最悪な形での足止め。
熱砂の砂漠の中にある岩の館(といっても、大理石の神殿ではありません)の前で、瞬はちょうど、ヘリオスの娘である魔女キルケーに捕えられたところだったのです。
気に入った人間の男を さらってきては愛人として囲い、飽きると獣や家畜に変えて いたぶるのが趣味の魔女キルケー。
変に色気過剰の魔女は、魔法の力で瞬の身体の自由を奪い、それは楽しそうに 瞬を いたぶっていました。
「人間の身で、太陽神ヘリオスの神殿に行こうなんて、重い罰を受けることになっても仕方のない不敬行為よ。さーて、可愛い坊やちゃんを 何に変えてあげようかしら。ウサギちゃん? 小リスちゃん? ヘビでもトカゲでも、お望みのままよ」
「瞬!」
魔女キルケーに捕われている瞬は、クロハゲワシの爪にかかった小さな純白のウサギのよう。
氷河は、瞬の身体が 今にも魔女キルケーの毒々しい爪に引き裂かれてしまうのではないかと、背筋を凍りつかせてしまったのです。

エジプトの砂漠の白い砂の照り返しが眩しくて、フクロウのポイニクス一輝は目を開けることができません。
「どうなっているんだ!」
彼は、周囲の不吉で不穏な空気に苛立ったような声で、氷河の肩の上から 状況を尋ねてきました。
「瞬がキルケーに掴まっている」
「なにっ !? 」
「この不気味な魔女めっ。瞬を放せ!」
とにかく、キルケーの意識を 瞬から逸らさなければなりません。
氷河は、どこまでも広がる砂の海の上に 大音声を響かせました。
キルケーが、瞬を捕えたまま、氷河の方に視線を巡らせてきます。

「あーら、今日はお客様が多い日ね。珍しいこともあるものだわ。威勢のいい おにーさんは、イノシシかブタがいいかしら。なかなか いい男だから、まずは 二人で たっぷりねっとり楽しんでからね。おにーさんの働きいかんでは、人間の姿のままでいることも可能よ。私を満足させてくれたなら、私が飽きるまでは。でも、私に逆らったら、今すぐ この場でイノシシ鍋かトン汁の材料。どっちを選ぶ?」
どっちを選ぶも何も あったものではありません。
どっちにしても、最後はイノシシ鍋かトン汁の具。
氷河は、どちらも きっぱり断って、その毅然とした態度を瞬に認めてもらおうと思ったのです。
氷河が そうする前に、キルケーの脅しに震えあがった瞬が、悲鳴で二人の間に割り込んできたせいで、残念ながら 氷河は瞬に恰好いいところを見せ損なってしまったのですが。

「やめてくださいっ。氷河に ひどいことしないで! 氷河は、僕を連れ戻しに来ただけで、ヘリオポリスに向かおうなんてことは考えていませんっ!」
それは確かに瞬の言う通りでしたが、だからといって――だからこそ、氷河は手ぶらで帰るわけにはいきませんでした。
瞬の兄の所在が わかった今、ヘリオスに会う必要はなくなりましたが、氷河の目的は あくまでも瞬の愛を得ることで、瞬の兄を探すことではなかったのです。
氷河は、瞬をキルケーの手から救い出し、二人でアルカディアに帰らなければなりませんでした。
なのに。
なのに、瞬は、もうすっかり自分の命を諦めてしまっているようでした。

「氷河、来ないでっ。僕のことには構わず、今すぐ アルカディアに帰って! これは罰なの。これは 僕への当然の罰なんだ……!」
「罰?」
瞬が、罰を受けなければならないような どんな悪事をしたというのでしょう。
可愛いことは罪ですが、それは罰を受けるようなことではありません。
氷河は、瞬の訴えの意味が まるでわかりませんでした。
瞬は、自分が罰を受けるのは当然のことだと思っているようでしたが。
「僕は――僕は これまで、僕が あの家を出たら、兄さんが帰ってきた時に会えないとか、すれ違いになったら困るとか、あれこれ理由をつけて、決して兄さんを探しに出ようとはしなかった。そうしなかったのは、でも、本当は ただ僕が臆病だったからだったんだ。僕は、楽園アルカディアを出るのが恐かったんだよ。でも、氷河に ヘリオスの許に行くつもりだって言われて――それは僕が何年も前にしなきゃならなかったことだったのに、氷河に そう言われて――僕は 僕の臆病が恥ずかしくてならなかった。きっとこれは、臆病だった僕への罰なんだ」

「瞬……」
瞬は臆病だったわけではありません。
瞬はただ、兄の捜索に神の力を利用するという不敬を思いつけなかっただけ。
それは決して臆病ではありませんし、むしろ 無意識のうちに罪を犯すことを避けていたからのことだったでしょう。
けれど 瞬は、その方法を思いつけなかった自分を恥じているようでした。

