普通の男






「普通の男になりたい」
おそらくグラード学園高校で最も普通でない男であるところの氷河が そんなことを言い出したのは、立秋どころか処暑も過ぎたというのに夏日が続いている、とある(暦の上では一応)秋の日のこと。
学年やクラスは違うが(むしろ、違うからこそ)、毎日 放課後に学園内のカフェテラスに集まるのを習慣にしている彼の仲間たちは、その発言に 揃って驚きの表情を浮かべることになったのだった。

「自分が普通の男でないことを、おまえが ちゃんと自覚していたとは」
そう言って 感心してみせたのは 氷河と同じ2年生、ウーロン茶を飲んでいた紫龍だった。
「いや、いくら氷河だって、自分が異常で、でたらめで、破茶滅茶で、言語道断な男だってことくらいは ちゃんとわかってるだろ。わかってなきゃ、馬鹿だぞ馬鹿」
と応じたのは 氷河より1学年下、メロンソーダを飲んでいた星矢。
「氷河は特別で、非凡で、ユニークなんでしょう。異常で でたらめだなんて、そんなことないよ」
フォローを入れたのは、星矢と同学年で、アイスティーを飲んでいた瞬。
ちなみに、氷河の前には手つかずのペリエが置かれている。

彼等は全員 親が亡く、現在は、紫龍は血のつながらない祖父の許に引き取られ、星矢は成人した姉と二人暮らし、瞬は 同じく成人した兄と二人暮らし、氷河は、実母の死後 名乗り出てきた父親(らしき人物)に買い与えられたマンションで一人暮らしをしていた。
幼い頃の数年間、同じ養護施設で過ごしたことがあり、その際に結ばれた友情が現在にまで続いている。
性格も価値観も全く異なる彼等の友情が十数年の長きに渡って途絶えることがなかったのは、むしろ その性格や価値観の違いが上手く噛み合っていたためだったかもしれない。
無条件に愛し守ってくれる親がない幼い子供を 愛し守り支えてくれたのは、同様に 幼く、同様に 親のない仲間たちだったのだ。
彼等の友情と信頼は極めて強固。
であればこそ、歯に衣着せず、言いたいことを言い合いもするのだが。

「非凡か異常かはともかく、氷河が普通の男でないことだけは確かだよな。それが なんだって また、普通の男になりたいなんて、大それた望みを抱くことになったんだよ」
「おまえが なりたい“普通”というのは、平凡、中庸、人並み、どれなんだ。そのどれなのかで、対処方法も違ってくるぞ。人並みになりたいのなら、それは努力で どうにかなるかもしれないが、平凡というのは、努力しても なれるものではないだろう」
「確かに。何をすれば平凡になれるのかって訊かれても、俺、答えられねーや。平凡でいられるって、ある意味 才能だよな。だいいち、おまえ、そもそも 見てくれからして、普通でも平凡でもないし」
「氷河は綺麗だもんね」
「……」
紫龍や星矢に何を言われても 全く動じる気配を見せなかった氷河が、瞬に褒められた(?)途端、奇妙に顔を歪める。
30秒ほどの時間をかけて、彼は自身の顔の歪みを元に戻した。

「外見は仕方がない。マ……親からもらったものを変えようとは思わん。俺は、それ以外の部分を普通にしたいんだ。特別でなく、異常でなく、普通に」
「でも、氷河の普通でないところって、綺麗なのも、成績がいいのも、運動神経がいいのも、優しいのも、全部 美点でしょう。氷河は それを失くしたいの?」
「つーかさあ。普通になりたいなんて、普通の人間は考えないもんだろ。そこからして もう、おまえは普通じゃないんだよ。根本が普通じゃねーの。おまえが普通になるなんて、土台 無理な話なんだよ」
氷河が“普通”になることに反対らしい瞬と、そんなことは無理だと思っているらしい星矢。
紫龍が自分の意見を口にしないのは、彼が 瞬か星矢のいずれか、もしくは両方に賛同しているからだろう。
要するに、氷河の幼馴染みたちは全員が、“氷河”と“普通の男”をイコールで結ぶことに乗り気ではないのだ。
が、氷河は、仲間たちの反対に会っても、自らの希望(?)を断念する気はないらしかった。
彼は断固とした口調で仲間たちに食い下がった。

