瞬が店を出ていって10分ほどが経ってから、店の扉を開けて 一人の男がバーに入ってきた。 見慣れぬ男。 客の顔など いちいち覚えたりはしないので 確信は持てなかったが、おそらく 初めての客である。 30代に入っているだろう。 紺に白く細いストライプの入った背広。 一見した限りでは硬い仕事に就いている男に見えるが、対峙する者に どこか軽い印象を与えるのは、彼が ハイブランドのシングル2つボタンという、サラリーマンのスタンダードといっていいスーツを着用しているにもかかわらず、その髪がサラリーマン風ではないからだった。 誰かと待ち合わせでもしているのか、店内を一渡り 見まわし、(おそらく)目的の人物がいないことを確かめ、落胆したように 肩をすぼめる。 そのまま踵を返すかと思われたのだが、案に相違して、その男は 氷河の立つカウンターの方に歩み寄ってきた。 半楕円形のカウンターの最奥の席に着いたのは、彼が控えめな性格だからではなく、パーソナルスペース確保のためでもなく、そこが店内全体を見まわすのに最適の場所だから――のようだった。 そう氷河は思ったのだが、実は そうではなく――それだけではなく――彼が その席を選んだのは、カウンターに立つバーテンダーと 余人に聞かれたくない話をするためだったのかもしれない。 カウンターチェアに腰をおろした その男が最初に氷河に告げたのは、酒の名前ではなかった。 「すまない。瞬さんは、今日は ここには――」 瞬の名を出して尋ねてくる客の顔を見やり、この男は幾度か この店に来たことのある客だろうかと、氷河は改めて自分自身の記憶に問いかけた。 この店に初めて来た客は、男女を問わず10人中10人までが、このバーを取り仕切っている金髪碧眼の男を見ると、その瞳に驚愕の色を浮かべるのが常だった。 容貌への純粋な驚き、称賛、羨望、妬み、僻み、卑下、バーテンダーの感情を読み取れないことや、その印象の冷たさへの恐れ、反発、尻込み、年齢を判断できないせいで 自分の立ち位置を決めかねる戸惑い――客たちが それぞれの瞳に浮かべる感情は それこそ人それぞれだったが、とにかく それらには必ず驚きの色が伴うのだ。 だが、この男には それがない。 初めての客であるなら、この男は事前に この店のバーテンダーが どういう男なのかを知っていたのだ。 それも、人づてに話を聞いただけではなく、画像データ付きで。 ――と、氷河は判断した。 だが、それとても、時折はあること。 決して訝るようなことではない。 いつも通り、客の一人として接し、求められた酒を出してやればいいだけのことである。 にもかかわらず、氷河が その男に特別の注意を向けることになったのは、特段の力を持つでもなく、どこにでもいそうな一般人であるところの その男が、人のよさそうな顔をしながら 腹に一物を抱えているような目をしていたから。 そして もちろん、(氷河にすれば)取るに足りない その男が、瞬の名を口にしたからだった。 「瞬……?」 男は、氷河の呟きを誤解したようだった――あるいは、誤解した振りをした。 そして、いかにも自分の迂闊を恥じたように照れ隠しの笑みを浮かべた――あるいは、意識して作った。 「失礼。客の名を いちいち聞いたり覚えたりはしないか」 それは、自分自身への教戒なのか、バーテンダーへの言い訳なのか。 ともかく、彼は自分の質問を言い直した。 「ここに、男性か女性なのかの判断に迷うような、20代半ばの客がいなかったか。ああ、20歳そこそこにしか見えないかもしれん。とても綺麗で清潔で、清楚で 涼やかで優しげな、ひどく目立つ―― 一種独特の雰囲気を持った人なんだが」 “とても綺麗で清潔で、清楚で 涼やかで優しげな、ひどく目立つ―― 一種独特の雰囲気を持った人”。 それらの形容を すべて同時に満たす人間を、氷河は瞬以外に知らなかった。 