その日も、氷河は、冬のコートを買いに行こうという瞬に引っ張られて、街に出たのである。
瞬が購入しようとしている冬のコートが、まさか自分のものだとは思っていなかった氷河は、平素の外出時に比べれば、比較的 乗り気で 瞬のお供という仕事を開始したのだった。
その外出が、不愉快な他人で あふれている街で ショップ5軒を はしごし、そのすべての店で最低2着のコートの試着を強いられる苦行になるとは、氷河は、瞬と共にマンションを出た時には想像もしていなかったのである。
最初に入った店で 瞬の目的に気付いた時には、もう遅かった。
最終的に氷河は、その外出で、実際に着用することがあるかどうか わからない冬のコート1着と、多大な疲労感を得ることになったのだった。

そうして、何とか その苦行に 耐え抜いた氷河が、瞬と共に就いた帰途。
瞬が寄りたいというので 入ったカフェラウンジを出たところで、二人は、とあるトラブルの場に遭遇したのである。
目立って体格のいい外国人と、彼に比べれば ひょろひょろと頼りない姿をした日本人の いさかい。
街のメインストリートから1本 逸れた通り。
普通に取っ組み合いの喧嘩をしたなら 簡単に相手を叩きのめすことができそうな外国人の方が なぜか逃げ腰で、普通に取っ組み合いの喧嘩をしたなら あっさり相手に叩きのめされるだろう日本人の方が なぜか強気。
それは奇妙な いさかいだった。
通りを行く者たちは皆、歩道の真ん中で騒ぎを起こしている二人に迷惑そうな目を向け、彼等を迂回して、足早に それぞれの目的地に向かっていく。

「氷河……」
立ち止まった瞬の腕を掴み、
「放っておけ」
と言って、氷河は、他の通行人たちに倣い、その場を行き過ぎようとした。
瞬は、しかし、その場を動こうとしない。
「でも、あの喧嘩、言葉が通じていないせいみたい。ロシア語だよ」
「ロシア語?」

瞬に喚起され、少し注意して二人のやりとりを聞くと、確かに瞬の言う通り、体格のいい外国人が口にしているのはロシア語だった。
ロシア人の方は、ひょろひょろの日本人に絡まれていると思っているようだったが、ひょろひょろの日本人の方は(どうやら飲食店のレジ係らしい)、ロシア人に 釣り銭を渡そうとしている。
それは、言葉が通じさえすれば起こるはずのない いさかいで、瞬に視線で『仲裁してあげて』と頼まれ、氷河は仕方なく二人の間に入っていったのである。
そして、体格のいい(おそらく)ロシア人に、
「こいつは、釣り銭を受け取れと言っている」
と、ロシア語で ぶっきらぼうに言った。
ひょろひょろの日本人の用件が そんなことだったと知らされて気が抜けたらしいロシア人が、ひょろひょろの日本人から、釣り銭を(やっと)受け取る。
氷河に 指を立てて謝意を示すと、彼は きまり悪そうに その場を立ち去っていった。

騒ぎの当事者の一人の姿が消え、もう一人の当事者が、金髪碧眼の氷河に日本語でいのかと不安そうな顔で、
「ありがとうございます。レジのお金が合わないと、多くても少なくても店長に叱られるんですよ」
と礼を言って彼の職場に戻っていくと、その10秒後には すべてが元通り。
トラブルに関わるのを避けようとした通行人たちが 自然に描いていた迂回路は消え、氷河と瞬の周囲には、まっすぐに それぞれの目的地に向かう通行人たちが作る 従前の静かな喧騒が戻ってきていた。
氷河と瞬も 速やかに、通常モードに戻った通行人の波に紛れ込むことをしたのである。
人の流れに乗ってから、瞬が首をかしげる。

「でも……お釣りを渡そうとしただけで、どうして あんな騒ぎになっちゃったんだろ」
「ガタイのいい方が、スネに傷持つ身だったんじゃないか。不法滞在しているとか、不法に物品をロシアに運んで商売をしているとか」
「ああ、それで……」
それで あの人は あんな奇妙な空気の服を着込んでいたのかという言葉を、瞬は喉の奥に押しやった。
海綿のように穴だらけの、だが奇妙な広がりを持つ空気。
あれは、自身の気配を消そうとして消し損ねている人間のものだったのだと、瞬は了解したらしい。

