『ならば、我が国は、エティオピアに対して宣戦布告する!』 氷河が母の許に向かうのは、そう叫びたくなった時 そう叫んでしまわないためだった。 そう叫ぶことは、父を殺された息子の当然の権利であり、王を奪われた国を継いだ者の義務だとも思うのだが、民の暮らし、民の命に考えを及ばせれば、それは 決断してはならない決断である。 そんな二律背反に苛立った時、氷河は彼の母の許に向かい、苛立つ心を落ち着けようとするのだった。 氷河の母ナターシャは、夫の死後15年間、ヒュペルボレイオスの摂政の地位に就いていたが、彼女の息子が親政を始めてからは、国政のことに口を挟むことは全く なくなっていた。 おそらくは、母として、息子の自立と成長を願い、その自主性の確立を願って。 そして、もう一つは、彼女の賢明と聡明さゆえ。 彼女にとって、氷河は血を分けた実の息子、夫亡きあと 深く愛し慈しみ育ててきた、かけがえのない我が子である。 そして、ヒュペルボレイオスの家臣団は、彼女にとって、突然 王を失った国を長きに渡って共に守り支えてきた、信頼のおける同胞。 元摂政である自分が そのどちらかに与することは、国の政治勢力の均衡を崩すことになるだろう。 おそらく そう考えて、彼女は、氷河が親政を開始した その時から、政治向きのことには 一切 口を挟まなくなったのだ。 それは、とりも直さず、彼女がヒュペルボレイオスの王と 王の家臣たちを信頼しているからで、氷河は 母のその期待に応えたいと常に思っていた。 だから、危険な決断を為してしまいそうになるたび、氷河は母の許を訪れ、その気持ちを落ち着かせることを習慣にしていたのである。 ヒュペルボレイオス国王が 彼の家臣たちとの間に決定的な不和を生むことは、彼女の望むことではないだろうと思うから。 氷河は本当は 母に、彼女は どうすべきだと思っているのか、その意見を聞いてみたかった。 摂政時代、彼女は エティオピアとの交易を途絶えさせなかった。 もちろん、王を弑されたからといって、女の身で復讐のための戦の指揮をとることは 彼女には不可能なことだったろうが、国交を断絶することや制限することは 女の身でも容易にできたはず。 にもかかわらず、彼女は その道を選ばなかった。 彼女が、民のために エティオピアとの交易を途絶えさせるべきではないと考えているのか、息子が成人した今こそ、夫の仇をとってほしいと願っているのか、氷河は彼女の真意を確かめたかったのである。 ヒュペルボレイオスの現国王の判断が、国王の判断でなく、母を思う息子の判断になることを避けるため、尋ねても 彼女が自らの真意を告げることはないだろうことは、氷河には わかっていたのだが。 春の微風に逆らうこともできないような優しい風情をしていながら、彼女は強い意思と心を持った女性だった。 息子への愛、民への愛――愛という力が、彼女を強く美しい人間にしているのだ。 氷河は、そんな母を誇りに思っていた。 ナターシャは、城の中庭の南に向いたベンチに腰を下ろし、冬が近づきつつある庭を眺めていた。 冬が来れば、ヒュペルボレイオスの南方にあるこの城の庭も雪に閉ざされる。 この時季にヒュペルボレイオスの民は、少しでも屋外に出て、陽光の恵みを受けておこうとするのだ。 深まりつつある秋の、やわらかく控えめな太陽の光。 その光の中に 静かに穏やかに佇む、強く美しく愛情深い女性。 氷河は、心から母を愛していた。 ヒュペルボレイオスから王を奪い、息子から父を奪っただけでなく、この美しい女性から夫を奪った国を許すことなど できるわけがない。 なぜエティオピアを憎んではならないのか、なぜエティオピアを拒んではならないのか、なぜエティオピアを叩き潰してはならないのか、氷河には その訳が わからなかった。 そんなことは決して すべきではないと考えているらしい大臣たちの顔を思い出すと、彼等への憤りと、彼等に憤りながら決断できない自分自身への憤りが 込み上げてくる。 こんな気持ちを抱えて、母の前に出ることはできない。 そう考えて、氷河は、しばし 落葉松の木の陰に立ち、自らの気持ちを落ち着けようとしたのである。 が、まもなく 氷河の気持ちを一層 落ち着かせなくなるものが、その場に現れて、氷河の心は ますます騒ぎ乱れることになった。 「王大后様。王大后様の ご賢察通り、東の お庭の方で カレンデュラの花が開いていましたよ」 庭の奥から、瞬が駆けてくる。 