恋愛のテロル






母は 何かから逃げようとしていたのだろうか。
その逃亡の途中で 不幸な事故に遭遇してしまっただけだったのだろうか。
あるいは、あの船の事故自体が 何者かによって仕組まれたもので、母は その何者かに命を奪われてしまったのだろうか――。
氷河は、ある日 突然、『日本に渡る』と母が言い出した訳も、彼女に行く当てがあったのかどうかも知らなかった。
氷河が知っているのは――憶えているのは――彼女が若く美しかったことだけ。
そして、彼女が彼女の息子を心から愛し慈しんでくれていたことだけ。
他には何も知らなかったし、知らなくても構わないと思っていた。
そんなことを知っていても知らなくても、何が変わるわけでもない。
氷河は、誰よりも彼を愛してくれた母を失った。
それが事実で、現実なのだ。

氷の海に沈む船。
息子を生き永らえさせるために、母は 沈み行く船に残った。
それきり、氷河は彼女に会っていない――彼女が落命したのか、あるいは どうにかして生き延びてくれているのかも知らない。
氷河が乗った救命ボートは、ロシアではなく日本の領海で 日本国籍の船に救助された。
身寄りのない7歳の子供の扱いについて、見知らぬ大人たちの間で どんな話し合いが為され、彼等に どんな都合があったのか、氷河は知らない。
誰が その決定を為したのかも知らない。
ともあれ、氷河は、日本の首都にある古い児童養護施設に運ばれ、そこを生活の場にするように指示されたのだった。
氷河の母は、日本に渡ろうとしていた。
ロシアに送り返されることは、彼女の意思に反することと考えて、ロシア語がわからない振りをしたことが功を奏したのだったかもしれない。

母と別れた氷の海から数百キロを隔てた街。
その街は、冬ではなく秋の中にあった。
老朽化が進んでいるのか、電気代を惜しんでいるのか、妙に薄暗い印象の強い うらぶれた建物。
そこで、氷河は、瞬に出会ったのである。


いったい ここは どういうところで、どういうルールがあり、誰が強く、誰が弱いのか。
それらの情報を手に入れるため、目を凝らし、耳を澄ませ――すべての感覚と あらゆる神経を研ぎ澄まし緊張させて、氷河は最初の数日を過ごした。
自分に関する情報は極力 開示せずに。

その施設で暮らしているのは、親を失った子供、あるいは 親に捨てられた子供が20数名。
大人は、施設に居住している者が3人、通ってくる者が2人。
どうやら廃止が検討されている施設らしく、予算や補助金獲得のために 子供の数を増やそうとしていたようで、それが 氷河が そこに運ばれた理由――大人たちの都合――らしかった。
建物は古く、生活のための設備も整っているとは言い難かったが、衣食住の“住”はともかく、“衣”と“食”の方は(あくまでも相対的なものだが)まともらしく、特に 痩せ衰えている子供はおらず、子供等が身に着けている衣服も清潔で こざっぱりとしたもの。
だが、子供等は皆、希望の光のない暗い目をしていた。

そんな子供たちの中で、瞬は、ただ一人、暗い目をしていない子供だった。
希望に輝いているわけではない。
ただ、瞬の目は 素晴らしく澄んでいた――異様なほど 澄んでいたのだ。
毎日 幾度も流す涙が、瞬の瞳や心から 汚れや絶望の影を洗い流してしまっているかのように。
歳は氷河より1歳下。
大人しく目立たない小さな子供だった。
とはいえ、瞬が“大人しく目立たない子供”だということを――瞬が皆に そう思われていることを――氷河は 施設入所後、かなりの時間が経ってから ようやく気付いたのであるが。