世話好きの瞬も、さすがに そういう問題が一個人の力で解決できるものではないことは理解してくれているようで、氷河は その事実に安堵した。
瞬に『社会の不正義を正してくれ』などと頼まれてしまったら どうすればいいのかが、氷河には わからなかったのである。
瞬の望むことは可能な限り叶えてやりたいが、面倒事や目立つことは 極力避けたいというのが、氷河の望みだったから。
目立ちたいなどということは毫も考えていないはずなのに、強大かつ明瞭鮮烈な瞬のトーンを見やり、氷河が少々 期待薄の予感に囚われた時だった。
ふいに見知らぬ男が、
「おまえ、ロシア語ができるのか。ロシア人か」
と、氷河に声をかけてきたのは。

地味な濃灰色のスーツ。
どうして これほど野暮なものを選べるのかと尋ねたくなるほど野暮なネクタイ。
一見した限りでは 控えめで、人の好さそうな柔和な表情。
だが、その男が善良な市民でないことは明白だった。
人目を引くことを恐れ そうすることに失敗していた先刻のロシア人とは対照的に、完全に自分の存在を消してのけている男の力強いトーン。
形は笑顔だが、眼光が鋭すぎて かえって凄みが増すという矛盾した表情と存在感を持つ30代半ばの男。
そういう意味では、その男と似たり寄ったりの氷河に、
「誰だ」
と問われて 怯む気配を見せないだけで、その男が一般人でないことに疑いを挟む余地はなくなった。

「今の男と知り合いか」
「知らん男だ」
最初 氷河は、その男を刑事か公安警察官だと思ったのである。
だが、これが職務質問なら、公務員は まず身分証明をするはず。
それをしないからには、この男は 民間の危ない組織の構成員ということ――つまり 彼は、氷河が最も関わり合いを持ちたくない職種の人間だということだった。
そんな男が 素知らぬ顔で一般人の中に紛れ込み 街を歩いていることに、氷河は人間が営む社会の不気味さを感じてしまったのである。
いかにも その筋の人間らしい恰好をして 肩で風を切って歩いていてくれれば、堅気の人間は そういう輩を避けて生活することができるのに――と。

「俺は善良な市民だ」
「善良な市民は、ああいう男は避けて通るものだ」
ここで『好きで関わったわけじゃない』と言ってしまうと、瞬を責めることになる。
そうしないために黙るしかなくなった氷河を見て、その男は 更に氷河への疑いを深めたらしい。
自分と同類の者を見る目で 気安く、だが 威圧的に、彼は氷河を睥睨してきた。
「最近、この辺りにロシアンマフィアやチャイニーズマフィアが手をのばしてきていてな。盗難車の輸出や薬の密輸入だけなら放っておくところだが、もっと物騒なものの流通にまで乗り出してきて――」
やめろアスタナビーティシ。そんな話を聞く気はない。俺は善良な市民だと言ったろう」
「俺と こうして怯えもせず 平然と話をしていられる男が善良な市民のはずがない」
「だが、事実そうなんだから仕方がない。ロシアンマフィアも チャイニーズマフィアも、本家本元のイタリアンマフィアも、もちろん日本の反社会的勢力も、俺はマンガでしか知らん」
「氷河、マンガなんか読んだことないくせに」

一触即発の緊迫した やりとりをする二人の男の間に、まるで緊張感のない瞬の呆れたような声が割り込んでくる。
日本の反社会的勢力の一翼を担っているらしい その男は、場違いも はなはだしい瞬の茶々に、思い切り 虚を衝かれた顔になった。
無邪気なのか、恐いもの知らずの馬鹿なのか、あるいは 本当に何も恐れる必要のない立場の人間なのか。
その判断に迷い、結局 彼は その迷いから抜け出すことができなかったらしい。
黙り込んでしまったのは、今度は その男の方で、氷河は その隙に瞬の手を引いて 素早く善良な市民の群れの中に紛れ込んだのである。

瞬と二人で 平和に穏やかに目立たずに生きていく。
そんなささやかな願いを、その手の輩に妨げられるのだけは ご免被りたい。
金輪際 瞬の眼差しに負けて余計な お節介はするまいと固く心に決め、瞬にも そう注意して、氷河は再び 元の平和で穏やかな日常の中に戻ったのだった。






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