「俺が 瞬の顔を殴りたいわけがないだろう! そんなことをするくらいなら、沙織さ……いや、マーマ……いや、カミュの顔を殴った方が ずっとましだ!」 その辺りが、氷河の精一杯の妥協点らしかった。 「俺が瞬の顔を殴りたいわけがないだろう! カーサの化けた瞬を殴った時は ともかく、ハーデスに身体を乗っ取られた瞬を殴った時には、俺の心は血の涙を流していたんだ!」 一輝の弁解も、なかなか微妙である。 ともかく、氷河と一輝の言を信じるなら、彼等は 最愛の瞬の顔を殴って快感を覚えるような趣味の持ち主ではないらしい。 その事実がわかっても――わかったから、なおさら――謎は深まるばかりだったが。 「じゃあ、なんで おまえ等は、沙織さんの呪いが解けてないのに 殴り合いを始められたんだよ?」 問題は、そこである。 そして、それは大問題だった。 最愛の瞬を間に置いて、互いに互いを蛇蝎のごとく嫌い憎み合っているはずの一輝と氷河。 当然 二人には、相手の顔が瞬に見えていたはず。 その呪いが有効中であるにもかかわらず、二人は瞬の顔をした相手を殴り合った。 そして、彼等には、愛する者を いたぶって喜ぶ趣味はないらしい。 この状況を綺麗に説明できる理屈を、星矢は思いつけなかったのである。 星矢の疑念に対する答えは、いかにも しぶしぶといった体の氷河から与えられた。 「だから、それは……つまり、俺には、一輝の顔が瞬に見えていなかったんだ、最初から。一輝の暑苦しい顔は ずっと、暑苦しい一輝の顔のままだった」 「へ……?」 思いがけない氷河の告白に、星矢の目が丸くなる。 その星矢の目を更に丸くしたのは、 「俺の目にも、氷河は瞬に見えていなかった。氷河の阿呆面は、氷河の阿呆面のままだった」 という、瞬の兄による第二の告白。 「そ……それって、どういうことだよ?」 星矢には、まるで訳がわからなかったのである。 彼の目の前にいるのは、この二人が憎み合い 嫌い合っていなかったなら、この地上世界に“嫌悪”“憎悪”という言葉は存在しないだろうと、何の迷いもなく断言できる犬と猿。 その二人の手に、アテナの呪いという名の お年玉が手渡されていなかったとは、いったいどういうことなのか。 まさか沙織の呪いに手落ちがあったのだろうか。 それとも、沙織が二人に恩情をかけていたというのか。 が、沙織に限って、そんなことがあるはずはない。 沙織は――アテナの聖闘士たちが知っている知恵と戦いの女神は、そういったことに関しては、全く情け容赦のない――もとい、極めて峻厳な女神だったのだ。 実際、沙織は、思いがけない告白をしてくれた氷河と一輝に、星矢ほど あからさまではないにしても、やはり 意外そうな表情を向けていた。 「兄さん……氷河……」 二人の告白は、瞬にも思いがけないものだったのだろう。 もちろん 瞬も、二人の告白には驚いているようだった。 ただし、星矢とは異なり、その瞳は 明るい希望の光を呈している。 瞬が何を期待しているのかを察したらしい一輝と氷河は、瞬の言葉を遮ろうとするかのように、突然 わめき声をあげ始めた。 「だが、氷河が瞬に見えていないと言うわけにはいかんだろう!」 「だから俺は、一輝が瞬に見えている振りをするしかなかったんだ!」 「それって、もしかして――」 一輝と氷河には、その事実は極めて不愉快で不本意で苦々しいことであるらしかった。 そんな二人を、瞬だけが嬉しそうに見詰めている。 瞬には喜ばしく 嬉しいばかりのその事実。 喜びで胸がいっぱいになっているらしい瞬に代わって、その事実(?)を言葉にしてやったのは、この事態を誰よりも意外に思っていた某天馬座の聖闘士だった。 「あー……もしかして、実は、おまえ等は愛し合っていたのか?」 「気色の悪いことを言うなーっ !!!! 」 悲鳴なのか怒声なのか判断しにくい声を、氷河がラウンジ中に響かせ、一輝が物も言わずに星矢の頭を殴りつける。 二人が愛し合っているのでなければ納得できないほど見事なコンビネーション。 だが 氷河の悲鳴の木霊が いつまでも消えず、一輝の仲間への鉄槌に全く手心が加えられなかったところを見ると、二人が 心の底から この事態を忌々しく思っているのは事実のようだった。 