「話せば長くなるからと横着して、説明を はしょろうとした私が馬鹿だったわ」 知恵というものは、知識を多く有することではない――必ずしも そうではない。 知恵とは、物事や状況を客観的かつ正確に見極め、正しく判断し、的確に処理する能力である。 知恵の女神であるアテナは、もちろん、迅速に その作業に取りかかった。 まずは、登場人物の紹介から。 「元凶は、稀代の浮気者である大神ゼウス。その妻であるヘラは、婚姻と家庭生活を司る女神。そして、ヘスティアは、かまどの女神よ。結婚の喜びと引き換えに、すべての人間の家で中央に坐する権利を与えられた女神。で、彼女と 月の女神アルテミスと 私が、いわゆるギリシャの三大処女神。まあ、婚姻と家庭の守護神であるヘラには、私たち三人は 煙たい存在かもしれないわね。反りが合わないというか、肌が合わないというか――要するに、価値観が全く違うわけだから」 沙織は、『だから、できれば 相互不可侵でいたいのだ』と言いたげな顔になった。 が、神の世界も、人間の世界同様、色々な しがらみや都合があって、そういうわけにはいかないものらしい。 「ヘラは、女の喜びを放棄した我々に、せめて自分の美しさを誇るという 女ならではの喜びを与えてやりたいとか何とか言っているけど、本当のところは、妻の苦労を知らずに済んでいる我々をやっかんでいるんでしょうね。むしゃくしゃすることがあると、我々三人の美人コンテストを催して 鬱憤を晴らそうといるのよ」 「むしゃくしゃすることがあると?」 「ええ。つまり、ヘラの夫であるゼウスの浮気が発覚するたびに。要するに、しょっちゅうよ。エリスの黄金のリンゴが、その思いつきの発端だったから、かれこれ3000年以上前から、既に数百回。そんなものに付き合わされる我々の身にもなってちょうだい」 『我々の身になれ』と言われても、彼女の聖闘士たちには、どうすれば自分たちが処女神たちの身になれるのかが わからなかった。 なにしろ、彼等には そんな面倒事を持ち込んでくる知り合いは(沙織の他には)いなかったし、それより何より、そもそも 彼等は処女神たちの身になりたくなど なかったのだ。 彼等にできたことは ただ、3000年の間に数百回も浮気を繰り返したらしいゼウスの勤勉さに ひたすら呆れ、感心することだけだった。 「浮気することに飽きねーのか、そのゼウスって奴は」 「夫の浮気に いちいち むしゃくしゃするヘラも、律儀といえば律儀だ」 「沙織さんは、そんなヘラを気の毒に思って、彼女の鬱憤晴らしの美人コンテストに付き合ってあげているんですか」 「俺は浮気はしない」 星矢、紫龍、瞬のコメントと 氷河のコメントは、かなり方向性が違っていた。 沙織が、どういうわけか、一人だけ 場の流れが読めていない氷河のコメントに、嬉しそうに頷く。 「で、話は、ヘラが最初の代理美人コンテストを催した時に遡るのだけど――。ヘラが 私たちの喜びとやらのために そんなコンテストを催すのでないことは、もちろん 私たちには最初からわかっていたわ。それは おそらく彼女の鬱憤晴らしにすぎないだろうって。でも、そんなものを開いたって、ヘラの気持ちが凪ぐわけはないでしょう。何か裏があるのではないかと怪しみつつ、ヘラ主催の美人コンテストに、私は私の代理人を送り込んだのよ。その時は、ヘスティアの代理人が優勝して、その優勝者は悲惨な目に会った。次のコンテストは、それから数年後。今度はアルテミスの代理人が勝って、その優勝者も同じ目に合った。その次も、そのまた次も――とにかく、代理美人コンテストに優勝した女性たちが全員、同じ災難に見舞われたの」 「同じ災難って、どんな災難だよ?」 星矢の質問は、至極 当然かつ自然なものだったろう。 この場合、それ以外の質問をする者がいたなら、どう考えても、その人間は 場の流れや空気を読めていない人間である。 星矢の当然かつ自然な質問に答えることを、しかし 沙織は一瞬 ためらった――ようだった。 もしかしたら 彼女は、その災難の詳細を口にしたくなくて、事情説明を はしょろうとしたのだったのかもしれない。 