そういう経緯で、俺は聖域に来た。
最初の一ヶ月くらいは、オリエンテーリングっていうのか?
聖域での日常生活のあれこれと、聖域のルールってのを、叩き込まされた。
ルールっていうか――要するに、聖域で しちゃいけないことを 教えられたんだ。
外部の者に 聖域の場所を洩らさない。
聖域で起きたことを 外部の人間に知らせない。
アテナのことも、聖闘士のことも、地上を支配しようとする敵のことも、他言するな。
聖域内での人の死についても同様。
そんなことを。

それが終わって、最初のまともな(?)仕事が、水瓶座の黄金聖闘士が守護する宝瓶宮の修繕。
宝瓶宮は、壁にも天井にも柱にも床にも、とにかく縦横無尽に亀裂が入ってるって話だった。
聖域内に宮を持っていない白銀聖闘士には何人か会ってたけど、黄金聖闘士は 勿体ぶってるんだか何なんだか、滅多に宮の外に出てこないから、俺にとっては アクエリアスの氷河が 初めて会う黄金聖闘士。
その上、おやっさんには、黄金聖闘士の中でいちばん恐い男だって繰り返し言われてから、宮に入る時は 心臓が破裂しそうだった。

黄金聖闘士ってのは、確かに普通の人間じゃなさそうだった。
宮の奥から出てきたのは、金ぴかの聖衣を身にまとい、異様に冷ややかで 異様に熱く、異様に強いエネルギーを生み 放射し続けている若い男。
その若い男に、おやっさんが 腰を低くして 今日の作業内容の説明をするのを、俺は おやっさんの後ろで ぼーっと聞いていたんだ。
黄金聖闘士ってのは、こんな 金ぴかの重そうな鎧を いつも着てるんだろうかって、そんなことを考えながら。

水瓶座アクエリアスの黄金聖闘士 氷河は、金髪碧眼、作り物みたいに整った顔立ちをした男だった。
青い目をした人間に会った時、よく“ビー玉みたいな目の持ち主”っていうけど、アクエリアスの氷河の瞳は、海水が凍ってできた氷を丸く削って はめ込んだような目。
まさに氷の瞳――氷のように冷たい瞳。
そのせいで、それでなくても 作り物じみてる顔が ますます磁器製の人形めいて見える。
傲慢そうで、人を人と思ってる感じがしなくて、人を殺すのも平然としてのけそうだった。
そんな黄金聖闘士が、
「本当に この宮に手を入れる気か」
と、機嫌悪そうに おやっさんに言う。
事前に話は通ってるはずなのに、この土壇場になって 駄々をこねる気なのかと、俺は呆れた。
黄金聖闘士だか何だか知らないが、石のことは石屋に任せとけばいいんだ。

「この宮は、放置しておくと、倒壊の危険があるんです」
アクエリアスの氷河の3倍も年長の おやっさんが、孫と言っていいような若造に、腰を低くして、あくまでも丁寧な口調で――。
世界に12人しかいない黄金聖闘士つったって、30年以上 この仕事をしてるおやっさんに口出しできる立場じゃないだろう。
どれだけ強いのか知らないけど、とにかく偉そうに構えてて、いけすかない男だ。

そりゃあ、この聖域には 女神アテナを頂点にしたヒエラルキーがあって、ここが 明確な身分制社会だってことは わかってる。
身分が違うって言われれば その通りで、あっちは大貴族、こっちは平民――いや、奴隷でしかないのかもしれない。
にしたって、これはないだろう。
おやっさんが仕事をしなかったら、この男は 崩れ落ちた神殿の下敷きになって死んじまうかもしれないんだぞ。
おやっさんに この態度なら、俺なんか、この男にしてみたら アリかダンゴムシみたいなもんなんだろうって思ったら、無性に腹が立ってきた。
俺のむかつきに気付いているのかいないのか、アクエリアスの氷河は、作業に取りかかる許可を おやっさんに与えず、わざとらしく俺たちに背を向けて、宮の亀裂を確認し出した。
見たって、何もわからないくせに。

