「それは何とも言えないわ。薬を飲んだ者が誰を愛するようになるのか、その相手は わからない――指定できないんだもの。わかっているのは、薬を服用した人間が誰かを熱烈に愛するようになるということだけ。Aという人間が Bさんにケストス・ヒマスを飲ませて、Bさんが自分を愛するようにしようとしても、それが必ずしもうまくいくとは限らない。Bさんは、自分に薬を飲ませたAとは全然 別のCさんを愛するようになるかもしれないわ」 「はあ !? 」 さらりと とんでもないことを言ってのけてくれた沙織の前で、星矢と紫龍は 揃って間抜けな声をあげてしまったのである。 その隣りで、瞬も驚いたように大きく瞳を見開く。 が、沙織は平然としたものだった。 平然と、言葉を続ける。 「当然でしょう。ケストス・ヒマスは魔法の薬ではなく、真に化学的な薬なんだから。ケストス・ヒマスは、ケストス・ヒマスを飲んだ人間の脳に直接 作用する。ケストス・ヒマスを飲んだ人間の心と身体を変える。でも、飲ませた人間と飲んだ人間を結びつける力は持っていないわ」 「はあ……」 アテナの聖闘士たちは、真に化学的な沙織の説明のせいで、言い知れぬ疲労感に支配されていた。 その疲労感が、やがて 彼等の許に、いわく言い難い頭痛と目眩いを運んでくる。 「つ……つまり、その惚れ薬は、薬を飲ませた相手を 誰かに惚れさせることはできるが、自分に惚れさせることができるかどうかはわからない――ということですか? 必ずしも 薬を飲ませた人間が 薬を飲まされた人間に愛されるようになるわけではない――と?」 それは、惚れ薬としては致命的な欠陥である。 安価に手に入っても――タダで もらっても――そんな薬を 誰が使おうとするだろう。 へたをすると 恋敵を利することになるかもしれない惚れ薬を、いったい誰が。 ケストス・ヒマスの欠陥商品振りを知らされた紫龍と星矢は、何の役にも立たない、(おそらく)誰にも使われることのない薬のことを 真面目に心配して損をした――と思ってしまったのである。 沙織が、そんなアテナの聖闘士たちに しれっとした様子で頷いてくる。 「ケストス・ヒマスを飲んだ人間が愛するようになる相手は、基本的には、ごく身近にいて、薬を飲む前から ある程度の好意を抱いていた人間になるわ。そういう意味では、ケストス・ヒマスは、惚れ薬というより、もともと存在していた愛情や信頼を より強く より深いものにする薬といった方が正しいわね。深い友情を恋情に変えるくらいのことはできるかもしれないけど。最も適切な利用方法は、婚約者同士や新婚の夫婦が 二人して服用するパターンかしら。ケストス・ヒマスは離婚率を 相当 低下させてくれると思うわ」 「最も適切な利用方法っていうより、そのパターン以外で使うことなんかできないだろ。なんだ。原水爆並みに 世界と人類を混乱させる危険な大発明かと思ってたけど、全然 使えねー薬なんじゃん」 “がっかりした”というより“安堵した”。 “安堵した”というより“気が抜けた”。 星矢は、そういう気分になっていたのである。 そんな星矢の凪いだ気分に、氷河が脇から波風を立ててくる。 「それは、他人同士なら薬の効果は ほとんど期待できないが、仲間同士や友人同士なら、薬の効果が発揮される確率が格段に上がるということか」 氷河は、ここまで薬の欠陥を知らされても まだ、危険な大発明の使用を諦めることができないでいるらしい。 氷河の質問に 沙織が答えを返す前に、星矢が未練がましい仲間を怒鳴りつけた。 「氷河、おまえ、こんな危険なものに関心を持つんじゃない!」 「うむ。星矢の言う通りだ。冷静に考えろ。もし おまえが誰かに この薬を飲ませたとする。その人は、だが、おまえを恋するようになるとは限らないんだぞ。おまえではなく、星矢を好きになるかもしれん。いや、一輝を好きになる可能性の方が大きいか。それは危険すぎる賭けだ」 「……」 紫龍の持ち出した仮定文に、氷河の顔が明瞭に強張る。 氷河にしてみれば、それは至極 当然の反応だったろう。 自分に恋してほしいと願っている人が、自分の天敵に恋するようになる――かもしれないのだ。 そんな事態が現出したら、氷河は 到底 冷静ではいられないだろう。 その上、もし薬の有効期間が永遠であったなら、氷河は 永遠に幸福になれないのだ。 それくらいのことは、長い片思いに苦しみ 心が千々に乱れている男にも わかったらしく、氷河は やっと沙織が持ってきた危険な薬の利用を断念してくれたようだった。 無意識のうちに力が入っていた氷河の肩から すとんと力が抜ける。 そんな氷河に ひとまず安心したように、紫龍は短く吐息した。 そして、城戸邸に危険物を持ち込んできた沙織に注意を促す。 「存在や使用の是非は さておいても、沙織さんが持ってきたものが 人の心を変える力を持つ危険な薬であることには変わりがない。扱いは くれぐれも慎重にしてください」 「金庫に入れて鍵でもかけておけば いいんじゃないか? それで、氷河も、惚れ薬のことは 忘れられるだろうし」 何はともあれ、惚れ薬などという危険な薬は 氷河の手の届かないところに しまってしまうのが肝要。 目に触れない場所に隠すのが肝要。 そうすれば、惚れ薬を悪用したくても、氷河は悪用できない。 そう考えての星矢の提案を、しかし、沙織は笑い飛ばした。 「いやあねえ。金庫なんて、泥棒が入ったら、いちばん最初に目をつけられるものじゃないの。どくろのマークつきで、無造作に そのへんに転がしておく方が まだ安全よ」 使いようによっては 世界を揺るがすこともできるだろう世紀の大発明を、“そのへんに転がしておく方が安全”とは。 沙織は どこまで本気なのか、それとも それは やはり冗談なのか。 星矢には わからなかった――というより、星矢は わかりたくなかったのである。 案外 それは、世紀の大発明などではなく ただの催淫剤にすぎないのではないかと疑いたくなるほど、沙織の態度は軽々しいものだった。 「へたに使えば、夫となるマルク王と妻となるイゾルデが飲むはずだった媚薬を間違って飲んでしまったトリスタンとイゾルデの悲劇が 起きるかもしれない、危険な薬だ。触らぬ薬に祟りなしだぞ、氷河」 今ひとつ 不穏な空気が払拭されていない中、紫龍が氷河に釘を刺して、世紀の大発明のお披露目会は、とりあえず 解散と相成ったのである。 その宣言通り、本当に、ラウンジのリビングボードの上に無造作に どくろマークのラベルの貼られた壜を置いた沙織の大胆さには 大いに呆れたが、救いようのない大馬鹿者でない限り、氷河が その危険な薬品に手を出すことはないだろう。 むしろ、すぐに手に取ることのできる場所に それがあることは、氷河への強烈な牽制になるのかもしれないと考えて、星矢と紫龍は 沙織の大胆な振舞いを止めることはしなかったのである。 氷河が“救いようのない大馬鹿者”だったことが判明したのは、それから3日後の朝のことだった。 |