恋を失っても、親を失っても――人は いつまでも その悲しみの中に浸っていることはできません。
ヘリオスに捨てられた悲しみに耐えきれず ヘリオトロープの花になってしまった娘のような幸運は、滅多に人の上に降ってこないものなのです。
太陽神ヘリオスが太陽の馬車に乗って空を駆け始め、アルカディアの野に朝が訪れると、屋外にいて陽光を浴びていることが つらく感じられ、氷河はふらふらと 彼の家に向かって歩き出しました。
いかにも生気を欠いた様子で 氷河が家の扉を開けると、陽光が射し込む窓から いちばん遠い梁の上にいたポイニクスが、不機嫌そうな声で この家の主を迎えてくれました。
「夕べはどこにいたんだ。瞬の兄を探し出すだの、瞬との恋を諦めないだの、偉そうに言っておきながら、やはり無理と悟って、どこぞの女の家にでも転がり込んでいたか」

そうと決めつけて責めてくるポイニクスに反論する気力も湧いてきません。
氷河は無言で 食堂を兼ねた居間を通り抜け、寝室に一直線。
倒れ込むように部屋の扉を押し開け、寝台には 本当に倒れ込みました。
氷河のあとを追いかけてきたポイニクスが、寝台の脇にある小さな卓の上に飛び下ります。
氷河の寝室は 直接 陽光が入り込まない造りになっていましたので、明るいところでは目が利かないポイニクスにも、氷河の様子が見てとれたのでしょう。
ポイニクスは、氷河の髪や衣服が濡れているのは夜露のせいと察し、何より 氷河の氷河らしからぬ暗い眼差しに ただならぬものを感じたようでした。

「何があったんだ。何があったのか、言ってみろ」
氷河に 説明を促すポイニクスの声は、ポイニクスにしては皮肉の響きのないものでしたが、氷河は自分の つらい失恋のことを 彼に話す気にはなれませんでした。
瞬の衝撃の拒絶から 一晩が過ぎて、ポイニクスに笑われようが馬鹿にされようが、そんなことは もうどうでもいい気持ちになっていましたが、氷河は今は 何かをする気力を持てなかったのです。
「鳥に話しても、何にもならない」
氷河の無気力な返答に、ポイニクスは食い下がってきました。
「フクロウは、知恵の女神アテナの聖鳥。馬鹿に知恵を授けてやることができるかもしれないだろう。いいから、言え」
「……」

知恵で恋が実るなら、丸々と太った羊を10頭も捧げて、『俺に知恵を授けてくれ』とアテナに祈ることもするが――と、氷河は思ったのです。
知恵で瞬の心を動かすことはできないことを、氷河は知っていました。
それでも 氷河が、昨日の瞬の冷たい拒絶のことをポイニクスに話し始めたのは、いってみれば、気を紛らせるためでした。
何も言わずに 一人で自分の思考の中に沈み込んでいると、自らの傷付いた心を楽にするために、自分が 瞬を恨むことを始めてしまいそうで、氷河はそれが嫌だったのです。
自分を拒絶したから、自分を拒絶した人を嫌いになろうとするなんて、それは あまりにも みっともないことですからね。

瞬とのやりとり――昨日の瞬の言葉、昨日の瞬の様子――それらのことを一通り聞き終えると、ポイニクスは開口一番、
「それで すごすご引き下がってきたのか、この大馬鹿野郎!」
と、氷河を怒鳴りつけてきました。
「なにっ」
自分を利口だと思ったことはありませんが、自分の命と人生をかけた恋を失ったばかりの男に『大馬鹿野郎』はないでしょう。
氷河は むしろ、『失恋のショックで錯乱し、暴れたり泣きわめいたりしなかったのは、おまえにしては偉かったな』くらいの称賛があってもいいのではないかとさえ思っていたのです。
せめて、『それは つらかったな』という慰撫の言葉くらいあってもいいではありませんか。
それが人情というものです(ポイニクスは鳥でしたけれど)。

ポイニクスの非人情な言葉に、氷河は少し むっとしました。
たくさん むっとする気力は、まだ湧いてこなかったので。
けれど、氷河は すぐに、ポイニクスの評価が 極めて正当なものであることを知ることになったのです。
「瞬は自分が兄を探しに行くつもりなんだ。瞬は、おまえを危険な目に合わせることはできないと考えて、わざと おまえに冷たくしたんだ」
という、ポイニクスの言葉によって。
「瞬が、俺を危険な目に合わせないために……?」
「瞬は そういう奴だ」
お陽様の光が苦手なポイニクスは、瞬に会ったことはないはずです。
瞬を知らないはずのポイニクスが、瞬に恋い焦がれている男より 瞬をわかっているようなことを言うのは なぜなのか。
氷河は まもなく、その訳も知ることになりました。
もっとも氷河は、その訳を、すぐには信じる気になれなかったのですけれどね。

「いや、もっと馬鹿なのは俺だ」
低く苦しそうな声で そう呻いて、ポイニクスは、天地が引っくり返ることがあっても、太陽が西から昇ることがあっても、それだけは絶対にないと断言できるようなことを言い出したのです。
そんなことがあり得るはずがありません。
そんなことを信じられるはずがありません。
あろうことか ポイニクスは、
「瞬の兄は俺だ」
なんてことを言ってくれたのです。

氷河は 最初、それを聞き間違いだと思いました。
次に、所詮 鳥類のポイニクスは、人間の言葉の意味を間違えて覚えているのだと思いました。
そんなことがあるはずがありません。
そんなことは あり得ないことです。
瞬は、光あふれる地上の楽園アルカディアの野に咲く どんな花よりも可憐で可愛らしい花。
夜行性で 灰色で 首を180度回転することができるような兄など いるはずがないのです。
けれど、ポイニクスは、自分が瞬の兄だと言い張り続けました。

「俺が瞬の兄なんだ」
「な……何を馬鹿なことを言っているんだ。瞬の兄なら、それは美しく聡明で心優しい美少年のはず。憎まれ口しか叩けない、根性悪のフクロウがどうして瞬の兄なんだ!」
「だから、俺は元は人間だったと言ったろう。俺はこれまで30回は そう言ったはずだ!」
「……」
そう言われてみれば。
自分は元は人間だったという話を、氷河は これまでに40回くらいはポイニクスに聞かされていたような気がしました。
そして、それは絶対にあり得ないことではありませんでした。

自分の髪をアテナより美しいと自慢して、アテナに 身の毛もよだつような醜い怪物にされてしまったメドゥーサ。
自分はアテナより優れた織り手であると豪語して、アテナに 蜘蛛に変えられてしまったアラクネ。
海の神グラウコスの求愛を拒んで、魚の尾と6つの犬の頭と12本の犬の足を持つ化け物にされてしまったスキュラ。
美しい容姿を持った人間が、神の力で 人間でないものにさせられてしまった前例は いくらでもありますからね。
美しく聡明で心優しい美少年であるところの瞬の兄がフクロウの姿に変えられてしまうことは、決して あり得ないことではなかったのです。
でも、いったいなぜ。
事情がわからず眉根を寄せた氷河に、瞬の兄であるらしいポイニクスは、彼が フクロウに変えられてしまった経緯を語ってくれました。






【next】