機嫌が悪いらしいアクエリアスの氷河より ふてくさっている俺を、おやっさんが低い声でなだめてくる。
「笑えとまでは言わんが、その顔をどうにかしろ。氷河さんの機嫌を損ねるなよ。以前、氷河さんの機嫌を損ねるようなことをしでかした聖闘士志願の若い者が、氷河さんに 氷漬けにされて大騒ぎになったことがあるんだ」
「こ……氷漬け…… !? 」
「ああ。フリージングコフィンとか言ってたな。なにしろ 黄金聖闘士の作った氷の棺。真夏の炎天下に置いても融けない氷で、それを融かして 閉じ込められた者を 蘇生できるのは、アテナを除くと乙女座の瞬さんだけ。たまたま その時、瞬さんは聖域にいなかったもんだから、その聖闘士志願の若い奴は、丸々3日間、氷の棺の中で死人として過ごすことになった。まあ、瞬さんがいてくれたら、そもそも そんなことにはならなかったと思うんだが」
「瞬さんがいてくれたら?」

『乙女座の瞬さん』って言うからは、その瞬さんって奴も黄金聖闘士なのか?
黄金聖闘士の氷河が作った 真夏の炎天下に置いても融けない氷を融かせる黄金聖闘士?
アクエリアスの氷河が氷の聖闘士なら、瞬さんてのは炎の聖闘士なのか。
やっぱり アクエリアスの氷河みたいに偉そうに構えてるんだろうか。
そして、アクエリアスの氷河を圧倒するくらいの大男とか?
なら、そいつに のされちまえばいいんだ、こんな礼儀知らず。
俺は、腹の中で そんなことを毒づいてたんだが、乙女座の黄金聖闘士に関する俺の推理は、事実と全然 違っていたようだった。

「ああ。乙女座の黄金聖闘士の瞬さんは、黄金聖闘士の中で いちばん 人当たりが やわらかい人で――優しくて 親切で、目下の者にも気を遣ってくれる人だ。言うなれば、黄金聖闘士たちの調停役なんだよ。黄金聖闘士絡みで何か問題があったら、みんなが瞬さんのところに行く。氷河さんの機嫌を損ねるようなことをしても――あの騒ぎの時も、瞬さんがいれば、瞬さんが氷河さんを執り成してくれたはずなんだ」
「へー」
黄金聖闘士の中にも、“優しくて 親切で、目下の者にも気を遣って”くれるような人がいるのか。
そりゃ よかった。
でなけりゃ、俺の中には、『正義の味方は みんな 礼儀知らずの ろくでなし』っていう固定観念ができるとこだったぜ。

「瞬さんがいない時には、とにかく慎重に振舞わなきゃならないんだが……。今日はいないようだ。まずいな」
おやっさんは、アクエリアスの氷河の不機嫌より、乙女座の瞬さんの不在の方を恐れてるみたいだった。
聖域での処世に慣れてるはずの おやっさんが これだけ不安そうだと、新米ペーペーの俺はもっと不安なんだが。

「その瞬さんってのを呼んでくることはできないのか」
「そんな畏れ多い。黄金聖闘士を呼びつけることなどできるわけないだろう」
「でも、そうすりゃ 仕事がスムーズに運ぶんだろ?」
俺は聖域に来て 超基本的な聖域の お約束を教えられたばかりの新米ぺーぺーで、黄金聖闘士が どれほど強いものなのかを知らなかった。
『強い』と聞いてはいたけど、その強さが どれほどのものなのか、実際に自分の目で見たことはなかった。
だから、気軽に そんなことを言えたんだ。
もっとも、おやっさんが 俺の提案を退けたのは、“乙女座の瞬さん”が強くて恐いからじゃなく、本当に『畏れ多い』と思ってるからだったんだが(そうだったことに、俺は あとになってから気付いた。おやっさんは、『助けてくれ』と泣きつけば、瞬さんが すぐに助けにきてくれることが わかってたから かえって、瞬さんに頼むことができなかったんだ)。
まあ、どっちにしても、俺の提案は、
「なにを こそこそ話している。言いたいことがあるなら、俺にも聞こえるように はっきり言え」
っていう、アクエリアスの氷河の不機嫌そうな声のせいで、実行に移すことはできなかったんだけど。