「それでも、どうしても普通にならなければならないんだ! 特別でなく、異常でもなく、普通の男に。おまえ等だって、異常な男を友だちに持っていたくはないだろう!」
そう言って、氷河が、なぜか瞬に 探るような視線を向ける。
その視線への答えは、星矢と紫龍から返ってきた。
「異常な男を友だちにしたいなんて思ったことはねーけど、長年 おまえの友だちしてきたんだし、もう慣れたぞ。異常な男の友だちでいることには」
「うむ。異常な男を友だちに持っているのも、一概に悪いこととはいえないぞ。退屈しないし、面白いじゃないか」
星矢と紫龍は、“氷河”と“普通の男”をイコールで結ぶことに乗り気でないというより、“氷河”と“異常な男”を既にイコールで結んでおり、しかも その等号を 動かし難く 変え難いものと思っているだけなのかもしれなかった。

そんな二人に、氷河が一瞬 むっとした顔になる。
それから氷河は、長い付き合いの仲間の切なる希望と可能性を はなから全否定するような者たちの相手をするのは時間の無駄というような態度で、瞬の方に向き直った。
「瞬は……おまえも平気か? 異常な男が側にいても」
普通の男になりたいと言いながら、そう言う当人が『“氷河”イコール“異常な男”』を大前提にしている。
そんな訊き方をされて、瞬は少々 戸惑ったようだった。
困ったように僅かに眉根を寄せ、遠慮がちに首をかしげる。

「異常な人って言われると、それはちょっと嫌かもしれないけど」
「やっぱり……」
「でも、氷河は異常なんじゃなく、特別なんでしょう。いろんなこと、他の人より卓越してるの。異常とは違うよ」
「そんな気休めはいらん! 違う! 俺は異常なんだ!」
「氷河……」
力説するようなことでもあるまいに、瞬の言を気休めと決めつけて、氷河が 大きな声で 自らの異常性を主張する。
長い付き合いの友人の力強い断言に、瞬が あっけにとられる様を見て、氷河は今の自分が かなり冷静さを欠いていることに気付いたらしい。
はっと 我にかえり、暫時 気まずそうに口許を引きつらせてから、彼は、
「異常でなくなりたい」
と、再び 低い声で呻いた。

自らの異常性を自覚できているらしい仲間を、さすがに哀れに思ったのか、星矢が 初めて氷河に協力する姿勢を示してみせる。
「異常でなくなりたい、ねー。だったら、逆からアプローチしてみるってのはどうだ?」
「逆からアプローチ?」
「ああ。ほら、よく言うじゃん。『男は みんな助平だ』だの、『男は みんなオオカミだ』だの、『男は みんなマザコンだ』だの、『男は みんな浮気者だ』だの。そうなればいいんじゃねーのか? みんなが そうだってことは、それが普通だってことだろ?」
仲間を異常と決めつけて そんな提案をしてくる星矢は、自分自身を助平でオオカミでマザコンで浮気者の普通の男だと思っているのだろうか。
その点に関して 氷河が突っ込みを入れなかったのは、星矢の提案が あまりに馬鹿馬鹿しすぎて、まともに 取り合う気になれなかったからだったのだろう。
代わりに紫龍が、(面白がって)星矢の相手をし始める。

「氷河の場合、マザコン要素は もう十分だろう」
「んじゃ、あとは、助平で、オオカミで、浮気者になればいいんだ」
「しかし、自分が普通の男だということを第三者に認めてもらうために、助平で、オオカミで、浮気者の証明をするわけにはいくまい。へたに証明したら、犯罪になる」
「紫龍!」
話のための話にしても あまりだと思ったのか、瞬が その名を呼んで、紫龍の言を遮ってきた。
「紫龍、そ……そんな、す……助平だとか、オオカミだとか、そんなこと 証明できるわけないでしょう。氷河は そんなんじゃないんだから。ねえ、氷河」
「え? あ……ああ、もちろんだ」
氷河に確認を入れる瞬の口調と眼差しには、長い付き合いの仲間への信頼に満ち満ちている。
瞬の信頼が意想外だったわけではないだろうが――瞬が仲間を信じきっていることを奇異に思ったわけではないだろうが――氷河は 意表を突かれたような顔になり、それから妙に大仰な身振りで 瞬に力強く頷き返した。
そんな氷河を横目に見て、星矢が 片眉を しかめる。

「そーいや、おまえくらい顔がよかったら、女なんて よりどりみどりだろうに、おまえって浮いた噂一つねーよな。そこも普通じゃないってーか、常道に反してるっていうか」
「氷河は 普通に もてない男だということもできるぞ」
「氷河は、性格は もてなくて当然の性格してるけど、見てくれはいいから、氷河がもてないのって普通じゃないことみたいな気がするけどなー」
「どちらにしても、どこまでいっても、氷河は“普通”に縁のない男というわけか」
「氷河は、“普通”に嫌われてるんだよな、きっと」
「“普通”の気持ちも わからないではないな」
星矢と紫龍は完全に、『普通の男になりたい』という 普通でない願いを願っている氷河を面白がっている――真面目に相談に乗っていない。
そして、星矢と紫龍が勝手なことを言えば言うほど、瞬は懸命にフォローに努めることになるのだった。