もちろん、それは瞬のことに決まっている。 氷河は、その男を初めて ちゃんと視た。 他人のために わざわざ表情を作る労はとりたくないので、無表情のままでいたが。 氷河の無表情な観察の目に出会って、さすがに怯んだらしく、その男が 僅かに上体を後方に引く。 「どこの馬の骨ともしれん男に、客の情報を渡すわけにはいかん」 「わ……私は、瞬さんの仕事の同僚で――」 「なぜ電話しない。同僚なら、連絡先くらい聞いているだろう」 「まったくだ。なぜ そんな肝心のことを聞かなかったのか、自分の迂闊に腹が立つ」 瞬の同僚というなら、この男も医者なのだろうか。 氷河には、にわかには信じられなかった。 医者が、医者だから賢いと言い切ることはできないが、それでも 医者なら、対峙する人間に対して それ相応の知識と教養の片鱗くらいは感じさせるものだろう。 瞬も 医者らしくない医者ではあったが、それは知性が欠如しているのではなく、美しさや強さや優しさが知性を凌駕しているにすぎない。 だが この男は――もし それでもこの男が いわゆるインテリ層に属する人間だというのなら、彼は似非インテリ、もしくは知的俗物と言っていい男だ。 そう、氷河は思った。 案の定、その男が、いかにも頭の悪そうな――他者に理解を求めるには お粗末としかいいようのない日本語で、彼の事情を語り始める。 「明日は瞬さんは休日だというので、勤務が終わる時刻を見計らって 病院の方に行ってみたんだが、瞬さんは もう出たあとだったんだ。ここに来れば会えるんじゃないかと思ったんだが……。休日の前夜には 大抵ここに行くと聞いたような気がしたので――」 『馬鹿は口をきくな』とまでは言うつもりはないが、瞬には関わらないでほしい。 ――という思いを 氷河が言葉にしなかったのは、それが大人の対応だからではなく、彼自身が馬鹿とは あまり関わり合いを持ちたくなかったから。 氷河自身、言葉を使う行為は不得手だったし、自分の口にする言葉が他人には不親切極まりないものに聞こえるらしいことも承知していたが、それは その事柄が どうしても他人の理解を得たい事柄ではないからだった。 そして、氷河が どうしても理解を得たい人は――瞬は――どれほど言葉を省略しても、氷河の言いたいことを正しく理解してくれるから。 「瞬でなければ診ることのできない患者が来た――というのでもなさそうだな」 自身の説明の不備に気付いていない人間には、説明を受ける側の人間が質問をして、その不備を埋める作業をしなければならない。 仕方がないので、氷河は、持ち合わせの少ない親切心を棚の奥から引っ張り出してきた。 馬鹿な男は、さすがに馬鹿だけあって、氷河の親切に気付いた様子も見せない 「なんだ、やっぱり 知っているのか。それは そうだろうな。あんなに印象的な人には、誰も無関心ではいられない。君のように美しい男でも」 『貴様のような馬鹿者に“キミ”呼ばわりされる筋合いはない』という不快の念を 氷河が言葉にしなかったのは もちろん、それが大人の対応だからではなく、彼自身が馬鹿とは あまり関わり合いを持ちたくなかったから。 氷河は無言、無表情でいた。 この男は 他人の理解を得るための説明の能力は不足しているが、それを ただの独り言として聞けば、さほど いらつくこともない。 「いや、仕事絡みではなく、プライベートで――。瞬さんと一緒に過ごしたいと思っただけだ。だが、掴まえ損ねたようだな」 男が わざとらしい苦笑を作る。 瞬を見慣れ、自分自身を見慣れている氷河は それまで気にしてもいなかったのだが、この男は もしかしなくても自分の容姿を それなりのものと思っている――ようだった。 表情が自然に浮かんでくるそれではない。 この男の表情は、すべてが どこか芝居がかっているのだ。 |