施設にやってきた初日、先に入所していた子供たちと対面した時から、氷河にとって 瞬は、施設内で最も大きな存在感を持つ子供だった。
瞬の周囲を包む空気。
その明るさ、温かさ、清らかさ、そして 強さ。
すべてにおいて、瞬は 抜きん出ていた。
氷河の母も 優しく温かい空気をまとっていたが、それは氷河と二人きりでいる時にだけ 強く大きくなるもので、他人のいるところでは、彼女の空気は不安と心配の色に打ち消されてしまうことが多かった。
しかし、瞬のそれは 常に明るく温かかった――常に大きく強かったのだ。
施設にいる大人たちや他の子供たちに、泣き虫の愚図のと 罵られ、貶されている時ですら。
氷河にとって、瞬の明るさや強さは、不思議なものであり、奇妙なものであり、非常に稀有なものだった。

瞬が ずっと自分を見ていることには、氷河も気付いていた。
氷河は、その施設に連れてこられた時から、ほとんど口をきかず、感情を表に出さず、ほぼ無表情を通していた。
いっそ 母を失ったショックで口がきけなくなったのだと思われてしまった方が面倒がなくていいかもしれないと、そんなことを考えて。
否、もしかしたら、氷河は本当に感情を失いかけていたのかもしれなかった。
そんな氷河に あえて近付こうとする者は、その施設には誰もいなかった。
大人も子供も。
その施設では、子供は自分の不幸に向き合うので手一杯、大人たちは自分が不幸にならないようにすることで手一杯。
だから――不幸そのもののような冷たい無表情をしている氷河に近付くことを、誰もが恐れていたのだ。

だが、ある日――氷河が施設に連れてこられてから1週間ほどが経った ある日。
大人しく泣き虫で恐がりの瞬が、びくびくしながら氷河の傍らにやってきて、恐る恐る尋ねてきたのである。
「氷河……氷河は冷たいの? 温かいの? 恐いの? 優しいの?」
と。
「なんで、そんなことを訊くんだ」
氷河が1週間振りに声と言葉を発したのは、黙っていることに飽きたからとか、このまま沈黙を守り通していたら声の生み方を忘れてしまいそうだからとか、そんな理由によるものではなかった。
氷河は、瞬の質問の意図が わからず、だから、それを知りたいと思ったのである。
『冷たいの?』『恐いの?』だけだったなら、おそらく無視した。
瞬が、『温かいの?』『優しいの?』と、普通の人間なら思いつきもしないだろうことを訊いてくる その訳が、氷河は本当に わからなかったのだ。

答えではなく質問を返されたことに当惑したのか、瞬が二度三度 瞬きを繰り返す。
『わからないから訊くのだ』と、瞬の瞬きは告げていた。
僅かに首をかしげながら、瞬が 氷河に問われたことに答えてくる。
「みんなが、氷河を冷たそうで恐そうだって言うの。普通は、こんなところに連れてこられたら、心細くて泣くか、不安で怯えるのに、氷河は そのどっちでもないから変で、冷たくて恐いって。でも、氷河の周りの空気は とっても優しくて、温かくて、強くて、すごく綺麗。ちょっと寂しそうだけど。こんなに綺麗で強くて大きな空気、僕、初めて見た。どっちがほんと?」
「――」

氷河は、自分が何を訊かれているのかが わからなかったのである。
否、わかっていた。
わかっていたが、すぐには そうと信じることができなかったのだ。
それを見ることのできる人間に、氷河は これまで一度も会ったことがなかったから。
しばし迷い、思い切って尋ねてみる。
「おまえにも見えるのか」
瞬は、
「氷河にも見えるの?」
と尋ね返してきた。
そして、嬉しそうに笑う。