沙織が 二人に恩情をかけることは考えられないので、氷河の目に一輝が一輝のまま、一輝の目に氷河が氷河のまま映っていたというのなら、二人は互いを嫌い合っていたわけではなかったのだろう。 だが、その事実を、アテナや瞬や仲間たちに知られるわけにはいかない。 ゆえに 彼等は、互いに 相手を 嫌いな振りを続けなければならなかった――つまり、一輝は 氷河が瞬に見えている振りを、氷河は 一輝が瞬に見える振りをしなければならなかったのだろう。 この3日間の彼等のぎこちなさは、互いが瞬に見えているからではなく、瞬に見えていないことによるものだったのだ。 「で?」 おそらく、この場で最も氷河と一輝の告白に驚いていない人物であるところの紫龍が、星矢の言への苛立ちを静めることができずにいるらしい二人に弁明を促す。 普通、人は、ある人間が ある人間を嫌っている理由なら ともかく、嫌っていない理由を尋ねるようなことはしないものである。 だが、ここは やはり、それを確かめないことには場が治まらない。 それは氷河も一輝も承知しているらしく――実に不本意そうにではあったが、彼等は それを彼等の仲間たちに語ってくれたのである。 氷河が一輝を嫌っていない理由、一輝が氷河を嫌っていない理由。 それは、実に全く 極めて彼等らしいものだった。 彼等らしく 自分勝手で、彼等らしく 素直でなく、彼等らしく 実にビミョーだった。 「だから……俺にとって 一輝は、俺のために瞬を これほど清らかに 優しく 可愛らしく育ててくれた功労者なんだ。瞬は、一輝を反面教師にして、こんなにも俺の理想通りの人間になってくれたんだろう。瞬の清らかさは 一輝の卑俗のたまもの、瞬の優しさは 一輝の独りよがりのたまもの、瞬の繊細は 一輝の粗野のたまもの、瞬の聡明は 一輝の暗愚のたまもの、瞬の可愛らしさは 一輝の憎たらしさのたまもの。おそらく 一輝以外の誰にも 瞬をここまで完璧な瞬に育てあげることはできなかったろう。俺は、一輝という存在に心から感謝している」 というのが、氷河の事情。 「俺にとって 氷河は、実に有益なツールだ。俺は無論、瞬を心から愛しているが、立場上、面と向かって瞬にそう言うことはできない。瞬は、厳しく強い兄であるところの俺を尊敬しているんだからな。どんなに甘やかしてやりたくても、猫可愛がりしたくても、俺が それをしたら、瞬は俺に幻滅するだろう。だが、俺は、氷河をいたぶり、馬鹿にし、ど突き倒すことで、俺が どれほど瞬を大切に思っているのかを、間接的に瞬に知らせてやることができるんだ。俺の清らかで心優しい弟が、この ろくでなしの大馬鹿野郎に かまけている。こんな理不尽なことはないから、俺は その理不尽に我慢ならず、この馬鹿を非難し、馬鹿にし、侮辱する。それも これも、俺が瞬を愛し大切に思っているからだ。氷河がいなければ、俺は、俺がどれほど瞬を愛し大切に思っているのかを表現することができない。俺は、氷河という ろくでなしが この世に存在していることに、心から感謝している」 というのが、一輝の弁明。 「おまえら……」 二人の言い草を聞いて、星矢は――紫龍も、沙織も――激しい頭痛を覚えるほど、呆れてしまったのである。 そんな ひねくれた理由で、一輝もしくは氷河の存在に感謝しているから、自分は一輝もしくは氷河を“嫌っていない”というのが、彼等の考えなのだとしたら、星矢は そんな考えなど理解したくなかった。 兄と氷河――自分に最も近しい二人の人間の考えを全く理解できずに ぽかんとしている瞬に、星矢は大いに同情した。 どんなに頑張っても、この自分勝手で醜く打算的な二人の考えを、瞬は理解することはできないだろう。 そんな瞬が気の毒で――星矢は、極めて不自然に、わざとらしく、その場の話題を変えることにしたのである。 少なくとも 瞬以外の人間には、一輝の目に氷河が瞬に、氷河の目に 一輝が瞬に見えていなかった事情はわかったのだ。 その件に関して、これ以上のことは、星矢は知りたいとも思わなかった。 |