「兄さんは本当に、その方を……さらっていったんですか」 「実情は駆け落ち――なのかもしれないわね。でも、エスメラルダは本当に大人しい子で、失踪だの逃亡だの、そんなことを思いつきもしないような子よ。――と、私は聞いているわ。言い出しっぺは一輝でしょう。実行の決断も、当然 一輝。一輝は以前からエスメラルダと知り合いだったらしいのよ。そして、エスメラルダが日本で再会したいと願っていた人物は一輝だった。エスメラルダの故郷は、一輝が聖闘士になるために向かったデスクィーン島の近くの島で、彼女は幼少時に 小麦粉3袋で デスクィーン島に売られてきたらしいわ。で、一輝は どうやら、彼女は死んだものと思っていたらしいのよね。でも、彼女は生きていた。そして、一輝に会いたい一心で 故郷から遠く離れた日本にまで、たった一人でやってきた。その健気さに、運命の神も心を動かされたんでしょう。エスメラルダの願いは叶った。一輝は――自分との再会だけを心の支えにして、生き馬の目を抜く芸能界で、苛酷な仕事に追われていた彼女を、そのままにしておけなかったのでしょうね」 「沙織さん、超ブラック雇用主だもんな。なにしろ、『命がまだ残ってるから戦え』なんて 容赦ないセリフを、自分の可愛い聖闘士に向かって 平気で言ってくれるんだから」 それで星矢は、実際に立ち上がり 敵を倒した――敵を倒すことができたのだから、星矢自身は 沙織の叱咤をブラック雇用主の非情とは思っていないだろう。 むしろ、それはアテナが彼女の聖闘士の力を信じているからこそ発せられた言葉だったと思っている。 しかし、今の世の中、その手の厳しい叱咤・指導に発奮する人間は 少数派なのだ。 沙織の話を聞く限り、エスメラルダは大人しく控えめだが、芯は強そうな少女である。 叱咤や鼓舞に発奮や反発はせず、逃げ出すことも考えず、黙って じっと耐え続けそうなタイプ。 優しい救いの手は、そういう人間にこそ 差しのべられなければならない。 一輝は 彼が すべきことをしただけだと、星矢は思っているようだった。 不祥事を起こした身内を庇うつもりはないのだが、瞬も星矢と ほぼ同じ気持ちでいたのである。 星矢の真意は わかっている沙織が、彼が口にした言葉にだけ反論してくる。 「言っておくけど、私がエスメラルダのことを知ったのは、この失踪事件が起きたからよ。それ以前は、彼女の仕事にはノータッチ。まあ、想定外に売れすぎて、グラードエンターティメントの方も、仕事量を うまく調整できなかったんでしょうね。それに、ほら、よく言うでしょ。『聖闘士は生きてるうちに使え。アイドルは旬のうちに稼げ』って。エスメラルダは、今が稼ぎ時の、まさに旬のアイドルなのよ」 「んなこと、よく言わねーよ!」 自分に都合のいい諺を捏造する沙織に、星矢が口をとがらせる。 星矢の不満そうな顔を、沙織は あっさり無視した。 無視して、瞬に告げる。 「ああ、そう。エスメラルダとグラードエンターティメントの契約違反に関しては、私の権限で どうにかできるけど、エスメラルダの失踪によってグラードエンターティメントが被ることになる損害は、おそらく億単位になるわよ。押さえていたライブコンサート会場のキャンセル料、チケットの払い戻しにかかる費用、出演を予定していたテレビ番組やラジオ番組に穴をあけた損害、雑誌の取材も入っていたし、映画出演に、アニメのアテレコ。その他諸々、すっぽかしてくれた仕事のキャンセル料、違約金。その損害を、グラードエンターティメントはエスメラルダに請求することになるわ。つまり、一輝に。一輝に払えるかしら?」 あでやかに微笑して そう言ってくれる沙織の前で、瞬の心身は凍りついてしまったのである。 ただ 脳だけは凍りつくことなく、瞬は 普段にも増して猛スピードで情報処理を進めることをした。 エスメラルダの失踪が昨夜、沙織は 今朝 その知らせを受け取り、すぐに対応策を講じて ここに来た。 フェニックス一輝の弟が ただちにエスメラルダ(と兄)の不始末の尻拭いを始めれば、億単位の損害は生じないはず。 瞬に 与えられたデータが導き出す結論は明快だった。 が、その結論を実行に移すのは、到底 不可能。 そう、瞬は思ったのである。 事実は、もしかしたら そう思いたいだけだったのかもしれないが。 「あの……でも、そのエスメラルダさんって、女性……女の子なんでしょう?」 恐る恐る、瞬が沙織に お伺いを立てる。 「あなたに似ていて、男の子のはずがないでしょ。はい、どうぞ」 沙織は微笑を途絶えさせることなく、むしろ 一層明るく楽しげに微笑んで、A4サイズの光沢紙を数枚、瞬に手渡してきた。 事前に準備して持参してきたらしいエスメラルダの写真。 金髪のミドルティーンの少女。 その写真の中で、エスメラルダは、常識ある一般人なら 街中では絶対に着用しない鮮やかな色とデザインの衣装を身に着けていた。 