「申し訳ありません……!」
アクエリアスの氷河の不機嫌そうな声に すくみあがって、おやっさんが 水瓶座の黄金聖闘士の前で腰を折る。
その弾みで、おやっさんは、持参していた道具袋から金槌を取り落としてしまったんだ。
大理石の床に落ちた金槌が響かせた音は、更に だだっ広い宝瓶宮の中に木霊を生み、床に微かな傷を作った。
「やかましい。おまえ等は、この宮の修繕に来たんじゃなかったのか? それとも壊しに来たか」
それでなくても不機嫌艘だったアクエリアスの氷河の声に、苛立ちの響きが混じる。
アクエリアスの氷河に また頭を下げようとした おやっさんが 完全に頭を下げ終わる前に、俺は もう我慢ができなくなっていた。

黄金聖闘士だか何だか知らないが、相手は おやっさんの息子か孫で通る歳の若造。
俺と大して歳の違わない青二才だ。
確かに聖域は身分制社会なんだろうけど、世の中には 長幼の序ってもんがあるんだ。
おやっさんが 根性の曲がった悪党だとか、せこい卑怯者だっていうなら ともかくさ!
仕事熱心で、気がよくて、面倒見もよくて、聖域のために働けることを 誇りに思ってるような おやっさんに、仮にも正義の味方が この態度はないだろう!
そう思ったら――いや、思う前に、俺は黄金聖闘士に噛みついてしまっていた。

「あのさ! あんたは 自分の宮を修繕してもらう側の人間だろ? なに、そんな偉そうにしてんだよ!」
「……なに?」
アクエリアスの氷河が、微かに片眉を ぴくりと引きつらせる。
冷ややかな眼差しが 更に傲慢の色を濃くしたが、俺は その時にはもう、アクエリアスの氷河が黄金聖闘士だとか何だとか、そんなことはどうでもよくなってしまっていた。
「おやっさんは、あんたが崩れた大理石の下敷きになるのを防ぐために、ここに来たんだ。少しは 有難く思えよ。ついでに言っとくけど、俺たちは あんたに雇われてるわけでも、あんたから給金をもらってるわけでもない。あんたの方こそ、どっか行け。ここはこれから 石を削る音で うるさくなる。そんな 鬱陶しい不機嫌ヅラで見てられたら、仕事の邪魔だ!」
俺の口答えのせいで、おやっさんが真っ青になってる。
おやっさんは 全身が硬直して、声も出せなくなってるみたいで――俺は、自分の堪え性のなさを、おやっさんのために後悔した。
けど、それはそれ、これはこれ。
ここまで言いたいことを言っちまったんだ。
今更 あとには退けない。

「俺は、あんたなんか恐くないからな! 俺は いつ死んでも――殺されても構わないんだ。その方が好都合なくらいなんだからな!」
「ああ、そういえば、貴様は、母親に角膜待ちなんだったな。死ねば、欲しいものが手に入るというわけだ。命など惜しくはないか。いい覚悟だ。聖域にいる者なら当然のことだが」
へ?
なんで この男が そんなことを知ってるんだ?
俺は この男に会うのは 今日が初めてだし、もちろん 母さんのことを こいつに話したこともないのに。
ああ、それにしても寒い。
この宮は どうなってるんだ。
外に比べたら、20度は気温が低いぞ。
もしかしたら、これが小宇宙の力ってやつなのか?

アクエリアスの氷河の周りで 青白い空気の波が揺れて 広がってる。
おい、まさか 俺は ここで凍え死ぬんじゃないだろうな?
これが この男の戦い方なのか?
聖闘士っていうのは、もっと派手に景気よく、どかーんとか ばこーんとか、そういう戦い方をするんだろうって思ってたんだが。
この男、サドの気があるんじゃないか。
一思いに殺してくれればいいのに、こんなふうに じわじわと――。
寒い――寒い。
脳みそも心臓も凍りつきそうだ。

こんな死に方、こんな殺され方があっていいのかと、俺が、アクエリアスの氷河の陰湿な攻撃に腹を立て、自分の堪え性のなさを 本気で悔やみ始めた時。
俺が 本気で 死を覚悟した時。
なぜだか急に空気の流れが変わった。
アクエリアスの氷河が生んだ冷気が一瞬で どこかに消え、代わりに すごく暖かい空気が俺を包む。
“暑さ”ならともかく、“暖かさ”がすごいなんて変な話だが、実際 その暖かさは“すごい”ものだった。
ものすごい暖かさが、低温のせいで活動を止めかけていた俺の身体の細胞を生き返らせる。
その暖かさは 宝瓶宮の入り口の方から流れてきて――細胞が生き返って動けるようになった俺は、その暖かさが流れてくる方角に 視線を巡らせた。






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