そういう事情で。 その日 その時から、氷河は、これまでの彼とは 打って変わって 積極的かつ強引に 瞬に迫り始めたのである。 地上の平和の実現という 瞬の大いなる悲願にして夢の妨げになること。 瞬の清らかさを損なうこと。 強引に出ることで、今 現在良好な二人の友人関係を壊してしまうこと。 それらの事態を恐れて、これまで 氷河は 瞬への積極的なアプローチに踏み切れずにいた。 だが、事情は変わったのだ。 自分以外の卑劣な何者かが、瞬に あの薬を飲ませてしまうかもしれない。 もし 惚れ薬を盗んだ人間のターゲットが、氷河の懸念通りに瞬であったとしたら、十中八九 その人間は瞬と あまり親しい人間ではないだろう。 誰を好きになるのかが わからない惚れ薬の使用に踏み切ることができるのは、恋の成就の可能性が 極めて低いがゆえに無謀な賭けに出るしかない者以外 考えられない。 それが、氷河の推理の根拠だった。 いずれにしても今、瞬の心は危険に さらされている。 途轍もない危険に さらされているのだ。 白鳥座の聖闘士は、瞬の心を守らなければならなかった。 瞬の心を、どこの誰とも知れない 脇役の手から。 もしケストス・ヒマスを盗んだ人物が、その薬を瞬に飲ませたとしても、白鳥座の聖闘士が 瞬の心を しっかり掴まえておけば、瞬は盗人ではなく、彼の信頼できる仲間であるところの白鳥座の聖闘士を恋するようになってくれるはずである。 もはや一刻の猶予もない。 瞬の夢だの 清らかさだのに遠慮している余裕はないのだ。 それが氷河の考えにして判断、そして決意だった。 そして、いったん意を決したら、氷河は 迷うことをしない男だった。 脇目もふらず、目標に向かって突進する男。 それがキグナス氷河という男だったのである。 氷河は、瞬を外出に誘ったり、瞬の好きそうな花やケーキや小物を贈ったり、日々の生活で細やかな気遣いを示したりして、懸命に瞬の気を引くために努めた。 もちろん、 「しかし、いつ見ても、おまえは綺麗で可愛い。その上、地上で最も清らか。誰よりも優しくて強い。俺は おまえと永遠に一緒にいられたら どんなにいいだろうと、いつも思っているぞ」 等々の言葉を用いての攻撃攻略の手も緩めない。 ためらっている余裕はないのだ。 1分1秒でも早く、1センチ1ミリでも近くに、瞬の心を白鳥座の聖闘士の引き寄せておかなければならない。 それが 卑劣な泥棒の恋の罠から 瞬を守る唯一の方法。 白鳥座の聖闘士の恋を守る唯一の方法。 正義が行われるための ただ一つの道なのだ。 氷河は必死だった。 「よく 人前で平気で あんな歯の浮くようなセリフを言えるもんだぜ。俺たちがいるところで ああだったら、二人きりでいる時には どんだけくさいセリフを吐いてるんだよ、氷河の奴」 「むしろ、二人きりでいる時には 何も言わずにいるのかもしれないぞ」 「何も言わずに、瞬を睨んでんのかよ? それって恐いじゃん」 「せめて、『見詰めている』と言ってくれ。普段 饒舌な男が 寡黙でいたら、それはそれで 気になるものだろう。『雄弁は銀、沈黙は金』と言うが、人の心を引きつけるには、その両方を駆使するのが最も効果的だ」 それまでとは 打って変わって積極的攻勢に出るようになった氷河の豹変振りには、星矢も紫龍も 感心を通り越して呆れ顔だった。 人目も外聞も はばからず、なりふりも構わず、ここまで公然と瞬に迫ることができるのなら、なぜ氷河は もっと早くに 行動を起こさなかったのか――というのが、星矢と紫龍の 忌憚のない意見だったのである。 突然 始まった氷河の積極的アプローチに戸惑いながら、しかし、瞬は 決して それを迷惑に思っているようでもない。 もし氷河を ここまで やる気にさせた理由が 惚れ薬の盗難事件であるのなら、これまでの氷河に欠けていたものは危機感――切実な 切迫した危機感だったのではないかと、氷河の仲間たちは思ったのである。 と同時に、彼等の中には一つの疑念が生まれ始めていた。 氷河の積極的攻勢の理由が 惚れ薬の盗難――誰かが その薬を瞬に対して使うかもしれないという恐れなのであれば、ケストス・ヒマスを盗んだ者は氷河ではないと考えるのが 妥当になってくる。 では いったい誰が。 それが 彼等の疑念にして不審――むしろ不安――だった。 「なあ。例の惚れ薬、もしかして、瞬が盗んで、氷河に飲ませたってことはないか?」 『他の可能性が すべて消滅した段階では、それが いかに起きそうにないことでも、最後に残ったものが真実であるに違いない』 と言ったのは、名探偵シャーロック・ホームズ。 名探偵に諭されたワトスン博士の気分で、星矢は そう言ったのかもしれなかった。 巨視的な目を持ち、物事を俯瞰し 考察することもできるが、星矢よりは常識に囚われる傾向のある紫龍が、星矢が口にした可能性に 微かに眉根を寄せる。 「瞬が あの薬を盗んだというのか? 氷河の心を 自分の方に向けるために? それは 考えられんな。たとえ 瞬が氷河に好意を抱いていたのだったとしても、瞬は そんなことができる子ではない。氷河は 以前と何も変わっていないんだ。薬を盗んだ奴が それを瞬に悪用することを恐れて、その前に瞬を自分のものにしようと 性急・積極的になっただけで。氷河は もともと 瞬にいかれていた」 「それはそうだけどさあ。惚れ薬が盗まれてから、氷河以外に、言動が変わった奴はいないじゃん」 星矢の言うことは事実である。 確かに、惚れ薬盗難以前と以後で、その言動に変化が起きたのは氷河だけだった。 「だとしても――惚れ薬を飲んだのが氷河だとしても、飲ませたのが瞬だとは考えにくい。まだ、氷河が盗み、自分で飲んだと言われた方が、俺は納得できるぞ」 「そりゃあ、俺だって、薬で 人の心を操るようなことが 瞬にできるとは思わないけどさー」 では いったい誰が惚れ薬を盗んだというのだろう。 “ノックスの十戒”、“ヴァン・ダインの二十則”を犯して、名もないメイドが 一縷の望みにすがり 氷河に惚れ薬を飲ませたというのだろうか。 その推理には、星矢は釈然としなかった。 紫龍も釈然としなかった。 星矢と紫龍が 釈然とするまでには、あと10日ほどの時間が必要だったのである。 |