「それは駄目っ! 絶対!」
それは絶対に駄目だった。
城戸邸の栗きんとんの栗は、最高級 丹波の大粒栗。
餡は、種子島産の安納芋と熊本産の紅はるかを 讃岐産和三盆で丁寧に練られた極上芋餡。
その二つが絶妙の比率で一つの食べ物になった、絶品中の絶品。
同じ量の純金と 城戸邸の栗きんとんを並べられたなら、瞬は、迷わず栗きんとんを選ぶ――もちろん、栗きんとんを選ぶ。
城戸邸の栗きんとんは、瞬にとって、まさに奇跡の栗きんとんだった。
それを食べずに、世界の平和など守れるわけがない。
星矢の脅しに 瞬は悲鳴をあげ、その悲鳴は沙織を呆れさせることになったのだった。
「瞬、あなたまで……」

強さと美しさ、愛と優しさ、その上、常識と礼儀まで、すべてを備えた非の打ちどころのない聖闘士ということになっている瞬にも、残念なことに 弱点はある。
まして、瞬以外の青銅聖闘士たちは。
もちろん、この世に完璧な人間などというものは存在しないのだが、城戸邸に起居するアテナの聖闘士たちのウィークポイントは、そのどれもが“常識的な異常”の領域を逸脱するものだった。
瞬の弱点が露呈された今、彼女の聖闘士たちの常識の最後の砦は紫龍ということになるのだが、その紫龍とて、感情が昂ぶると なぜか脱衣するという、あまり聞こえのよくない性癖の持ち主なのである。

アテナの聖闘士たちは 誰も彼もが欠陥持ち聖闘士。
新年早々、沙織は その事実を 嫌になるほど はっきりと見せつけられ、思い知らされてしまったのである。
彼女が、この状況は全く よろしくないと考えたのは 当然のことだったろう。
一年の計は 元旦にあり。
沙織は、彼等の監督責任者として、彼女の聖闘士たちの精神の引き締めを講じることにした。

ちなみに、彼女は、自らの言動に関して、彼女の聖闘士たちの意見や要望に耳を傾ける女神ではない。
常に独断専行、問答無用。
それが彼女の身上にして信念。
聖闘士たちの引き締め策を実行すると決めたら、彼女は余人の意見を聞くことなく、即座に実行するのだ。

「あなたたちに、知恵と戦いの女神から、特別にお年玉をあげるわ」
沙織が その言葉を言い終える前に、アテナの強大至極な小宇宙が 一瞬大きく燃え上がり、彼女は彼女の聖闘士たちを包み込んだ。
そして、すぐに治まる。
その作業を終えてから、沙織は 彼女の聖闘士たちに にこやかな微笑と質問を投げかけた。
「いかが?」
「は……?」
「へ……?」
『いかが?』と、沙織に問われても、彼女の聖闘士たちは何を答えればいいのかが わからなかったのである。
特別な お年玉と沙織は言うが、その強大な小宇宙の発現にもかかわらず、彼等の前には お年玉袋はおろか五円袋すら出現していなかったから。

「いかが? って、何がだ?」
特異な欠点持ちのアテナの聖闘士たちを代表して、星矢が沙織に尋ねる。
沙織は にこやかな微笑を消し去ることなく、星矢の質問に答えを返してきた。
「ああ、星矢には何の変化もないかもしれないわね。今、あなた方に、嫌いなものが 大好きなものに見える呪いを――いいえ、新年の祝福を授けてあげたわ」
「は?」
「だから、大嫌いな人間がいたら、それが 自分の いちばん好きな人に見えるようになる――という、有難い お年玉よ。お正月から嫌いな相手を見ずに済んで、嬉しいでしょう?」
「なんでそんなことするんだよ!」
沙織の言う通り、星矢に実害はなかった。
彼は、“大嫌いな人間”を作って、そんなものに気を取られるより、でかい伊勢海老やローストビーフにこそ魅了されていたい人間だったから。
しかし、世の中の人間が皆 そうとは限らないことくらいは、星矢も知っていたのである。
そういう人間にとって、沙織の呪いが――もとい 祝福が、極めて厄介な事態を招くものだということも。

「あら、嫌いなものに見えるようになるだけじゃ物足りない? 蜘蛛にでも変えてほしかったのかしら? メドゥーサみたいな化け物に変えてあげてもいいのよ」
女神アテナの機嫌を損ねた人間の末路の具体例を提示された星矢の顔が引きつる。
“メドューサのような化け物”はともかく、蜘蛛などに変身させられてしまったら、伊達巻きもクワイの旨煮も食べることができないではないか。
星矢は そんな事態は 御免被りたかった。
そんなことになるくらいなら、確かに“見えるようになるだけ”の方が はるかに有難い。
「三が日だけのことよ」
震えあがった星矢と その仲間たちに、沙織が、彼女の呪い――もとい 祝福――には期限があることを知らせる。
彼女は、彼女が設定した期限を 釈迦がカンダタの前に垂らしてやった蜘蛛の糸のごとき慈悲とでも思っているのか、自らの寛恕の心に自分で感動している節さえあった。
星矢としては、彼女のお情けを有難く受け取るしかなかったのである。
星矢自身は、それで済んだのだが。

「てことは、今、氷河には 一輝が瞬に見えて、一輝には 氷河が瞬に見えるようになってるってことか?」
星矢に そう問われた一輝と氷河が 思い切り 妙ちくりんに顔を歪め、かすれた声で、彼等の仲間に問うてくる。
「……おまえ等は何ともないのか? 何も変化はない?」
星矢は、妙ちくりんな顔をしている二人の仲間に 大きく頷いた。
「俺は、おまえ等と違って、嫌いな奴なんていねーもん。嫌いな食い物もないけどさ」
「俺も特段……」
「僕も、何も変わったようには――」
星矢、紫龍、瞬の答えは、沙織の想定内のものだったのだろう。
彼女は、星矢たちの返答に、さもありなんという面持ちで頷いた。
沙織は やはり、(戦いの女神アテナの存在を完璧に無視して)自分たちの戦いに夢中になっていた氷河と一輝が 最も癪に障っていたらしい。

「あなた方はそうでしょうね。でも、一輝と氷河は そうはいかないわよ。最愛の瞬と、せいぜい仲良く新年 三が日を祝いなさい」
「おい。おまえ等、ほんとに 瞬が二人いるように見えてんのか?」
「……」
駄目出しのように確認を入れた星矢への答えは、一輝からも氷河からも返ってこなかった。
彼等は ただ顔を引きつらせているばかりで、口をきく気力も持てずにいるらしい。
そんな二人を見て、知恵と戦いの女神は 満悦至極。
「じゃあ、私は賀詞交換会に行ってくるわ。あとは あなたたちで好きにして」
彼女は、あでやかな花々が描かれた長い振袖を華麗に翻し、扉口に控えていた辰巳を従えて 颯爽と(無責任にも)彼女の戦場に旅立ってしまったのだった。






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