大きく広がったスカート――パニエを使って究極まで広げたピンク色のドレス。 薄いモスリンのフレアスカートを幾枚も重ねたロマンティック・チュチュにも似た純白のドレス。 そういったものを。 それらの派手な衣装とは対照的に、目は 伏し目がち。 見るからに内気そうな少女。 1枚だけ 顔のアップの写真があったが、微笑んでいる彼女の瞳は――撮影の演出なのか、それが素の表情なのか――涙で潤んでいる――ように見えた。 確かに美少女だったが、彼女の最大の特徴は、顔の造作ではなく、頼りなげで心許なげな その表情だった。 「可愛らしい人ですね」 と言ってから、きまりの悪さを覚える。 瞬には 彼女と自分が似ているとは思えなかったのだが、皆が――氷河でさえ――『おまえに似ている』と言う人を 可愛らしいと褒めるのは、さすがに抵抗があった。 沙織が大袈裟に瞬に頷いてみせる。 「そう、可愛いの。同性の私が見ても、本当に可愛らしい子だと思うわ」 「え……ええ」 「歌は、もちろん口パクよ。あなたは、コスプレ紛いのフリル満載ドレスを着て、ステージでダンスを踊ってくれていればいいわ。もともと素人っぽさが売りのアイドルだったし、ダンスといっても 面倒な振り付けはないから」 沙織は、すっかり その気である。 兄を借金まみれの前科者にしないために、アンドロメダ座の聖闘士は エスメラルダの代役を務めるものと、彼女は決めつけているようだった。 「とにかく エスメラルダは 容姿と雰囲気が売りなのよ。“金髪の大和撫子”。控えめで、大人しくて、決して 出しゃばらず、男性を立てて、献身的に尽くす。グラードエンターティメントは そういうイメージで エスメラルダを売り出していたの。もちろん、フェミニスト団体からのクレームを避けるために、『男性を立てる』だの『献身的に尽くす』だの、そんな言葉を出してはいないけど。代わりに、“地上で最も清らかな美少女アイドル”というフレーズを使うようにしていたわ」 「どこかで聞いたことのあるフレーズだな」 紫龍が 呆れたように呟いたが、キャッチコピーのパクリなど、瞬は どうでもよかった。 問題は――瞬にとっての最大の問題は、キャッチコピーでも 顔でも 口パクでもなく、エスメラルダの代役が着用する 派手で少女趣味な衣装だったのだ。 しかし、超ブラック雇用主は血も涙も容赦もない。 「コスプレまがいのフリル満載ドレスなんて、絶対に嫌です!」 「じゃあ、一輝は、前科者決定ね。しかも、数億円の借金持ち。一生、借金の取り立て屋に つきまとわれて、夜逃げを繰り返すことになるんだわ。一輝自身は 反社勢力絡みの取り立て屋なんか平気でしょうけど、繊細なエスメラルダは耐えられるかどうか」 「でも、だからって、フリルのドレスなんて……」 同情に耐えないという表情を作って 脅しをかけてくる沙織は、反社会的組織構成員紛いの債権取り立て屋より 肝が据わっていた。 彼女は、瞬の悲痛な叫びにも 泣き落としにも、全く動じる様子を見せない。 「身長、年齢に問題はないわ。金髪のカツラに カラーコンタクト。口数も少なくて、普段の会話の際も エスメラルダは とても声が小さかったから、声紋鑑定でもしない限り、まず ばれることはないわよ」 「でも、スカートはいやですっ」 「いやですっ! って言われても――パンツじゃ駄目なのよね。エスメラルダは 女らしさが売りのアイドルだから。そうねえ。レギンスかスパッツに長めのブラウスやチュニックを組み合わせる形で何とかしましょうか」 「長めのブラウスやチュニックと、ミニのワンピースの違いって、どこにあるんだ?」 脇から茶々を入れた星矢を、沙織は、 「余計なことは言わないでちょうだい!」 と一喝し、一瞬で黙らせてしまった。 星矢どころか、泣く子も一瞬で黙らせてしまうグラード財団総帥にして、知恵と戦いの女神アテナ。 その力、威光。 兄を前科者にしないため。 億単位の借金持ちにしないため。 繊細な心を持つ 健気な難民少女を犯罪者の片棒担ぎにしないため。 結局 瞬は、言葉も 怒りも 涙も、すべてを自分の胸の内に収めるしかなかったのである。 「握手会やサイン会なんてものはしないから、その点は安心して。もともと内気すぎて、そういうのはできない子だったの。外出もほとんどしなくて、スキャンダルバージン。ファンに媚びを売る必要もないわ。いつも泣きそうな目をして、薄幸そうにしていてくれればいいのよ。そこが男性陣の保護欲をそそるっていうアイドルなんだから。今のあなたなら、地で行けるでしょ? エスメラルダの所在がわかったら、素知らぬ顔をして 再度 入れ替わればいいわ」 「はい……」 有無を言わさず、次から次に飛んでくる沙織の指示に、泣きそうな目をして 薄幸そうに頷く以外のことが、今の瞬にできただろうか。 瞬の苦衷を察してか、はたまた 沙織の決定に異議を唱えることの無駄を知っているせいか、氷河が癇癪を起して暴れ出さないことだけが、今の瞬の唯一の救いだった。 |