白く のびやかな手足を見ることができるのは結構なことだが、あんな軽装で瞬は寒くはないのかと、氷河は瞬の薄着を心配してしまったのである。 健康的というには少々 華奢がすぎるのに、不思議なほど美しく見える瞬の肢体を堪能できるのは、だが、やはり悪くない。 「まあ。さすがは 冬知らずの異名をとる花。健気で、強いこと」 「はい。でも、あの……花がとても小さくて、どうしても摘んでしまうことができなくて……」 「いいのよ。花に来てもらわずとも、私が花の許に行きます。でも、今は もう少し この陽だまりの中にいましょう。瞬、あなたもね。冬が、すぐそこまで来ているわ」 「はい、王大后様」 ナターシャの言葉を受けて、瞬が晴れた空を仰ぎ見る。 このところ、空は 日ごとに冬の色を深めていた。 どれほど厳しく つらい冬が来ようと、この2輪の花が この国 この城にある限り、自分は春を信じて耐えることができるだろう。 氷河は、そう思ったのである。 そして、自然に顔がほころぶ。 これなら 母の前に出ても大丈夫だろうと考えて、身をひそめていた落葉松の木を離れ、氷河は二人の許に歩み寄っていった。 「この国で最も美しい2輪の花を見るために、王自ら 出向いてまいりました。母上」 ベンチに腰を下ろしている母の前に立ち、軽く会釈をすると、ナターシャの脇に控えていた瞬が 小さな忍び笑いを洩らす。 「何だ」 氷河が視線を瞬の上に転じると、瞬は、笑いを忍ばせるのをやめて、はっきり そうとわかる笑顔を氷河に向けてきた。 「僕と王大后様しかいないんだから、マーマでいいのに、と思って」 「そうはいくか。俺にも体裁というものがある」 「氷河がそんなものを気にするの。大人になったね」 「おまえが 俺より年下のくせに 俺を子供扱いするから、マーマと呼ぶのをやめたんだ」 「僕のせいなの……?」 氷河は軽口を叩いただけのつもりだったのだが、瞬は それを真に受けてしまったらしい。 そして、瞬は、もしかしたら 氷河が彼の母を『マーマ』と呼ぶことを好ましく思っていたらしい。 眉を曇らせた瞬を見て、氷河は すぐに彼が口にした軽口を否定した。 「冗談だ」 瞬は、それでも不安そうに眉根を寄せたままである。 瞬に再び 笑顔になってもらうため、氷河は本当の理由を 瞬に白状する羽目になってしまったのだった。 「親政を始めて 最初の御前会議の席で、うっかり『前宰相』と言うべきところを『マーマ』と言ってしまったんだ。居並ぶ国務大臣たちに あっけにとられたのに懲りた」 「それは、大臣たちも驚いたでしょう。でも、氷河の うっかりは、双方の緊張を和らげるのに役立ったのではなくて?」 ナターシャが陽だまりの中に響かせた笑い声は 瞬の不安を消し去るのに役立ち、それは氷河をも安堵させた。 大臣たちは そのほとんどが 氷河を幼い頃から知っており、その呼び方のことも承知していたのだが、まさか 公の場で その呼び名を出されるとは思ってもいなかったのだろう。 中には 堪えきれず吹き出した者もいて、その時 以降、氷河は意識してナターシャを『母』もしくは『王大后』と呼ぶようになったのである。 普段から そう呼ぶ癖をつけておかないと、とんでもないところで ぽろりと その言葉が出てしまうのだ。 「氷河の『母上』に、そんな深い事情があったなんて。やだ、ごめんなさい」 「瞬。笑いすぎだ」 機嫌を損ねた振りはしたが、それは全く本心ではなかった。 瞬の笑顔は、秋の涼しい空気を 春の暖かいそれに変える。 母の微笑も優しく美しいが、瞬の笑顔は格別だと思う。 瞬が、姿だけでなく、その心根の美しいことも、氷河はよく知っていた。 なにしろ、十数年という時間を 共に側で過ごしてきたのだ。 そうしようと思えば、15の歳に親政を始めることもできたのに、氷河が それを2年遅らせたのは、『もう少し、瞬と遊んでいたいから』だった。 瞬は 氷河の母の気に入りで、摂政の地位を辞してからは、ナターシャは常に瞬を自分の傍らに置いていた。 どれほど激しい怒りに支配されている時にも、この二人の姿を見ると、氷河の心は安らぎ、自身の幸福を信じることができた。 瞬は、僅か2歳で父を失った子供を哀れんだ神々からの贈り物だったに違いないと、氷河は幼い頃から信じていた――今も信じている。 でなければ、これほど愛らしい生き物を捨てることのできる人間が存在することに、納得のいく理由を思いつくことができないから。 瞬は、赤ん坊の時に ヒュペルボレイオスの城の門前に捨てられていた捨て子――ということになっていた(氷河は、人に そういったことを言われるたび 必ず、『瞬は神々からの贈り物だ』と訂正していたが)。 