「沙織さん……」 「氷河に盗ませて、瞬に飲ませてもらうつもりだった? 沙織さん、なに言ってるんだ?」 「何を言ってるも何も、言葉通りよ。でなかったら、この私が 開発費数十億の薬を、『盗んでください』と言わんばかりに、こんなところに放置しておくわけがないじゃない。人道上、人間に薬の服用を強制することはできないから、氷河の自主性に期待したの」 「……」 確かに、惚れ薬の服用などということは、女神アテナといえど、他者に無理強いできることではないだろう。 だが、だからといって、こんな やり方が許されるものだろうか。 沙織は、氷河に惚れ薬を飲まされる(飲まされていたかもしれない)瞬の人権を完全に無視しているのだ。 星矢と紫龍に非難の目を向けられても、沙織は あっけらかんとしたものだった。 「健康に害がないことはわかっていたし――ケストス・ヒマスは、オキシトシンと同じで、最初から愛情や信頼を抱いている相手にしか 効果の期待できない薬よ。瞬が氷河に使おうが、氷河が瞬に使おうが、何の問題もないでしょ。もともと お互いに気があったわけだし」 「あ……」 沙織に 断じられた瞬が、頬を染めて、ますます切なそうに瞼を伏せる。 星矢は、激しい目眩いに襲われ始めていた。 「お互いに……って、瞬も氷河に気があったのかよ? そんなこと、瞬は おくびにも――」 「瞬は清らかな心の持ち主だけど、暗愚でも鈍感でもないわよ。氷河を見ていたら、氷河の気持ちくらい、瞬にだってわかるでしょ。当然、瞬も氷河を意識する、瞬には氷河を嫌う理由はない。となったら、そういうことになるに決まっているじゃない」 「嫌う理由はない? そんなの、いくらでもあるじゃん。救いようのないマザコンだし、クールは似非だし、鹿を追う者は山を見ずの典型だし、その上、敵と命がけの戦いをしてる時に踊りを踊り出す男なんだぞ、氷河は!」 それでも『氷河を嫌う理由はない』と言い張るのなら、それは沙織の感性がおかしい。 星矢の指摘が心外だったらしく、沙織は いたく不満そうな顔をして、彼の誤解を正してきた。 「だから、『瞬には 氷河を嫌う理由はない』と言ったでしょ。私なら、あの薬を1リットル飲まされても、氷河だけは ご免被るわ」 それも随分な言い草だったが、星矢と紫龍は、アテナの感性と判断力が真っ当 かつ 常識的なものであることに安堵した。 そこで安堵してしまったのが、星矢と紫龍の敗因だったろう。 アテナが 真っ当で常識的な感性と判断力を持っているなどと思ってしまったことが。 「ケストス・ヒマスの効果が確実なものであることは わかっていたわ。あの薬を飲んだ者は、もともと好意を抱いていた相手に、より強く深い愛情を抱くようになる。私が氷河と瞬で確かめたかったのは、同性同士の場合、ケストス・ヒマスが治験者に どう作用するのかということよ。氷河と瞬なら、常識的には、氷河が攻めで 瞬が受けでしょ。私は、薬を飲まされた瞬が 積極的になって、攻めに転じたら面白いなー と思ったの。瞬、今からでも飲んでみない? 今より もっと氷河を好きになれるわよ?」 「……」 沙織は いったい何を言っているのか。 頭痛、発熱、喉の痛み、倦怠感、嘔吐、目眩い――風邪の諸症状に似た症状が すべて出て、その上 更に 星矢と紫龍は白目まで剥きかけていた。 「そんな非常識は やめてくれっ! 人権侵害で、人権擁護団体に訴えるぞ!」 白目を剥いている余裕もなかった氷河が、悲鳴をあげて、沙織に自重を要求する。 クールとは程遠く、血相を変えて慌てふためく氷河を見て、沙織は けらけらと声をあげて笑った。 そして、少しだけ(ほんの少しだけ)真面目な顔になる。 「ケストス・ヒマスが 愛情を深める力を有していることは確かだけど、ただ 存在するだけで、あの薬は 人の心に不安も生むというわけね。少し考えることにするわ。氷河が悪さをするのなら ともかく、瞬が こんなことをするなんて、完全に想定外のことだったもの。服用して現われる効果だけでなく、存在することの社会への影響も考慮しなければならないようだし――ケストス・ヒマスの市販は、今の状況では かなり危険なようね。ラボに持ち帰って、もう少し考察を重ねることにするわ」 「そうしてもらえると 助かる」 身勝手な氷河は、沙織の決定に心を安んじたらしく、深く長い息を洩らした。 そうして、瞬に 受け攻め逆転効能のある薬など飲まされてたまるかと言わんばかりに、氷河が 瞬の肩をしっかりと抱き寄せる。 そんな氷河と 彼の仲間たちに、沙織は、今度こそ本当に真面目な声と表情で告げてきた。 「でも、オキシトシン等のホルモン物質に限らず、人の心や身体を操る物質の研究が ものすごい勢いで進展しているのは事実よ。おそらく、全く その気のない相手に恋情を抱かせる力を持つ惚れ薬が作られるのも 時間の問題。人の心は、誰もが自由に操りたいと願うものだから。そういう薬って、実を言うと、不老不死の薬や クローン技術より危険で重大な問題があるものなのよね。人と人を憎しみ合わせることのできる薬を作ることも、おそらく可能だから」 氷河は――星矢も紫龍も――沙織の その言葉に ぞっとしてしまったのである。 人間の心を自由に操ることのできる薬――。 愛も憎しみも 薬で自在に操ることができるようになったなら、その薬の使い方を 人が誤ってしまったなら、その時 人類は邪神の襲撃を待たずに、自ら 滅びてしまうかもしれない。 底のない人類の心の暗い深淵を垣間見せられたような気分になり 蒼白になった星矢たちに、一つの光明を示してくれたのは、ケストス・ヒマスを使用させないために盗み隠すことをした瞬だった。 「でも、沙織さん。人の心を 本当に動かすことができるのは 人の心だけです。もし 誰かが僕に氷河を憎むようになる薬を飲ませても、氷河は きっと 僕の心を元に戻してくれる。僕は そう信じています」 それで元に戻った瞬の心は、救いようのないマザコンで 似非クール、鹿を追う者は山を見ずの典型で、その上、敵と命がけの戦いをしいてる時に踊りを踊り出すような氷河を 恋し続けるというのだろうか。 それでも氷河を好きでいたいらしい瞬の言葉に、星矢たちは呆れつつ、そして救われてしまったのである。 人の心(と趣味)は、実に深く複雑で、得体の知れない薬などより はるかに謎に満ちている。 人間は、人間としての心を持っている限り、強く たくましく、人の道を歩み続けようとするのだろう――と。 「ええ。ええ、きっと そうね。氷河の執念に勝てるような薬は、きっと永遠に作られることはないわ」 神であるアテナが、人間である瞬に 温かい微笑を返す。 人類は、きっと大丈夫。 人が 人としての心を持っている限り。 心身のすべてが愛と信頼でできているような瞬の確言に、その瞳の輝きに、人と神は、何があっても決して消えることのない希望の姿を見たのだった。 Fin.
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