日本語には、『盛夏』という言葉はあっても、『盛冬』という言葉はない。 冬は、植物も動物も その活動を抑え、じっと春の到来を待つ季節。 花は散り、木の葉は落ち、動物たちは冬眠に就く――雌伏して、雄飛の時を待つ。 つまり、冬は 、“盛んに”活動する生き物がいない季節なのだ。 当然、『盛冬』という言葉はない。 この季節に 勢いづいて活動しているのは、シロクマやペンギン等の極寒に適応した体を持つ動物たちの他には、せいぜい 氷雪の聖闘士くらいのものである。 ――のはずだったのだが。 寒さ厳しい この季節。 勢いを増し、盛んに活動していてしかるべき氷雪の聖闘士が、城戸邸ラウンジに 力ない足取りで入ってきたのは、真冬の ある日の夕刻のことだった。 そして、全く 覇気の感じられない様子でソファに腰を下ろし、精も根も尽き果てた老人のように、長い嘆息を洩らす。 その間、氷河は終始 無言。 しいて言うなら、言葉ではなく、その表情、その動作が、『俺は今 疲れ切っているから、声をかけるな』と言っているくらい。 今 この時こそが彼のシーズンのはずなのに、氷雪の聖闘士は全く盛っていなかった。 たとえ言葉で はっきり言われたのでなくても、全身全霊が『話しかけるな』と語っている氷雪の聖闘士に、全く遠慮なく 元気な声で、 「なんだよ、氷河。どうしたんだよ!」 と尋ねていったのは、季節にかかわりなく常に意気盛んな天馬座の聖闘士。 氷河は、年がら年中 元気いっぱいの仲間に ちらりと一瞥をくれ、その動作一つのせいで更に疲労が募ったと言わんばかりの態度で、再び長い吐息を一つ洩らした。 あくまでも言葉には出さず、その表情、その所作で、『俺は 今、口をきく元気がないんだ』と、氷河は言い続ける。 そして星矢は、氷河の そんな無言の要求など元気いっぱいに無視するのだった。 「おまえ、今日は瞬と一緒に、万華鏡の展示会に行ったんだろ? 朝方は滅茶苦茶 張り切って浮かれながら出掛けていったじゃないか。展示会の会場で何かあったのか」 「――」 相変わらず 氷河からの答えは返ってこない。 決して 深刻に心配して尋ねたわけではなかったのだが、ここまで完全完璧に無視されると、鷹揚で売っている星矢も 少しは心配になり、少しは腹も立つ。 星矢は、眉を『ハ』の字に、口を『へ』の字にした。 星矢の その珍妙な顔を見て、紫龍が苦笑する。 「瞬が気まずい思いをしないよう、無理に着込んだコートがよくなかったのではないか」 「この寒いのに、暑さにやられたのか? ばっかみてー。つーか、情けねー」 紫龍の推察を 勝手に事実と決めつけて、星矢は げらげらと声をあげて笑った。 より正確に言うなら、星矢は、『紫龍の推察を事実と決めつけた振りをして、げらげらと声をあげて笑い、氷河から何らかのリアクションを引き出そうとした』。 が、それでも氷河は無言である。 いったい万華鏡の展示会に行って、どうすれば ここまで疲れることができるのか。 冬場の氷雪の聖闘士のこととて、体力に問題があったとは考えられず、してみると氷河の疲労は精神面でのこととしか思われない。 星矢は本腰を入れて仲間の心身を案じないわけにはいかなくなったのである。 「もしかして、あれか。瞬をホテルに連れ込もうとして、手厳しく拒まれたとか?」 「いざ 事に及ぼうとして、不都合が生じたということも考えられるぞ」 「え? あーゆーのって、張り切りすぎて できなくなることもあるのか?」 「ないと言い切ることはできないだろう。何といっても デリケートな作業だ。張り切りすぎて、あまりに早く終わってしまったというパターンもあるだろうし」 「あ、それで瞬に がっかりされたんだ。そりゃ、落ち込むよなー」 星矢はもちろん、真面目に仲間の身を案じているのである。 少なくとも、星矢自身は そのつもりだった。 真面目な心配が功を奏したのか、氷河が やっとリアクションを返してくる。 「か……勝手に決めつけるなーっ !! 」 疲労困憊、気力皆無状態でも、さすがに その決めつけには黙っていられなかったのだろう。 氷河の疲労の原因は、やはり肉体上のことではなく メンタル面でのことだったらしい。 星矢と紫龍の上に降ってきた氷河の怒声は、音量声量共、極めて強大かつ強力なものだった。 「俺は瞬をホテルになど連れ込んだりはせん! そんなところに 瞬を連れ込めるか! まして、できなかっただの、早すぎただの、勝手な憶測で ものを言うな! 俺を誰だと思っている!」 「おまえがアテナの聖闘士のキグナス氷河様だってことは知ってるけどさ。