月が明るすぎて、星が見えない夜。 昼間の瞬との出会いのせいで神経が昂ぶっているのか、氷河は その夜 なかなか寝付けなかった。 「いかん。その気になれば 会いにいけるところに瞬がいると思うと、大人しく寝ていられん」 そんなことを ぼやきながら、頭を冷やすために、庭を一望できる 濡れ縁に出た氷河の前に、それは ふいに、だが ゆるゆると現れた。 白い月光の中に浮かぶ黒い影。 それは、声までが黒い色を帯びているようだった。 「瞬に 邪まな欲を抱いて近付くことは許されぬ。が、瞬は どういうわけか そなたに強く惹かれているようで、そなたの命を奪うと、瞬の心が闇に沈みかねない。特別に そなたの命を奪うことはせずにおいてやるから、瞬を元の館に戻せ」 「なに?」 飾り物にすぎなくても、東宮は東宮。 名目上は この国で帝の次に高い地位にいる皇子に『ご機嫌よう』の一言もなく、己れの要求のみを突きつけてくる漆黒の影の態度が、氷河の気に障った。 「何者だ、貴様は」 これが、瞬が恐れている見毒の魔の正体。 直感で、氷河は そう悟った。 黒い影は 若い男の姿をしていて、月明かりで見た限りでは、かなりの美形。 それで 氷河の機嫌は 更に悪くなった。 漆黒の影が、闇めいて重いにもかかわらず よく通る声で、氷河の誰何に答えてくる。 「余は冥府の王、月の王」 「冥府の王、月の王だと?」 満ちては欠け、欠けては満ちる月は、死と再生の象徴。 再生は、一度 死を経なければ実現されない現象。 現に今、生と恋の ただ中にいる氷河には、それは不吉この上ないものに感じられた。 昼間の かぐや姫の品定めへの意趣返しなのか、月光の中に浮かぶ不吉な男が、嫌味な口調で 高みから氷河の品定めを始める。 「飾り物とはいえ東宮。何不自由のない暮らしができているせいか、大した我欲は持っていないようだが」 「物欲はないが、権力欲はあるぞ。俺は いつまでも名ばかりの東宮の立場に甘んじていたくはないと思っている。あわよくば帝になって、この国の支配者に――」 「それは、そなたの権力欲ではない。それは、低い身分のために ふさわしい地位を得ることのできなかった母への未練だな」 「……」 気に入らない男に 心を見透かされるほど 不愉快なことはない。 むっとして、氷河は、冥府の王を名乗る漆黒の男を睨みつけた。 「愛欲も人一倍ある」 漆黒の男が、氷河のその答えに 低い笑い声で応じてくる。 「正直なのは悪いことではない。瞬を元の館に戻せ。瞬は汚してはならぬものだ。宮中など、我欲まみれの人間の巣窟。そんな汚れた場所に瞬を長く置くわけにはいかぬ。いっそ、皆 まとめて殺してしまってもいいのだが、瞬が 今以上に 余の力に怯える事態は避けたい」 「皆を まとめて殺しても? では、瞬が恐れている見毒の魔の正体は貴様か」 氷河は、決して 得体の知れない黒い影に恐れをなしたわけではなかった。 若い美形の男など――しかも、瞬に執着している男など――不愉快なだけの存在である。 不愉快だし、絶対に好意は抱けない。 だが、漆黒の影の言葉に同感するところが、氷河にはあったのだ。 あの清らかな目をした瞬を、浅ましい欲と権謀術数が渦巻く宮廷に留めおいて いいものだろうか。 自分が、飾り物とはいえ東宮の地位にある限り、それらの醜悪から瞬を守り抜くことはできる。 しかし、自分が その地位に いつまで留まっていられるのかということは、実は氷河自身にも わかっていなかった。 何より、この宮中の腐敗した臭気――。 宮中ほど、瞬の居場所として ふさわしくない場所はないのだ。 そう思うから、氷河は 漆黒の男に告げたのである。 「それは 俺も考えていた。ここの空気は、瞬に よくない」 その返答は、氷河自身が、自分にしては素直で殊勝な答えだと思えるような答えだった。 漆黒の影は、もしかしたら、氷河が強硬な抵抗を示してくると思っていたのかもしれない。 彼は、一瞬 気が抜けたような――実に奇妙な表情を その端正な貌の上に浮かびあがらせた。 しばしの間をおいて、穏やかではあるが その高慢を隠しきれていない声音で、 「では、速やかに適切な対応を」 と、氷河に告げてくる。 黒い影の用件は それだけで、自身の用さえ済めば、彼は飾り物の東宮に かかずらう気もなければ、そのための時間を割く気もなかったのだろう。 自身の用件を済ませると、黒い影は 徐々に夜の闇の中に溶け込み始め、やがて 黒い姿、黒い気配は 完全に その場から消えてしまった。 瞬が恐れ続けていた魔にしては あまりに あっさりした その引き際に、氷河は 正直 拍子抜けしてしまったのである。 漆黒の影は、自らを冥府の王と名乗っていた。 もしかしたら彼は、人の命を奪うことはできても、地上世界の ありよう、生きている人間の営む社会を変える力は持っていないのかもしれない。 明るい月明かりに照らされている、不吉な影が消えた東宮御所の庭を眺めながら、氷河は そう思ったのだった。 |