「あ……僕、氷河が日本にいるって聞いて、それで――」 気心の知れた仲間同士(のはず)なのだから、気後れを感じる必要はないと思う。 にもかかわらず、二人の間に距離を感じるのは、氷河の見慣れぬ出で立ちのせいか、あるいは、二人の間に 時間が距離を作ってしまったからなのだろうか。 その理由はわからなかったが、わかっていても結果は同じだったろう。 瞬は、現に、氷河に対して 気後れを感じていたのだから。 「3ヶ月前から」 主語や述語を省いた素っ気ない言葉使いは 以前と変わっていない。 日本に来たのが3ヶ月前なのか、この店のカウンターに立ち始めたのが3ヶ月前なのか はっきりしない氷河の答えに、だが 瞬は、自分の見知っている氷河の片鱗を見て、少し安堵した。 「お店なんか構えて……これから ずっと、ここに?」 「何もなければ、しばらく ここにいるつもりだ」 『何もなければ』が『バトルがなければ』という意味なら、バトルが起きても二人は一緒にいられる。 『(氷河の)心境に変化がなければ』という意味なら、それは危うい。 しかし、ともかく、“何もなければ”氷河はしばらくは ここに――日本に――いてくれるのだ。 嬉しいような、意外なような、自分でも よくわからない感懐に、瞬は支配された。 「え……と」 とりあえず カウンターチェアに座ろうとした瞬に、氷河は視線でフロアにある椅子を示した。 「そっちの椅子に。おまえはカウンターに腰掛けて、様になるタイプじゃない」 「……はい」 氷河がそう言うのなら、そうなのだろう。 瞬は 言われるまま、ビロード貼りの二人掛けの椅子に 腰をおろした。 「飲めるのか」 「……」 『飲めない』と答えると、おそらく子供扱いされる。 だが、嘘はつけない。 瞬は、仕方なく、沈黙していることを選んだ。 数秒、氷河が探るような視線を瞬の上に注ぐ。 その後、更に数秒 考え込む素振りを見せ、数分後に カウンターを出た氷河が、瞬の掛けた椅子の脇のテーブルに置いたのは、ピンク色の液体が入った華奢な作りのカクテルグラスだった。 「プルミエ・フルール――とは言えないな。リキュールを本来の半分に減らした。本当は絶対にしてはならないタブーなんだぞ。材料の比率を変えるなんて」 「ありがとう。綺麗だね。フランスのお酒?」 プルミエ・フルール――最高の花。 そんな名前のカクテルなら、さほど きついものではないだろう。 瞬は、氷河の気遣いに感謝して、だが、すぐにはグラスに口をつけなかった。 まかり間違って酔ってしまったら、聞きたいことを聞けなくなってしまう。 瞬は、そうなることを危惧したのだ。 瞬の用心に気付いてはいるのだろうが、氷河は何も言わなかった。 「氷河、ずっとシベリアだったでしょう? どうして 日本に――」 「この美貌を、トドとシロクマしかいないシベリアの奥地に置くのは宝の持ち腐れだということに、やっと気付いてな」 「それはそうだろうけど」 「本気にするな。冗談に決まっているだろう」 「冗談なの?」 以前の氷河は、気軽に冗談を口にするようなことはしなかった――が、今は違うのだろうか。 瞬は 真面目に確認を入れたのだが、氷河は いわく言い難い目をして真顔の瞬を見詰めるばかり。 自分が何か おかしなことをしてしまったらしいことに気付いて――どこがどうおかしいのかは わからなかったのだが――瞬は慌てて話題を変えたのである。 「なんか、そういうの、恰好いいね。氷河は何を着ても似合う」 が、氷河は その話題に乗ってきてはくれなかった。 「城戸邸に行ったら、おまえがいなかった。あそこに行けば、いつでも おまえに会えると思っていたのに」 それは、氷河が3ヶ月前に遭遇した事件なのだろう。 瞬は2年も前に城戸邸を出ていたのに。 その事実を知らずにいた――知ろうともしなかった氷河に、恨み言を言うつもりはない。 ただ 瞬は――瞬が知りたいことは、“あそこに行けば、いつでも会えると思っていた おまえ”が そこにいないことを知った時、氷河が どう思ったのかということだった。 驚いたのか、何も感じなかったのか――氷河は、少しは慌てるくらいのことをしてくれたのだろうか。 知りたいことを、だが 瞬は、氷河に問うことができなかった。 「僕も、いつまでも沙織さんの世話になってはいられなから。学費とかは出してもらったから、お世話に なりっぱなしなのには違いないんだけど」 「俺たちは、常に自宅待機しているようなものだ。拘束時間の代償をもらうのは当然。気にする必要はないだろう、バルゴの瞬」 その呼び名には慣れない。 否、余人に呼ばれるのには慣れた。 だが、氷河に そう呼ばれるのは――。 瞬は、氷河には いつも、ただ『瞬』とだけ呼んでほしかった。 ――と言う代わりに、“最高の花”という名のカクテルを、こくりと一口 飲む。 「氷河に そう呼ばれるのは、なんだか変な気持ち」 「俺が おまえを そう呼ぶのは初めてか」 「うん……あのね」 「なんだ」 「……」 以前も、氷河は 決して口数が多い方ではなかった。 少なくとも お喋りではない。 自分のことなど語る必要はないと言いたげに――否、“言いたげ”にもしない。 だが、数年振りに会った旧友同士がすることは、普通は まず互いの近況報告なのではないだろうか。 『なんだ』と問う前に、できれば 自発的に自分の近況を語ってほしい。 ――とは言えない。 瞬は、ピンク色のカクテルを、更に一口 喉の奥に送り込んだ。 「あ……これ、おいしいね」 「おいしい?」 飲食店で出されたものを『おいしい』と褒めるのは、至極自然なこと――良いことのはずである――悪いことではないはずだった。 なのに なぜ氷河は怪訝そうな顔をするのだろう。 まるで ココアしか飲んだことのない子供に、ブラックコーヒーを飲まれてしまった大人のように。 瞬は 氷河の反応が不思議だったのだが、すぐに嬉しくなった。 それまで瞬との間に距離を――物理的な距離を置いていた氷河が、瞬の側に 慌てたような足取りで近寄ってきて、その足元に膝をつき、瞬の手を取ってくれたのだ。 「瞬、おまえ、大丈夫か」 「え? あ、うん。大丈夫。でも、なんか熱くて、くらくらする」 「どうして、これで酔えるんだ。ライム・リキュールを たった5ミリリットルだぞ!」 「酔ってないよ。僕、毎日、アルコール度数80度の薬用アルコールを扱ってるんだよ。アルコールの匂いは平気なんだから」 「匂いだけ平気でも駄目なんだ……!」 氷河の声は、悪気なく いたずらをした子供に対する大人のそれのように苛立たしげである。 どうして氷河は そんななのだろう。 やっと こうして会うことができたのに。 怒っているような氷河の声に、瞬は ひどく悲しい気持ちになった。 「氷河……」 「なんだ」 「僕、氷河に会いたかったの。僕、寂しかったの……」 「そういうセリフは、酔っていない時に言ってくれ」 「僕、酔ってないよ」 「酔っぱらいは皆 そう言う」 「氷河……会いたかったの……」 「ああ、わかった、わかった」 どうして氷河は 真面目に聞いてくれないのか。 どうして氷河は 信じてくれないのか。 投げ遣りに聞こえる氷河の声、言葉。 瞬は、シベリアの広い雪原に たった1輪だけ咲いている小さな花のように 悲しかった。 |