だが、ここまで説明してしまったからには、もはや それは語らずに済ませられることではないだろう。 彼女は、いかにも 不本意そうな口調で、代理美人コンテスト優勝者たちを見舞った災難の内容を、彼女の聖闘士たちに語ってくれたのだった。 「それは つまり――その代理美人コンテストの優勝者が 全員、コンテスト開催から一両日のうちに、恋人を寝取られたのよ。どこの誰ともわからない女に。おそらく、ヘラが送り込んだ美女に」 「は?」 それは いったい どういうことなのか。 アテナの聖闘士たちが 揃って理解不能の表情を作る。 沙織は、『できれば 自分も そんなことは理解したくなかった』と言わんばかりに、小さな吐息を洩らした。 「要するに、ヘラの目的は、もちろん 私たちに 喜びとやらを与えることではなく、美人を選ぶことでも選ばないことでもなく――『どれほど美しい妻や恋人を持っていても、男は浮気するものだ』という実例を見て、夫に浮気されまくっている自分の心を慰めることだったわけ」 「……」 アテナの聖闘士たちは、再び 揃って 理解不能の表情を作ることになったのである。 人類史上――否、神々も含めて、この世界開闢の時から 今日この日まで――夫の浮気に そんな反応を示したことのある妻が存在しただろうか。 夫の浮気に、そういう方法で対処した妻がいただろうか。 おそらく ただの一人もいなかっただろうと、アテナの聖闘士たちは かなりの確信を持って思った。 「わけ、わかんねー」 そう言ったのは星矢だったが、言葉にしないだけで、アテナの聖闘士たちの思いは ほぼ同じだった――『ヘラの気持ちが わからない』。 「夫の浮気相手なら まだしも、夫にも自分にも全く関係のない赤の他人である女性の恋人に浮気をさせて、それで 夫に浮気される妻の心が慰められるのか? 亭主の浮気が腹立たしいのなら、浮気した亭主を とっちめればいいだけのことだろう。でなかったら、いっそ自分も浮気して、亭主に意趣返しをしてやればいいんだ」 ヘラよりは常識的だろう氷河の言に、沙織は 一度 頷き、そうしてから 彼女は首を横に振った。 「それをしないところが、ヘラの健気なところというか何というか」 「それだけ亭主に惚れているということか」 自らの伴侶を苦しめる男だというだけで、氷河にとって ゼウスは 惚れる価値のない男だった。 浮気ばかりしているゼウスも ろくでなしだが、そんな男に しがみつき続ける女も ろくなものではない。 ろくでなしの夫に、ろくでもない妻。 割れ鍋に綴じ蓋。蓼食う虫も好き好き。 それなら 自分たちだけで世界を完結させ、余人に迷惑をかけないでほしいものである。 氷河は、心の底から そう思った。 が、沙織は、氷河よりは もう少し哀れみの心を持ち合わせていたらしい。 「ヘラの そんな健気さに免じて、私も彼女の我儘を大目に見て、彼女の我儘に付き合ってやっていたのだけど――昨日 ヘラからまた代理美人コンテスト開催の知らせを受け取ったの。それで、ちょっと気が向いて 数えてみたら、今度のコンテストが ちょうど1000回目だったのよ。で、そろそろ この馬鹿げた騒ぎを終わらせてもいい頃だと、私は思ったわけ」 「代理美人コンテストが1000回目ってことは――」 「そう。つまり、ゼウスの浮気も1000回目」 「ふぇー」 それは偉大な記録である。 偉大すぎて、星矢は、言うべき言葉を思いつけなかった。 星矢の絶句は、だが、ゼウスの浮気の記録だけのせいではなかったのである。 ゼウスが浮気をするたび、ヘラによって催されてきた代理美人コンテスト。 そのコンテストが今も続いているということは、これまでのコンテスト優勝者999人全員が 恋人を寝取られたということ。 コンテスト優勝者の恋人たち999人全員が 自らの恋人を裏切り、浮気に走ったということである。 ヘラが どれほど妖艶な美女を送り込んでいるのかは想像もできないが、それもまた 偉大な記録である。 そして、そのコンテストに毎回 付き合ったアテナもまた 偉大といえば偉大――なのかもしれなかった。 