「よかった。他の人は、そんなの あるはずないっていうの。空気の服なんてないし、ないものは見えないんだって」
瞬が『空気の服』と呼ぶものを、氷河は『トーン』と呼んでいた。
色調のような、音調のような――それは 人間の心の ありようを表わすものなのだと。
『オーラ』という言葉があることは知っていたが、氷河の目に見えるものは それとは違う何か――肉体を取り巻くエネルギー(=オーラ)ではなかった。
氷河の目に見えるそれは 明確に肉体の外に向かう力で、必ずしも すべての人に備わっているものではなく、また人によって 大きさや強さも異なっていた。
おそらく、それは 人間の その時々の心の色、心の強さ大きさを示すもので、毒気、悪意、邪気といった負の要素と、善意、愛情、優しさといった正の要素が混じり合い、人それぞれの強弱をもって作られるものなのだ。
いってみれば、それは、ある人間の その時の感情と意思の色と強さ。
そういうものだと、氷河は思っていた。

いかにも善良そうな顔をして、どろどろと濁り淀んだ沼のようなトーンをまとっている者もいた。
威風堂々の佇まいをしていながら、驚くほど貧相なトーンをまとっている者もいた。
そして、外見とトーンが一致している人間は少なかった。
その両方が醜い人間は比較的 多かったが、両方が美しい人間は極めて少ない。
氷河が これまで出会った人間の中で、その両方が美しく、その二つが最も一致していたのは、彼の母親だった。
とはいえ、氷河の母のそれは あまり強いものではなく、不安の色が混じることが しばしばあったのだが。

だが、瞬は、その両方が美しく澄んで清らかだった。
しかも恐ろしく強大。
瞬が“大人しく目立たない子供”だと皆に思われていることに 氷河が気付かずにいたのは、瞬のトーンが あまりに強く美しいものだったから――だった。
瞬のそれに比べると、他の人間のトーンは その10分の1の強さも大きさも持っていなかった。
たまに 強く大きなトーンに出会うと、それは十中八九、憎しみや怒りの色をたたえていた。
善意や慈愛より 憎悪や憤怒の方を より強く大きく育ててしまうのが人間という生き物なのだと、瞬に出会うまで 氷河は思っていたのだ。
人が そらぞらしく自分を偽り装うことができるのは、自分以外の大多数の人間には それが見えないからなのだと。

だが、瞬には それが見えるらしい。
しかも、瞬のそれは 素晴らしく美しく優しく清らかで強大。
氷河は、自分の目に見えるものを信じないわけにはいかなかった。
瞬の善良、瞬の優しさ、そして、瞬の強さを、氷河は疑うことができなかったのである。

そうして、氷河と瞬は、同志になったのだった。
施設内で最も弱々しく 泣き虫で目立たない瞬と、傲岸にも思えるほど冷ややかな目をして、孤独も孤立も恐れずに 世界のすべてを拒んでいるような氷河。
瞬が最も恐がりそうな氷河と、氷河が最も嫌いそうな瞬。
そんな二人が なぜか親しくなり、氷河が(極めて冷淡にではあったが)瞬にだけは人並みの反応を示すことを、施設内の皆は驚き、そして 奇異に思ったようだった。
余人には、氷河と瞬の組み合わせは、それほど理解できない組み合わせに見えたのだろう。
もっとも、自分のことで手一杯の彼等は、まもなく その不自然を認め受け入れるようになった――気にしなくなったのだが。

時に人の入れ替わりはあるにしても、二人のいる施設にいるのは 常に、希望を持たず暗い目をした子供たちと、そんな子供たちに希望を与えることのできない大人たち。
そんな場所を仮の家として、 二人は 寄り添い、互いを支え合って、10年の時を過ごした。
心も身体も決して弱くはないのに――むしろ 並みはずれて強いのに――繊細すぎ 感受性が強すぎるせいで 醜悪な世界に馴染まない瞬が、その優しさ清らかさを損なうことなく生き続けることができたのは、瞬の傍らに常に氷河が ついていたからだったろう。
そして、母を失った時から 自分の生に意義も意味も見い出せなくなっていた氷河が、希望というものを持って 自分の生を生き続けることができたのは、彼の側に常に瞬がいてくれたから。
互いに互いを 自分の生きる理由にして、二人は“生きる”という行為を続けたのである。






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