ともかく、そういう経緯で、店に入って10分後、私とマリアは、店のルールにのっとって無事に(?)カウンター席に着くことができた。
「氷河、アレキサンダー、ください」
マリアが嬉しそうに、金髪男にオーダーする。
金髪男は、『何になさいますか』も言わない。
こういうのを殿様商売って言うのかしら。
それは ともかく、呼び捨てで丁寧語?
マリアの日本語は、やっぱり おかしいわよ。
「私は スティンガー」
ってオーダーしてから、私はカウンターチェアに腰を下ろした。
そして、心もち 声をひそめる。

「なに、名前で呼び合う仲なの?」
「ううん。残念ながらそうじゃない。氷河は英語が苦手なの。だから、マスターとか呼ばれても、自分が呼ばれてるって咄嗟に気付かないことが多くて、だから ここでは 彼のこと、名前で呼ぶことになってるの。――っていうのも、店の常連の先輩の受け売りなんだけどね。それも、このお店のお約束」
へえ。お約束が たくさんある店だこと。
その上、ルールの伝達も完璧。
要するに、女の子たちの紳士同盟が結ばれるってわけね。
そんなルールを作って牽制し合うのは結構だけど、そういうのって、必ず抜け駆けする子が出てくるわよ。

「英語が苦手? こんな姿してるけど、実は彼、日本生まれ、日本育ちなの?」
「そういうわけじゃないらしいけど。氷河は日本語とロシア語と――それから」
マリアは 私に先輩面ができるのか嬉しいのか、にこにこしながら、“氷河”に声をかけた。
「すみません。こっちは、私の幼馴染みで、このお店は初めてなんですけど、氷河は日本語とロシア語の他に何語が話せるんでしたっけ?」
マリア。前置きと 続く文章に、全く脈絡がないわよ。
やっぱり どこかおかしいマリアの日本語は、でも、ちゃんと氷河に通じたらしい。
彼から返事が返ってくる。
「ギリシャ語、フランス語、アムハラ語、ソマリ語」
素っ気ない――っていうか、必要最小限のことしか口にしない男。
省エネを心掛けてるのなら、それは立派なことだけど――でも、全くサービス業向きじゃない。

「あ、そうそう、アムハラ語。私、何度 聞いても、すぐ忘れちゃってぇ」
マリアが お得意の“てへぺろ”をする。
そんな真似を 当たりまえの顔をして やってのけるから、あんたは偉大よ。
「アムハラ語って、どこの言葉よ? そんなマイナーな言葉を話せて、英語はNGなの?」
「エチオピア辺りで使われてるんだって。で、ソマリ語はソマリア。氷河は 英語も話せないわけじゃないらしいけど、英語なんて、そんなメジャーな言葉が話せても自慢にならないし、別にいいんじゃない?」
それはそうかもしれないけど、でも。

「でも、これだけの美貌で、それだけ話せたら、バーテンなんて水商売なんかしてなくてもいいじゃないの。もっとこう、社会的評価の高い仕事に就けるわよ。まあ、そういう仕事が 必ずしも実入りがいいとは限らないけど、でも、なんだって、バーテンなんか」
私は 決して職業で人を差別する気はないけど、それは誰だって抱く疑念でしょ。
アムハラ語とソマリ語は よく知らないけど、英語が ある程度話せて、日本語、ロシア語、ギリシャ語、フランス語が話せたら、地球上の半分の人間をカバーできる。
惜しむらくは 中国語とスペイン語がないことだけど、でも人類の半数と意思の疎通ができたら もう十分よ。

そんなふうに、私がすごく不思議に思ったことに、マリアは 何も考えてないような顔で 実にあっさり答えを返してきてくれた。
「お酒が好きだからなんじゃないの」
って。
「へ」
な……なるほど。
マリアったら、Fランク短大の家政科で2年間 遊びまくってたにしては、本質を突いた答えだわ。
そりゃそうだ。
酒が好きだから、酒を扱う店を開く。
それは正しい考え方だわ。
見事に理路整然。文句のつけようがない。
うーん、安部マリア。侮れない奴。

マリアがそう断じるだけあって、実際、彼の作るカクテルは美味しかった。
スティンガーは、レシピが簡単だからこそ、バーデンダーの技量が出るカクテルよ。
これなら この金髪男は、国内の技能競技会くらいなら、結構 いいところまでいけるわ。
おまけに、この美貌とスタイル。
バーテンダーは、その技量もさることながら、見栄えや雰囲気も大事だもの。
光輝くばかりの金髪と、海と空を足して2で割ったような色の瞳。
造作は完璧だし、姿勢もいい。
無駄な所作なく、手指も文句なく綺麗。
綺麗な男を見ながら飲む 美味しい お酒。
うん。悪くはないわ。
――なんてことを思いながら店内を見まわしたら、私の いい気分は ちょっと冷めてしまった。

カウンターに女が群がり、店の出入り口には 順番待ち多数。
バーで待ち行列なんて、普通のバーでは見たことのない光景よ。
マリアは、私と違って 可愛い子で、だから、私と違って 中学生の頃から男の子に もててたけど、いくら何でも これは競争率 高すぎ。
いつものJ系アイドル顔の方が、マリアには合ってる気がするんだけど、マリアは、気に入った男は自分のものにしたがるからなー。

一度 ものにすると 飽きるのも早いから、これまでは放っておいたけど、“一度 ものにする”ができなかった時、マリアはどうするのか、それが私にはわからない。
適当なところで諦めてくれれば いいんだけど、こういう場合の“適当なところ”って どんなところなんだろ。
と自問して、その1分後に自答。
それは もちろん、氷河に彼女がいることがわかった時に決まってる。
当然、そう。
もちろん、そうよ。

「で、このヒョウガに彼女はいるの?」
私は、声をひそめずに 通常ボリュームで、マリアに訊いた。
私の声が聞こえなかったはずはないと思うんだけど、氷河は 見事に無反応。
答えは――答えともいえない答えは、マリアから返ってきた。
「それがわからないのよ。謎なのよ」
「謎? ああ、彼女がいるって公言しちゃうと、女性客が減るから隠してるわけ?」
でなければ、彼女が複数いるから、ばれないように公言しない、かな。
そう考えるのが妥当だと私は思ったんだけど、その考えは 即座にマリアに退けられた。

「それはないと思うわ」
「そうなの?」
「ええ。百聞は一見にしかずって言うし――氷河に、『彼女いる?』って訊いてみてよ」
マリア。あんた、その諺、ちゃんと意味わかって使ってる?
それは、『人に聞くより、自分の目で見ろ』っていう諺で、『人に聞け』っていう時に使うべき諺じゃない。
――って言うのも面倒で、私はマリアの薦めに従った。
なにしろ、時間は30分しかない。
私の後ろには順番待ちの女の子。
(私の)時は金なり。当人に訊くのが いちばん手っ取り早い。

「氷河。あなた、彼女いるの?」
「俺はマザコンでゲイだ」
「は?」
すごい。
1秒の間も置かずに即答。
しかも 私のリアクションを確かめもせず、氷河は素知らぬ顔でグラスを磨き出した。






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