さすがに、その偉大さにも限界はあったらしいが。 「ゼウスの浮気が1000回。代理美人コンテストの開催が999回。ヘラの誘惑に屈して恋人を裏切った男が999人。恋人に裏切られた女性が999人。もう十分だと思うでしょう」 「その100分の1でも十分だ」 「ご賛同いただけて嬉しいわ」 紫龍は 決して沙織の意見に賛同していたわけではなかったのだが、彼は その件については特に言及しなかった。 そんなことより彼は、『もう十分』と判断した沙織が、では どうするつもりなのか、そちらの方を早く知りたかったのである。 沙織が 紫龍の意図を汲み取り、彼女の計画を 彼女の聖闘士たちに披露する。 「私は、だから、この世には浮気しない男もいるということをヘラに示してやろうと考えたわけ。瞬を私の代理として美人コンテストに出す。もちろん、瞬が優勝する。ヘラは当然、瞬の恋人に浮気させようとするわけだけど――氷河は浮気はしないでしょう? なにしろ、氷河は 瞬ひとすじだもの。ねえ、氷河」 そういう言い方をされては、氷河としても、『その通りだ』と応じるしかない。 氷河は、沙織のその問い掛けに、 「もちろんだ」 と答えた。 だが、そのために瞬を ヘラ主催の代理美人コンテストに参加させることを認められるかどうかということは、全くの別問題である。 「けど、沙織さん」 沙織の計画の欠点を指摘したのは、星矢だった。 「この世に 浮気をしない男もいるってことを知ったら、そのヘラって女神サマは、自分の亭主の浮気が ますます許せなくなるだけなんじゃないか?」 沙織の目的が、夫に1000回浮気された妻の怒りを静めることであるのなら、代理美人コンテストへの瞬の参加は あまり意味のないものであるように思える。 星矢は その点を指摘したかったのだが、沙織の目的は、ヘラの怒りを静めることではなく、あくまでも代理美人コンテストの中止――夫婦間の問題に第三者が巻き込まれる事態をなくすことだったらしい。 「それで、ヘラが美人コンテストの開催をやめて、亭主いびりに精を出すようになってくれれば、問題解決でしょ。私たちは面倒事から解放されて、万々歳」 「なんだか、かわいそう……」 瞬の呟きの主格は、当然『ヘラ』である。 ヘラへの瞬の同情を見てとった氷河が、ヘラのためではなく、瞬のために口を開く。 「ゼウスの浮気をやめさせるのが、本当の問題解決ではないのか」 まったくもって正論。 沙織も、それは わかっているようだった。 「それはそうなのだけど、ゼウスの浮気は病気のようなものだし――。ゼウスの浮気相手も“魚心あれば水心あり”で、それなりの益があるから ゼウスの誘惑に乗っているのよね。神話の時代には、大神ゼウスの愛人というのは一種のステータスだったし――最近は、ブランドもののバッグやアクセサリーで釣っているようよ」 「ブランドもののバッグやアクセサリーだ !? 」 一気に、急に話が下世話になる。 それで釣る男も男なら、それに釣られる女も女である。 氷河の不快は そろそろ臨界点を突破しかけていた。 要するに、それをするのがギリシャの最高神だというだけで、所詮 浮気は浮気でしかないのだ。 そして、代理美人コンテスト開催は、下半身に節操のない男と、そんな男に固執する女との、傍迷惑な痴話喧嘩の付随物でしかない。 なぜ そんな低俗なイベントに、地上で最も清らかな魂を持つ者が参加しなければならないのか。 氷河には それは、天地が引っくり返っても受け入れられない事態だった。 「冗談じゃない! そんなコンテストに瞬を出して たまるか! これまで、仮面をつけた女聖闘士で逃げを打ってきたというのなら、シャイナか魔鈴を出せばいいじゃないか。まかり間違って 沙織さんの代理人が優勝することになっても、寝取る男がいない女を送り込めばいいんだ」 「魔鈴さんを夫婦喧嘩に巻き込むなんて、冗談じゃないぜ! おっかないけど、魔鈴さんは 俺の大事な師匠なんだからな!」 星矢が、氷河の提案に 即座に異議を唱える。 星矢にしてみれば、人様の迷惑を考えていないという点では、氷河の提案も ヘラのヒスと大した差のないものだった。 