都の内とは名ばかりの伏見の端のこととて、館の庭は それなりに広い。
とはいえ、そこに人工的に池を作り、中島を作り、橋を架ける、寝殿造り庭園などというものを作れるだけの財力はない。
せいぜい季節の花々を愛でることができるばかりの 素朴な庭だが、瞬は その庭が好きだった。
館の外に出ることができず、かといって自邸に客人を招くこともできない瞬の心を慰めてくれるのは、そこに咲く花たちだけだったから。
その庭で、夏の花に混じって、控えめに萩が花を咲かせ始めている。
気の早い秋の虫も、遠慮がちにではあったが、涼しげな鳴き声を響かせていた。
秋の虫の鳴き声が 雪の降り積む真冬に聞こえてきても、秋の七草である萩が 春の桜と共に咲いていても、瞬は決して驚きはしなかっただろう。
いつものように彼の仕事場である御所の検非違使庁に出掛けていった兄 一輝が持ち帰った 帝の勅命ほどには。

「内裏への招き――って……」
「『かぐや姫が月の世界に帰ってしまう前に、ぜひとも その花のかんばせを見ておきたい』だそうだ。さすがは無能の才を見込まれて帝位に就いた腑抜けだけある。詰まらんことにしか、その力を振るえないらしい」
明確に不機嫌に イグサの円座に胡坐をかいた兄の前で、瞬は身体を縮こまらせ、首を幾度も横に振った。

「行けないよ。そんなところに行って、もし 僕のせいで帝や やんごとない人たちの身に 万一のことがあったら……。僕の見毒の魔は、身分なんか関係なく、誰にでも作用するんだ……!」
月の世界からの迎えを追い返すと息巻いたりせず、顔を見ることだけを求めてくるところを見ると、竹取物語の帝を真似ようなどという酔狂な考えに取りつかれているのではなさそうだが、それが馬鹿げた命令であることに変わりはない。
兄は腑抜けと蔑むが、そんな男でも、“帝”は この国に いてもらわなければならない人なのだ。

「まだ そんな世迷い言を言っているのか。見毒の魔なんてものはない。おまえの周辺の人間が不運に見舞われているのは、ただの偶然だ。見毒の魔だと? おまえの目を見た者が皆 不運に見舞われるというのなら、なぜ俺は無事なんだ」
「兄さんは強いから……僕の見毒の魔にも打ち勝てるほど強いから……」
「その俺も、帝の命には逆らえない。俺一人のことで済むなら、そんな馬鹿げた勅命は断固として突っぱねるが、帝の命令に背き、おまえや家人に累が及んだら……。権力というものは、見毒の魔などより厄介だ。特に それを握っている人間が 救い難いほどの愚か者だった時には」
「……」

兄の言う通りだった。
昇殿も許されていない小貴族には、帝の命令を拒む権利は与えられていないのだ。
帝に『来い』と言われたら、瞬は行かなければならない。
命令を拒むどころか、迷うことさえ、瞬には許されていないのである。
瞬は 絶対に御所に行かなければならなかった。

「そんなに見毒の魔が恐いなら、誰にも顔を見せなければいい。俺としては、むしろ、その顔を宮中の お偉い馬鹿共に たっぷりと見せつけて、自分たちが いかに貧相な猿顔をしているかを奴等に自覚させてやった方がいいと思うがな」
「兄さん……」
無責任な兄の暴言に、瞬が泣きそうな顔になる。
それは確かに暴言だったろうが、一輝としては、瞬のために そう言ってやるしかなかったのである。
『これは おまえが考えているほどの重大事ではない。だから、おまえも御所の見物に行く程度の軽い気持ちで出掛けていけばいいのだ』と言ってやること以外、一輝にできることはなかったから。

「宮中の公家共には、ただの座興なんだ。何でも 今の東宮は“光る君”と呼ばれていて、暇な公家共は、東宮と おまえのどちらが美しいかを比べてみたいらしい。この くだらない座興を思いついて帝に進言したのも、その東宮なんだとか。ちょっと行ってやって、馬鹿東宮の得意の鼻を へし折ってやるのも一興かもしれんぞ」
「東宮――未来の帝に何かあったらどうするの」
「案ずることはない。母親の身分が低く、藤原家の血も薄いので、まず帝にはなれない東宮、飾り物の東宮だという専らの噂だ」
「これは そういう問題じゃないでしょう……!」

それが未来を嘱望されている東宮でも、飾り物の東宮でも、命の重さに変わりはない。
瞬は そういうつもりで兄を たしなめた。
が、一輝も 実は、『人の命は平等である』という考えを持っている点は、彼の弟と同じだったのである。
帝も東宮も公家も庶民も、その命は 平等に軽い――と、一輝は考えていた。
「御所にいるのは どいつも こいつも馬鹿ばかりだ。いっそ、皆 死んでくれた方が民のためになるかもしれん」
「兄さん、冗談でもそんなこと……」
「ああ、悪い」
つらそうに眉根を寄せた弟に、一輝が素直に詫びを入れる。
一輝の詫びは もちろん、彼が口にした暴言の内容に対してではなく、瞬を つらい気持ちにさせたことへの詫びだったが。
そして、同時に それは『大した報いを与えてやれないのに、この家に勤めてくれている家人たちのために、宮中に行ってくれ』と、瞬に頼まなければならないことへの詫びでもあった。






【次頁】