ナターシャは一人ではなかった。
日中露 どの陣営にも属していないだろうと即断できる人物が、彼女の隣りに立っていた。
長い髪の、美しいことは美しいが、それ以上に 胡散臭さの勝った微笑を浮かべた女――少女。
その少女が、軽やかな口調で 氷河と瞬に報告してくる。

「なんだか お取り込み中のようだったから、私と私の聖闘士が 一足先に彼女を救出してきたわ」
そう言って、長い髪の少女が、彼女の後ろに立つ、むやみやたらに明るい目をした男――少年と、むやみやたらに長い黒髪をした少年――男を、視線で示す。
どうやら それが“私の聖闘士”というものらしい。
二人は 到底 ただ者とは思えない 独特の強さのトーンで包まれていて、氷河を少なからず驚かせた。
が、氷河が今 知りたいことは、“私の聖闘士”が誰なのかということよりも、“私”が何者なのかということの方だった。
異様なトーン――もしかしたら 瞬よりも強大なトーンを持つ この少女は、いったい何者なのか。

「おまえは何者だ」
彼女が尋常の人間であるはずがなかった。
それは あり得ない。
問われた少女が 不気味なほど屈託のない声で、自分が何者なのかを告げてくる。
「私は、表向きは グラード財団総帥、城戸沙織ということになっているわ。でも、その正体は、知恵と戦いの女神アテナ。あなた方をスカウトしに来たのよ」
「知恵と戦いの女神アテナ? 俺たちをスカウトだと?」
「ええ。あなたたち、地上の平和を守るために戦う仕事に就くつもりはなくて? 三食昼寝つき。住み込み可。経験不問。給与 賞与は あってないようなもの。有給は、平均で年に300日くらいかしら。でも、毎日が待機日と言っていいわね。特別に、こちらのナターシャさんを ご家族の許に送り届けるサービスをつけましょう。もちろん、正規ルートで。あ、ちなみに、勤務地は基本的にギリシャよ。アテネ近郊にある聖域。出張が かなり多いけど」
「……」

好条件なのか悪条件なのかの判断に迷う待遇である。
氷河が彼女の申し出を言下に拒否しなかったのは、ナターシャの無事な姿を見た瞬が 嬉しそうな顔になったから。
そして、瞬が、女神アテナを自称する少女に不審の念を抱かず、逆に 一瞬で好意を抱いたことがわかったからだった。
「日中露ときて、今度はギリシャマフィアか」
「マフィアよりヤクザな仕事よ」

自称 知恵と戦いの女神アテナ。
彼女が正気だとは思えなかった。
だが、嘘はついていない。
彼女のトーンは 実に威圧的なものだが 慈愛に満ち、母のそれや瞬のそれに 似たところのある温かさや優しさがたたえられている。
何より、その強大さは、並の人間に太刀打ちできるようなものではない。
どちらにしろ、このマンションの部屋は 放棄しなければならないのだ。
「職場恋愛が許されるのなら、その話に乗ってやってもいい」
氷河の判断に、瞬は異論はないようだった。
瞬の澄んだ瞳に不安の色はない。
「聖域には、あなた方のために特別にダブルの部屋を用意させましょう。防音も考慮するから、あなた方は そこで何をするのも自由よ」

女神アテナを名乗る少女は、なかなか磊落で闊達、しかも かなり気がきく人物であるらしい。
自分が生きているために必要な ただ一人の人と共にいられるのなら、それがどこでも、どんな環境でも、氷河に不満はなかった。
それだけで、人生は十分に満ち足りる。

「ギリシャか。それも いいな」
氷河が そう告げると、自称 知恵と戦いの女神アテナは ほがらかに微笑んで、その小宇宙で彼女の聖闘士たちを 温かく抱きしめた。






Fin.






【menu】