それからも、私の人生は決して順風満帆ではなかった。
だが、もう駄目だと思うたび
『成功するとは限らない。でも、挑戦してみても、今より悪くなることはない』
そう自分に言いきかせ、勇気を奮い立たせて困難に立ち向かい、幾つもの危地を何とか乗り越えてきた。
大会社の社長にも総理大臣にもなれなかったし、ノーベル賞にも 今のところは縁がない。
けれど、『子供には希望を持って生きていってほしい』と願うことのできる大人にはなれた。
妻は母さんと うまくやってくれているし、最近 とみに子供の頃の私に似てきた坊主は、今が生意気盛りだが、そこが気恥ずかしく思えるほど愛しくて可愛い。
いつか あの子にも、あの日の私のように つらいことが降りかかってくることがあるんだろうか。
その時、あの子の前に救い主は来てくれるのか。
私は あの子を守ってやれるだろうか――。

『クリスマス・キャロル』のブルーレイの前で、私は かなり長い間 ぼうっと突っ立っていたらしい。
自分で自分にきまりの悪さを覚え、私は一人で自分のために苦笑した。
そして、『6歳の坊主に、クリスマス・キャロルの切なさ・温かさが わかるかどうかは わからない。でも、見せてみても、失うものは何もない。今年が駄目なら来年があるさ』と賭けをして、そのブルーレイを購入し、店を出た。

時刻は、そろそろ8時になるというのに、明るい都会。
ビルとビルの間にある夜空では、幾つかの星が冬らしい白い光を放っている。
あれから四半世紀の月日が経ったんだ。
その間、色々なことがあったのに、過ぎてみれば、時の流れというものは本当にあっという間だ。
氷河の賭けは どうなったんだろう。
あの二人は、今も幸福な恋人同士なんだろうか。
きっとそうだと、今も あの二人は この世界のどこかで幸せに寄り添い合って生きているに違いないと、私は思った。
そう信じても、失うものは何もないからな。

氷河に教えてもらったパスカルの賭け。
あの夜は、私の運命の夜だった。
何が――どんな出来事が、どんな出会いが、人の運命を変え、決するものか、わからないものだ。
あの夜 あの二人に出会えなかったら、私は今頃 どうなっていたことか。
そもそも私は今 生きていたのだろうか。
あの夜 あの二人に出会えたことは、神が私に与えてくれた最高の恩寵だった。
『神様、ありがとう』
私はクリスチャンではないが、今は12月。クリスマスの月。
気安く神に感謝しても、神も怒りはしないだろう。

そんなことを考えながら 私は街の雑踏を構成する人間の中の一人になり、そして、その時、私はクリスマス仕様の街の人混みの中に不思議なものを見たんだ。
金色の髪の男と、途轍もない美少女の二人連れ。
何も目立つことはしていないのに、異様に目立つ その二人。
二人は、二人の周囲の空気までをも、幸福に光り輝かせている――。

私は、自分の目を疑った。
ほとんど反射的に、自分の手を見る。
そこにあったのは、成人した男の手。
そうだ。あの時 12歳だった いじめられっ子は、今は37歳の妻子持ちだ。
なのに――なのに、氷河と瞬は何も変わってなかった。
いや、全く変わっていないわけではない。多分。
氷河は身体に厚みが増して、瞬さんは髪が少し長くなっている。
背も、ちょっとだけ伸びた――だろうか?
表情も、あの夜より少し 大人びている――ような気がしないでもない。
だが、それにしても――。

あの時――四半世紀前の12月の あの夜。
小学生の私にとって、二人は十分に大人だったが、あの時 彼等は多分まだ10代だったろう。
二人共、私より10歳以上 年上だったはずはない。
37歳の今の私なら、ためらわずに子供扱いする歳だ。
10代の子供が四半世紀の時を経たのに、いくら何でも変わらなさすぎる。
本当にあの二人なのか。
あの時、あの夜、私が出会った二人なのか――?

驚きのあまり その場に立ち止まってしまっていた私は、街を行く人たちの通行の妨げになっていたらしい。
そのことに気付き、慌てて歩道の脇に寄った私が もう一度 彼等の姿を確かめようとした時、二人の姿はもう どこにもなかった。
私は 幻を見たのか?
いや、そんなはずはない。
今の二人の姿が、四半世紀前の12月の夜を懐かしむ気持ちが私に見せた幻なら、二人は あの夜のまま 何も変わっていなかったはず。
しかし、二人は、あの夜のままの二人ではなかった。
二人共、何かが少し違っていた。
少しだけ、確かに二人は大人になっていた。

街頭放送なのか、どこかの店が流していたのか、12月の夜の空に響いていたハンドベルの『聖夜』の音が小さくなり、代わりに氷河の声が 私の耳と心に響いてくる。
『俺は賭けているんだ。俺たちの恋は永遠に終わらないと』
深く青い瞳。
全く ふざけたところのない声の響き。
氷河は、本気で賭けていただろう。
言葉の遊びではなく、本当に、心から、命をかけて、真剣に、二人の恋を貫くつもりでいた。
永遠の恋を願う恋人たちは、心から愛し合い信じ合う恋人たちは、美しく幸福な恋人たちは、歳をとらないものなのか――。

あの二人だった。
この目に捉えていたのは5秒にも満たない短い時間だったが、間違いなく あの二人。
周囲の空気が、あの二人のものだった。
二人の変わらぬ美しさ。
二人を取り巻く――いや、二人が生んでいる あの不思議な空気。その力。
それらが奇跡なのか、ごく自然なものなのか、私にはわからない。
そんなことは どうでもいいことだ。
あの二人の上になら、奇跡も自然に起きるだろう。
そんなことは、あれこれ思い悩み、不思議がるようなことじゃない。

大事なことは、氷河が未だに負けを知らずにいるということだ。
氷河は 今も あの賭けに勝ち続けているらしい。
二人が あの夜と変わらず、美しく幸せでいてくれることが、私は嬉しかった。






Fin.






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