「氷河が 女の子に もてないなんてことないよ。氷河は優しいし、綺麗だし、きっと 女の子たちには 氷河は ちょっと近寄り難い存在なんだよ。それで、遠くから憧れることしかできずにいるっていうか……。女の子たちにとって、氷河は 高嶺の花なんだよ」
「おい、瞬。友だちの贔屓目も大概にしろよ。こういうことは、氷河のためにも ずばっと真実を指摘して、現実を見るように促してやるべきなんだよ。それが本当の友情ってもんだぜ」
「そうだな。事実と かけ離れた慰めは 害にしかならない。氷河を花に例えるのには無理がありすぎる」
顎をしゃくって、紫龍が、星矢の友情論に賛同の意を示す。
そうしてから、彼は、否定意見ばかりでは よろしくないと思ったのか、彼なりの“花”についての見解を提示してきた。
「花は瞬の方だな。高嶺に咲いているというより、身近に咲いているのに 摘んではならないような気にさせる花だが」

異議異論があるはずはないのに――なぜか 氷河が、紫龍の“花”論に、ぎくりと肩を強張らせる。
そんな氷河の反応を訝りつつも、紫龍は その場の意見の総括にとりかかった。
「そういうわけで、氷河。おまえは、そこに いるだけで目立つ男なんだ。“普通”は諦めろ」
「そーそー。おまえが普通の男になろうなんて、そんな大それた望みを持つこと自体が 無駄な足掻きなんだよ」
「僕も、氷河は 無理に変わる必要はないと思うけど……」
瞬は、氷河が異常な男だという星矢たちの意見には賛同できないらしいが、『普通の男になりたい』という氷河の望みを歓迎できないという点では、星矢たちと同じスタンスに立っているようだった。

仲間全員に“反対”を突きつけられてしまった氷河は、しかし、それでも“普通”の夢を捨てきれないらしい。
彼は、もう一度、瞬に同じ質問を繰り返した。
「だが、おまえは、異常な男は嫌なんだろう」
「だから、氷河は異常なんじゃなく、特別なだけでしょう」
「……」
瞬が、最初の質問時と同じ答えを、最初の質問時と同じように 確信に満ち満ちた態度と きっぱりした口調で 返してくる。
瞬の その答えを聞いた氷河は、僅かに暗く、重く、表情を歪めた。

氷河は、瞬とは長い付き合い。当然、瞬の人となりを熟知している。
瞬が、よほどのことがない限り 人の善意と誠意を信じ、よほどのことがあっても なお信じ抜く人間だということを、氷河は知っているはずだった。
瞬は、誰に対しても そうなのである。
ゆえに、氷河が 瞬の信頼を特に重荷に感じるはずはなかった。
無論、それを重大かつ深刻な買い被りや誤解と思い、(たとえ、実際に それが重大かつ深刻な買い被りや誤解であっても)不快に思うはずもない。
瞬は 常に、ほぼ すべての人間を買い被っているのだ。
それが瞬なのである。
そんな瞬を、氷河は知っており、慣れてもいる(はず)。
仲間を、異常なのではなく 特別(に優れているだけ)なのだと断言する瞬の信頼を、氷河が今更 改めて重いと感じることは、少々 考えにくいことだった。
にもかかわらず、妙に暗く重い氷河の表情。
紫龍が、突然 その場の話題を変えたのは、そんな氷河の態度に引っかかるものを感じたからだったろう。

「そういえば、瞬。おまえ、カラデックの『フランス児童文学史』を読みたいのに、ずっと貸出中で読めずにいると言っていなかったか? 昼休みに図書館に行った時、カウンターの返却棚に置かれているのを見たぞ。今頃は書棚に戻っているはずだ」
「え、ほんと !? 」
「ああ。他の奴に借りられる前に、借りに行った方がいい。今なら まだ、今日の貸出し依頼の受付に間に合うだろう」
「あ、うん。じゃあ、僕、今すぐ――」
よほどのことがない限り 人の善意を信じて疑わない瞬は、仲間の情報提供を感謝すべき親切と思いこそすれ、まさか自分を この場から遠ざけるための方便とは考えもしなかったのだろう。
瞬は 紫龍の勧めを受けて、すぐに掛けていた椅子から立ち上がった。
それでも、氷河の悩み相談の行方が気にかかったのか、即座に図書館に向かうことはせず、
「氷河、無理に変わろうなんてしないでね」
と言って、心配そうに、氷河の顔を窺い見る。
いかにも お座なりなものではあったが 氷河の首肯を確かめると、瞬は にこりと笑って、カフェテラスの出口に向かって 小走りに駆けていった。






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