聖闘士だってことは、あれができる できない、早い遅いには あんまり関係ないんじゃないか? あれって、聖闘士でなくてもできることだし、聖闘士でもドジることはあるだろ」 「だから俺ができなかったとか、早く終わりすぎたとか言うつもりか、貴様は!」 「別にいいじゃん。瞬なら それでも許してくれるだろ。馬鹿にしたりもしないだろうし」 「やかましい! 貴様は もう口をきくな! そもそも貴様等は 根本的に誤解している!」 口をきくなと言われても、これは口をきかずにいられることではない。 もちろん 星矢は、口をきき続けた。 「えっ。じゃあ、まさか、あの瞬が、インポだの 早漏だのって、おまえを嘲笑ったりしてくれたのか? す……すげー」 「しかし、それなら氷河のこの消沈振りにも合点がいく」 「うん。そりゃ、きついよなー。瞬に、あの顔で、んなこと言われたら、氷河は一生 再起不能だろ」 星矢が、同情に耐えないという顔を氷河に向ける。 氷河のドジはともかく、瞬が本当に そんなことをしたと本気で思っているわけではないのだが、話の流れで、星矢の同情の眼差しは かなり真面目なものになっていた。 星矢に同情されてしまった氷河が、全身の血がそこに集まってきたかのように 怒りで顔を真っ赤にする。 だが、怒りによる氷河の血液の一極集中は 数秒後には潮が引くように 速やかに、綺麗さっぱり解消されてしまっていた。 元の意気消沈状態に戻った氷河が、 「瞬に そんなことを言われて、一生 不能になってみたい……」 と、力ない声で呟く。 「えええええっ !? 」 その呟きを聞いた星矢が ラウンジを奇声で満たすことになったのは、当然のことだったろう。 キグナス氷河様の言葉とも思えない消極的かつネガティブと言っていい望み――むしろ 非常識な望みに、星矢だけでなく紫龍までが驚きのために その目を見開くことになった。 「瞬に不能呼ばわりされることより悲惨なこととは いったい……」 氷河が そんなことを望むからには、彼は今日、瞬に不能呼ばわりされることの方がずっとましと思えるような不幸に見舞われたのだろう。 しかし、そんなことがあり得るだろうか。 男性機能の拙劣を瞬に愚弄されることは、氷河のような男には、自分が死ぬより つらく屈辱的なことのはず。 氷河にとっての それ以上の不幸というと、紫龍には、“瞬の死”しか思いつけなかった。 が、瞬はまだ生きている。 おそらくコートを置きに自室に行ったのだろう瞬の小宇宙が、たった今も紫龍には感じ取れていた。 しかも、その小宇宙は いつも通りに明るく楽しげに弾んでいる。 それは どう考えても、氷河を不能呼ばわりしなければならないような不幸で悲惨な事故(?)に見舞われた直後の人間の小宇宙ではない。 では 氷河は、瞬に不能呼ばわりされること以上、瞬の死未満の不幸で悲惨な事故 もしくは事件に見舞われたということになる。 だが、そんな事故 もしくは事件が この世に存在し得るだろうか。 氷河の仲間たちには、そんな特殊な事故 もしくは事件を想像することもできなかった。 しかし、もちろん 氷河は、瞬に不能呼ばわりされることより、不幸で悲惨な目に会っていたのだ。 「何があったんだよ」 星矢が、彼にしては音量と抑揚を抑えた声で 氷河に尋ね、 「だから……俺は今日、瞬と一緒に万華鏡展に行ったんだ」 氷河が、彼にしては音量と抑揚を抑えた星矢の声よりも力ない声で答えてくる。 「うん、それで」 「イベントは楽しかった。俺はそんなものは どうでもよかったが、瞬が嬉しそうにしていたから、俺も嬉しかった」 「うんうん」 「展示会場を出たあと、瞬が気に入りそうなカフェに入った。瞬は、“天使と12のフルーツの春のダンス”とかいう 訳のわからない名前のケーキと生キャラメルクリームココアをオーダーした。見ただけで俺は胸焼けがしたが、瞬がおいしそうに食べるから、瞬の気に入りそうな店を 苦労して探した甲斐があったと思った」 「おまえ、夕べ、ネットで一生懸命 調べてたもんな」 「で、店を出て、噴水公園を見てから帰ろうと思って、公園に向かって二人で並んで歩き出した。瞬は相変わらず 通行人の男共の注目を集めていた。瞬の隣りにいる俺に気付いた男共が がっかりする顔は、何度見ても気分がいい。俺は得意の絶頂だ」 「うんうん。いつものパターンな」 「俺は瞬に さりげなく言った。『傍から見たら、俺たちは理想の恋人同士に見えているだろうな』と」 「へーへー」 「瞬は 恥ずかしそうに はにかんで、俺に答えた。『そうなのかな。やだ、僕たち そんなんじゃないのにね』」 「……」 |