもできるはずだった。 にもかかわらず、そんな言葉で そんなことを言うのは――それが飾らない事実だからなのだろうか。 呆然としている瞬を見て、自分が言葉の選択を誤ったことに気付いたらしく、氷河は慌てて 再び低姿勢の謝罪態勢になった。 「す……済まない。次は もっと優しくする。桜の花を扱うように優しくするから、もう嫌だとは言わないでくれ。叶わぬものと諦めていた恋に 急に希望が与えられて、俺は1秒でも早く おまえを俺のものにしなければ、希望が幻のように消えてしまうような気がして、冷静でいられなかったんだ。おまけに、おまえの身体ときたら、あれは何だ。俺を喜ばせるためにあるような――俺の正気は、すぐに おまえの肌に吸い取られてしまった。へたに聖闘士で、体力だけはあるもんだから、俺は歯止めがきかなくなり――おまえは もう無理だと言いながら、そのたび 俺に絡みついてきて、俺の理性を搾り取ろうとするし、おまえは憶えていないかもしれんが、俺は何度か、続きはあとにしようと言ったんだ、そのたびもおまえは『今、もっと』と言い張って――」 「あ……あの、氷河……」 「あ、ああ、すまん。おまえを俺のものにできた感激を思い出して、つい」 「そ……そうじゃなくて――」 これほど強大で攻撃的な小宇宙に、氷河は なぜ気付かないのか。 それが 瞬には理解できなかった。 もはや 氷河の言葉を疑う気持ちはない。 氷河は、卑劣で愚かな反逆者を嫌っても憎んでもいない。 愛の神が作った秘薬が 彼にどれほどの影響を及ぼしたのかは わからないが、その効力が消えても、氷河は 愚かな裏切者を好きでいてくれる。 その気持ちを疑うことは、瞬には もうできなかった。 そうではなく、今 瞬の中にある疑いは、周囲が これほど強大な小宇宙に包まれていることに気付いていない氷河は 本当にアテナの聖闘士なのだろうか――ということだった。 「ん?」 瞬の青ざめた頬を見て、氷河が初めて その異変に気付く。 ほぼ同時に、彼の背後から、まるで地獄の底から這いあがってきた悪鬼のそれのような声が響いてきた。 「誰が誰の理性を搾り取っただと……?」 「こ……この声は まさか――」 『まさか』も『もしや』もない。 白鳥座の聖闘士の仲間で同僚で同輩で、地上の平和を守るという同じ目的のために共に戦うアテナの聖闘士。 氷河が 恐る恐る後ろを振り返ると、そこに鬼の形相をした瞬の兄が、憤怒の小宇宙全開で、仲間で同僚で同輩で 地上の平和を守るという同じ目的のために共に戦うアテナの聖闘士であるところの白鳥座の聖闘士を睨みつけていた。 聖闘士でない瞬にも容易に感じ取れる、鳳凰座の聖闘士の烈火のごとき怒り。 その怒りが なぜ生まれ、誰に向けられたものなのかということは、氷河にも すぐにわかったようだった。 我が身の危険を敏感に察知した氷河が、素早く(今更という気もしたが)防御の態勢に入る。 「い……一輝、一大事だ。ハーデスの魂を封印したアテナの壺が、ハーデスの手の者に――」 「何を言っている。ハーデスの手の者とやらがどこにいる。アテナの壺は、そこに転がっている。ごまかすな! 貴様、俺の弟をどうしたんだ!」 氷河が周囲を見まわすと、なぜか そこに金銀二柱の神の姿はなかった。 それは いつのまにか、忽然と消えてしまっていた。 「あの卑怯者共、逃げたなっ! 神のくせに敵前逃亡とは、惰弱にも ほどがある!」 「何をぎゃあぎゃあ わめいている! 貴様こそ、逃げるなっ」 「貴様に冷静に話し合う用意があるのなら、俺だって逃げたりは――」 「瞬をアテナの聖闘士にというアテナの命令を拒否するために、俺が表に出られずにいるのをいいことに、よくも……!」 「僕がアテナの聖闘士……?」 「おかげで腹が決まった。瞬は聖闘士にする。貴様の毒牙など一瞬で撃退できる力を持った聖闘士に、この俺が鍛え上げてやるぞ」 「瞬を聖闘士にするだとーっ !? 」 氷河は 瞬の兄の計画を あまり喜んではいないようだったが――瞬の兄の拳を かわすのに手一杯で、それどころではないようだったが――もし そうすることが許されるのなら、それは瞬には願ってもないこと。分不相応にも思えるほどの光栄、僥倖以外の何物でもなかった。 地上の平和とアテナを守るために、兄や氷河と共に戦うことができるのだ。 幸い、聖域にも アテナに対しても具体的な不利益や損害を被らせずに済んだが、アテナの聖闘士として命を賭して戦うことは、この反逆未遂の贖罪にもなるだろう。 兄に追いかけまわされ、その渾身の拳を、さすがはアテナの聖闘士としか言いようのない素早さで回避し続けている氷河に感心しつつ、瞬は今、一気に取り戻すことができた 多くの希望や夢の中で、言いようのない幸福感に身を浸していたのである。 ほんの少しだけ、胸中で こっそり、金銀二柱の神に感謝しながら。 |