「瞬。おまえは兄を探す必要はない。おまえの兄は――」
「兄さんを探し出さない限り、僕は氷河と一緒にいられない……」
瞬の悲しそうな声。その言葉。
「しゅ……瞬…… !? 」
それは 瞬が、『兄を探し出して、氷河と一緒にいたい』と願っている――願ってくれていた――ということでしょうか。
こんな時、こんな場面だというのに、瞬の 悲しげな声と言葉を聞いて、氷河の胸は盛大に派手にときめき始めたのです。
瞬はもう、その願いを諦めてしまっているようでしたが。
「今 ここで僕が死ぬのが いちばんいいんだ。そうすれば、僕は神への誓約を破ることはなくなって、兄さんが僕のせいで命を落とすこともなくなる――」
「瞬……」

弟の前で恰好悪いことはできない――なんていう仕様もない理由で、瞬を6年間も一人ぽっちにしていた瞬の兄の命がどれほどのものだというのでしょう。
瞬の覚悟は、氷河には はなはだしく不愉快で、極めて理不尽なものでした。
けれど、兄の無事を願う瞬の心を非難するわけにはいきませんから――氷河は 言うべき言葉を思いつけなかったのです。
氷河は、横目に フクロウの姿をした瞬の兄を睨みつけました。
瞬の兄は、氷河の肩の上で 黙って目を閉じ(目を開けることができないだけだったかもしれませんが)、苦悶煩悶しているようでした。
そこに、氷河の肩にフクロウがいるのに気付いたキルケーが、空気を読めていないとしか言いようのない明るい声を響かせます。

「決めたわ。ネズミちゃんにしましょう。坊やは フクロウのエサになる、かわいそうなネズミちゃんになるの」
兄の命を守るために 自分の命を捨てようとしている健気な弟を、キルケーは兄に食い殺させようというのでしょうか。
それは 兄弟の事情を知らないキルケーが偶然 思いついた惨酷だったでしょうけれど、もし事情を知っていたら、キルケーは なお一層 嬉々として、その惨酷を実行に移していたかもしれません。
それでも兄の面目が大事なのかと――瞬の命より、瞬の可愛らしい人間の姿より、兄の面目の方が大事なのかと、氷河は瞬の兄を問い質そうとしたのです。
もちろん――もちろん、その必要はありませんでしたよ。

氷河の肩の上で(氷河が瞬とキルケーに正面で対峙していることは、ポイニクスには わかっていました)、右に180度、左に180度、3回ずつ交互に首を回転させて、
「美しく聡明な知恵と戦いの女神様、ごめんなさい、許してください」
ポイニクス一輝が その呪文(?)を言い終えた瞬間、氷河の肩の上にいたフクロウは人間になり、その重みで 氷河は どてっと砂の上に尻餅をつくことになりました。
「貴様、俺に何の恨みがあって……! 元に戻るなら、砂の上か 空中で戻ればいいだろう!」
氷河のクレームは一切無視。
尻餅をついた氷河を足蹴にし、砂かけし、ポイニクス一輝 改め、ただの一輝は、瞬に向かって叫びました。
「瞬、俺だ!」
「に……兄さん…… !? 」

これは兄弟愛が生んだ奇跡なのか、それとも 瞬がこれまで本気を出していなかっただけなのか。
それまで魔女キルケーによって身体の自由を奪われていた(はずの)瞬が、あっさりキルケーの魔法の力を打ち破り、魔女の手をすり抜けて 兄の許に駆け出します。
そうして。
不幸な出来事のせいで(?)、6年間 相まみえることができずにいた兄と弟は、ついに互いの姿を見い出し合い、ついに強く固く 互いを抱きしめ合うことになったのでした。

そんな一輝の変身(逆変身)を見て 動転したのは、キルケーです。
「ア……アテナのフクロウ !? 」
アテナの力の強大さ――というより、その恐ろしさを、キルケーは よく知っていたのでしょう。
一輝をアテナのフクロウと誤解したキルケーの顔面は蒼白です。
「ア……アテナのフクロウと、そのお供の者だとは知らなかったのよー」
と悲鳴をあげて、キルケーは あっという間に どこかに消えてしまいました。

「訂正しろ! 俺は こんな奴のお供の者なんかじゃない!」
怒髪天を衝いた氷河の訂正要求は、おそらく キルケーの耳には届いていなかったでしょう。
もしかしなくても、氷河のすぐ側で感激の抱擁をしていた一輝と瞬の耳にも、氷河の怒声は全く聞こえていないようでした。






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