「……」 知らないって言うのが癪だから、俺は黙ってた。 パスカルは知ってたぞ。 バスカルの三角形とかは、ちゃんと知ってる。 それから、パスカルの原理とかパスカルの定理とか、中学の数学だか物理だかで、そういうのがあるんだ。 でも、氷河の言うパスカルの賭けは、算数でも理科でもなかった。 「神の実在を証明することはできないかもしれない。だが、神が存在することに賭けても、人は何も失わない」 氷河の言葉に、瞬が続けて、 「むしろ、生きることの意味が増す」 って、補足追加する。 それがパスカルの賭け? いるかどうか わからない神様。 いるって信じても、損するわけじゃないってのが? パスカルって馬鹿か? それとも、死ぬほど おめでたい奴なのか? 神がいるって信じても失うものはないかもしれないけど、いないものを信じるのって、時間の無駄じゃないか。 生きることの意味が増すって、どういう意味だよ。 『わからない』って顔をした俺を見おろして、もしかしたら氷河は 初めて微笑した。 「俺は賭けているんだ。俺たちの恋は永遠に終わらないと。俺と瞬は永遠に一緒にいられると」 そう信じても、何を失うわけでもないから? 俺は――その時、氷河は 俺を睨んでなかったし、俺を馬鹿にしてるみたいな顔もしてなかったし、それどころか これまでと全然違う穏やかな目をして、微かに笑ってたんだけど、なのに 何か ものすごい迫力があって――俺は 思わず息を呑んだ。 なんだよ。 苦労知らずの 幸せで おめでたい馬鹿のくせに、なんでこんなに自信満々に偉そうで、強そうなんだよ。 反発を覚えながら、でも 何も言い返せずにいる俺に、瞬が あったかい声で言ってくる。 「きっと、誰もが そうなんだと思うよ。君も、いつか いいことがあるって、賭けてみない? そう賭けてみたって、失うものは何もないよ」 瞬は 氷河ほど偉そうじゃなくて、横柄でもなくて――それで俺は口をきけるようになった。 「賭けに負けたら、もっと悲しいじゃないか」 「その時は、次の賭けをするの。今度こそ、きっと――って。人はみんな、そんなふうに希望という賭けを繰り返しながら、生きているんだよ」 負けて、悲しくても? いじめっ子を見返すのに失敗しても? それでも『今度こそ、きっと』って思える奴は、鈍感な ただの馬鹿だろ。 死ぬ勇気を持てない奴が、そんな気休めに すがって、カッコ悪く生き続けるんだ! ……って、俺が言えなかったのは、もしかしたら、『そんなことを言ってしまったら、俺は 本当に死ぬしかなくなる』って思ったからだったんだろうか? そんなはずはない。 俺は死ぬつもりで――死ぬつもりで、家を出たんだ。 死ぬつもりで、今 ここにいるんだ。 「いいことはあったでしょう? 氷河がクレープを奢ってくれた」 「クレープなんて、そんなの……」 「明日は、もっといいことがあるよ」 「安請け合いするなっ!」 俺は、ほんとは瞬を怒鳴りたくなんかなかった。 本当に、怒鳴りたくなんかなかったんだ。 この人に呆れられ、見捨てられたくなかった。 瞬は、俺を見捨てなかったけど。 「そこは賭けなの」 瞬は、俺を突き放さなかった。 そうしても よかったのに。 普通は そうするのに。 俺は、瞬にとって見知らぬ他人で、他人のくせに邪魔で鬱陶しい子供なんだから。 なのに。 「明日、もう一度、ここで会おう。いいことがなかったら、氷河がまたクレープを奢ってくれるから。明日は、ワンランクアップして、生チョコバナナスペシャル・メープルソースがけ。時刻はもう少し早い方がいいね。夕方6時にここで。どう?」 なのに、瞬は そう言った。 広場の端に立っている時計灯は、もうすぐ12時になろうとしていた。 小学生が外にいていい時刻じゃない。 死ぬつもりで家を出たはずだった俺は、『ここからだと、家まで歩いて30分』なんて、変なことを考え始めていた。 変なこと――変なことだ。 これから死ぬ人間は、そんなこと考えない。 俺は、瞬に、 「クレープなんかいらないから、俺と写真 撮ってくれ。俺、明日、カメラ持ってくるから」 って、せがんでたんだ。 あの頃は携帯電話もまだ普及していなくて――家に 使い捨てカメラがあることを思い出して、俺は瞬に――いや、瞬さんに――頼み込んだ。 瞬さんみたいに綺麗な人と映ってる写真を見せたら、クラスの奴等は俺に一目置くに違いないって、俺は思ったんだ。 それは小さな希望――入試の失敗で 完全に打ち砕かれてしまった俺のプライドを復活させるための、小さな希望だった。 「写真? それは構わないけど……」 どうして俺が そんなことを言い出したのか、瞬さんはわかっていないみたいだった。 瞬さんは自分の価値をわかっていなかった――その隣りに立つだけで、俺にまで輝きを与える自分の力をわかっていなかったんだろう。 そして 俺は――俺は、受験の失敗が つらくて生きていたくないって思ってたわけじゃなく、俺のプライドが粉々に打ち砕かれたことにこそ 生き続ける気力を殺がれてしまってただけだったから、失われたプライドを復活させる術があるのなら、それに すがりたかった。 そう。俺は 本当は死にたくなんかなかったんだ。 俺が みじめな いじめられっ子じゃないってことを、クラスの奴等に思い知らせてやることができるなら、別に死ぬ必要はなかった。 俺は、瞬さんを利用して、自分のプライドを回復させることを目論んだ。 きっと それで俺の目的は達せられると思った。 もし明日、瞬さんに会えなかったら、その時こそ絶望して死ねばいい。 そう考えて――俺は一度 家に帰ることにしたんだ。 |