たとえアテナの代理としてでも 美人コンテストなどというイベントへの参加を、魔鈴やシャイナが喜ぶはずがない。 アテナの命令となれば、しぶしぶ参加することだけはするかもしれないが、それで勝っても負けても、彼女等が機嫌を悪くすることは火を見るより明らか。 そうして機嫌を悪くした彼女たちの鬱憤晴らしの標的は、アテナではなく、氷河や瞬でもなく、天馬座の聖闘士になるに決まっているのだ。 それくらいなら まだ、瞬がコンテストに出る方が、天馬座の聖闘士が被る被害は軽微なもので済むだろう。 本気で怒らせさえしなければ、瞬は魔鈴やシャイナの100分の1も恐くない。 咄嗟に そう判断し、星矢は すみやかに その方向への軌道修正作業を開始したのである。 魔鈴やシャイナではなく、瞬をアテナの代理として美人コンテストに参加させるために、星矢は瞬に働きかけるのではなく、氷河への挑発に取りかかった。 「要するに、おまえは自分に自信がないんだろ? 美人コンテストに瞬が出たら、当然 瞬が優勝する。そうすると、ヘラとかいう恐い おばさんが、おまえのところに色っぽい ねーちゃんを送り込んでくる。そのねーちゃんの誘惑に打ち勝てる自信が、おまえにはないんだ」 星矢の挑発は実に的確なものだった。 氷河が、間髪を入れずに その挑発に乗ってくる。 「貴様は何を言っているんだ! どんな美女が迫ってきても、その女が 瞬より綺麗で可愛いはずがない。瞬より清らかで美しい心を持っているはずがない。それが どんな誘惑であったとしても、俺が そんなものに屈するはずがないだろう!」 「それはどうだかなー。相手は、沙織さんと渡り合うほどの力を持った 偉い女神様なんだろ? しかも、これまで ただの一度も誘惑に失敗していないんだろ? どんな女を差し向けてくるかわかんねーぜ。おまえの好みを どんぴしゃに突いた女を送り込んでくるかもしれない。それこそ、マーマそっくりの女とかさ」 「貴様、マーマへの俺の神聖な愛を侮辱するかっ!」 自らの命を捨てて 我が子を守った母への崇高な思慕。 同様に、自らの命をかけて 恋人を(当時はまだ、命がけの戦いを共に戦う ただの仲間同士だったが)甦らせてくれた瞬への一途で熱烈な恋情。 その二つを同時に侮辱されて、氷河が黙っていられるはずがなかった。 「俺は浮気はしない! 決して瞬を裏切らない! 俺を どこぞの好色ジジイと一緒にするな!」 「べつに好色ジジイと一緒になんかしてねーぜ。俺は ただ、敵は百戦錬磨で負け知らずの老練家、どんな手で おまえを籠絡しようとしてくるか わかんねーし、おまえが必ず その誘惑を退けられとは限らねーって、言ってるんだよ」 「欲求不満のヒステリー女が どんな手を繰り出してこようと、結果は同じだ。俺は どんな誘惑にも屈しない!」 「口では何とでも言えるぜ。『俺は浮気はしない』なんて、どこぞの好色ジジイにだって言える台詞だ」 「口だけではないことを証明してやる。瞬、その美人コンテストとやらに出ろ!」 「え……?」 それが良いことなのか よろしくないことなのかの判断は さておいて、愛のためだけに生きているような男が、その愛の価値と質と強さを疑われたのだ。 あっさりと星矢の挑発に乗ってしまった氷河を 軽率だと責めるのは、酷というものだろう。 が、この場合、気の毒なのは、氷河の愛の側杖を食わされることになった某アンドロメダ座の聖闘士だった。 「コンテストに出ろって……あの、でも、僕の意思は……」 「俺の愛と名誉がかかっているんだ! おまえは、おまえへの俺の愛が疑われても平気なのか!」 「……」 ここで『僕は全然 平気です』と答えてしまったら、氷河が どういう方向に怒り、騒ぎ、暴れ始めるか わかったものではない――わかったことではないことを、瞬は わかっていた。 『おまえは 俺の愛を疑っているのか!』と騒がれることも、『おまえは 本心では 俺の愛など どうでもいいと思っているんだ!』と 駄々をこねられることも避けたかった瞬は、ここは黙って氷河の言葉に従うしかなかったのである。 |