その贈り物をナターシャが受け取り、彼女は瞬を我が子同然に――氷河と兄弟のように育てた。 氷河は瞬の気性を よく知っていたし、瞬もまた氷河の気性を よく知っている。 氷河が母の許にやってくる時、彼が何を求めているのかということも心得ていて、だから 瞬は『マーマ』などという言葉を持ち出したのだろうことも、氷河には わかっていた。 そうして 瞬は、苛立っている氷河の心を静めようとしてくれたのだ。 いつもなら、そうなっていたはず。 否、瞬に そんな手間をとってもらうまでもなく、その姿を見るだけで、氷河の心は凪いでいたはずだった。 だというのに、今日は気持ちが治まらない。 迫りくる冬が不安を煽っているのかもしれないと、氷河は胸中で忌々しく舌打ちをした。 「パンのために誇りを捨てることなどできるわけがない。なぜ、そんなことを俺に求めるんだ……」 昨年の今頃も、一昨年の今頃も、冬の前は いつもこうだった。 民を飢えさせて 誇りも何もあるものかと、家臣たちは言葉にはせず、氷河を責めるのだ。 「氷河……?」 氷河はまた、険しい表情に戻ってしまっていたらしい。 瞬がまた 不安そうな目を 氷河に向けてくる。 「そんな恐い顔をしていたら、瞬が怯えますよ」 ナターシャに注意され、氷河は 無理に怒りを消し去り、笑おうとした。 だが、笑うことができず、結局 無表情になるので精一杯。 結局 氷河は、母と瞬の前で開き直ることになった。 「今更、瞬が 俺を恐がったりするものか。子供の頃から片時も離れず、ずっと一緒だったんだ。瞬は 俺の不機嫌な顔など見慣れているだろう」 「見慣れていても、恐いものは恐いでしょう。ねえ、瞬」 憤りを隠し切れない氷河を、瞬は恐がっているようではなかった。 瞬はただ 不安そうで、そして悲しそうでもあった。 「氷河、恐いことを考えているの。氷河は そんなに お父様の仇を討ちたいの。どうしても エティオピア王に復讐したいの」 「恐がらないでくれ」 それは 瞬にとって“恐いこと”なのかと思うと、どうしようもない やるせなさに支配される。 だが“復讐”を“恐い”と感じる瞬の気持ちもわかるので――瞬なら そう感じるだろうと得心もできるので――氷河は対処に困るのだった。 人と人は、互いに互いを理解し合っていても、同じ価値観、同じ思いを抱く二人にはならないものらしい。 「俺が憎んでいるのは、父の仇である前エティオピア国王、そして、その血を引く者たちだけだ。エティオピアの国やエティオピアの民までを憎んでいるわけじゃない。だから、国同士の戦いは避けるべきと考えて、戦争を仕掛けるようなことはせずにいる。父の仇を討てたなら、そのあとは交易だろうが 投資だろうが 援助だろうが 何をしようと構わないし、二国の交流のために国庫から援助を出してもいいと思っているくらいだ」 自分で聞いていても、言い訳がましい口調だと思う。 だが、氷河は、瞬に恐がられることだけは 何としても避けたかった。 「決して戦はしない。エティオピアの農産物に頼らず、何とか冬を越す方法を考える」 しかし、その方法を思いつかないので、今は恐い顔しか見せられそうにない。 瞬を これ以上 恐がらせないために、氷河は この場は退散することにした。 母に会釈をし 彼女の前から辞する際、瞬に こっそり耳打ちする。 「今夜、部屋に行く」 瞬が無言で頷くのを見て、氷河は安堵の胸を撫でおろしたのである。 瞬は、こんなところで そんなことを言うヒュペルボレイオス王に戸惑い慌て、ヒュペルボレイオス王を恐いと思うのを やめてくれたようだったから。 氷河は母に 二人のことを秘密にしていた。 どう告げればいいのかが わからないし、それが報告しなければならないことなのかどうかも、氷河には わからなかったのだ。 ナターシャに秘密を持つことを 瞬が心苦しく感じているようだったので、一度、 「マーマに報告するか?」 と尋ねてみたことはあったのである。 問われた瞬が 頬を真っ赤に染め、泣きそうな顔で、 「氷河、本気で言ってるの」 と問い返して(訴えて)きたので、氷河は それを二人だけの秘密にすることにしたのだった。 年下のくせに、時折 ヒュペルボレイオス王を子供扱いする瞬に、『言うことをきかないと、二人のことをマーマに ばらすぞ』は 非常に有効な脅し文句として使えると思ったから。 3年前から、それは二人だけの秘密だった。 |