「おまえ、誰だ」 その子が僕の名前を訊いてくる。 「僕は瞬……っていうんだけど……」 「急に こんなところに現れるなんて、おまえは神か」 「ううん、人間だよ」 「本当か?」 「僕は、アテナの聖闘士なんだ」 今の僕はアテナの聖闘士だけど――アテナの聖闘士でも、自分の意思で 自分の身体を こんな異次元――おそらく――に 運ぶことはできない。 少なくとも、今の僕にはできない。 僕が異次元に力を及ばせることができるのは、せいぜい僕のチェーンだけで――って、えっ? そんなことを考え始めていた僕の心臓めがけて、ふいに小さな拳が飛んでくる。 ただの人間――それも小さな子供――にしては、素晴らしい速さ。 それは、到底 子供のそれとも思えないほどの速さだったんだけど――所詮は 聖闘士でもない人間の攻撃、僕は なるべく優しく その拳を止めて、その子の顔を覗き込んだ。 この子、自分の拳を誰かに止められたことなんてなかったんだろうな。 なぜ 自分の拳が目的のものに届いていないのかって言いたげに、瞳を大きく見開いた。 うん。 この鋭い攻撃は、喧嘩慣れした大人でも、よけるのは難しいね。 でも、なぜ? なぜ この子は僕に攻撃を仕掛けてくるんだ? 僕は わけがわからなくて――もしかしたら、この状況に より驚いていたのは、拳をよけられた その子より僕の方だったかもしれない。 でも 僕は、ゆっくり そんなことに驚いていられなかった。 その子は 更に僕を驚かせることをしてくれたんだ。 「俺を殺してくれ」 って、言って。 その子は 悔しそうな目をして、僕にそう言ってきた。 まさか、死にたいからアテナの聖闘士に攻撃を仕掛けてきた――なんてことはないよね? こんな小さな子供が、そんな自暴自棄をするはずがない。 けど――そう決めつけてしまうには、あまりに悲しそうな、あまりに悔しそうな青い瞳、その眼差し。 いったい この子の身に 何があったっていうんだろう? 「何か つらいことがあったの? どうして泣いているの?」 離してしまっちゃいけないような気がして、その子の腕を掴んだまま、僕は尋ねたんだ。 自分の力を見極める目も確からしくて、その子は それ以上 抵抗を続けることをやめてくれた。 そして、力のない声で、彼は 彼の自棄めいた行動の訳を教えてくれた。 「マーマが死んだんだ」 って。 「お母さんが?」 「アポロンとゼウスが喧嘩をして、それに巻き込まれて――マーマは 俺をゼウスの雷電から庇って死んだ。俺の目の前で消えた。神を殺したい。でも、俺には何の力もなくて、そんなことはできない。マーマの仇を討てないなら、死んだ方がましだ」 「あ……」 事実だけを伝える ぶっきらぼうな言い方は、それだけ この子が お母さんを失ったことで受けた衝撃が大きかったということ。 この子は、自分の目の前で 肉親を失った――肉親の死の様を 自分の目で見てしまったんだ。 きっとそれは、視覚に感情が追いついてこないほど衝撃的な出来事で……かわいそうに。 この子は、お母さんのことを 大好きだったんだろうに。 両親や兄さんの死を自分の目で見としまっていたら、僕だって感情を忘れるよ。 悲しみや苦しさに 心臓を押しつぶされてしまわないように。 ああ、でも、やっと わかった。 僕が ここに来た訳が。 この子は家族をすべて失って絶望し 死んでしまおうとしていた、10年前の僕と同じなんだ。 あの時 僕が死なずに済んだのは、僕の前に氷河が現われて、僕の進むべき道を 僕に示してくれたからだった。 同じことを この子にしてあげるために、僕は ここに運ばれてきたんだ。 この子の傷付いた心を慰めてあげるために。 そして、生きるための力を取り戻させてあげるために。 あの時、僕の氷河が僕にしてくれたのと同じことを、僕は この子にしてあげるんだ。 「僕はアテナの聖闘士だよ。そう言ったでしょう? アテナは、ゼウスともアポロンとも違う」 「でも、神なんだろ。神はみんな同じだ。みんな、身勝手で、馬鹿で、残酷だ。平気でマーマを殺した」 「アテナは違うの。アテナは、地上に害を為そうとする邪神から人間たちを守ってくれているんだ。僕は、そんなアテナのもとで、そんな邪神たちと戦うために――人間の世界を守るために、アテナの聖闘士になったんだよ。まだ……なったばかりだけど」 アテナの聖闘士といいながら、僕は まだアテナに拝謁したこともないんだけど、でも、どこにいてもアテナの小宇宙は感じる。 温かくて、強くて、気高くて、優しいアテナの小宇宙。 アテナは、弱くて 愚かでもある人間たちを愛してくれている。 神々が誰も彼も 人間の敵だということはないよ。 もちろん 身勝手で傲慢な神や、人間は滅ぶべきだと考えている神が大勢いることも事実だけど。 「聖闘士になれば、神を倒せるのか?」 この子は、母親を失うことで心に負った傷ゆえに、攻撃的になってる。 かわいそうに。 この子は 本当に深く お母さんを愛していたんだ。 大切な お母さんを奪った神。 そんな神々はみんな滅ぼしてしまいたいよね。 でも。 「不可能なことではないよ」 「なら、俺は聖闘士になる!」 大切なお母さんを奪われて傷付いた子供の目が、輝きを取り戻す。 でも、それは いけないことなんだ。 「……マーマの仇を討つため?」 「当たりまえだろ! 他に聖闘士になる理由なんかない。神を倒すんだ!」 「それは駄目なの。聖闘士は憎しみの心でなるものじゃないの」 憎しみが 人間の持つ感情の中で どれほど強い力を持つものなのか、僕だって知らないわけじゃない。 それは、人間に何事かを成し遂げさせる力――強い力を生むものだ。 でも、駄目なんだよ。 そんな感情を抱えていたら、他でもない君が不幸になる。 けど、お母さんを失ったばかりの この子には、憎しみが悲しみと同じように 自分を不幸にするものだということは、まだ理解できないだろうか……。 不思議そうな目を、母を失った気の毒な子は 僕に向けてきた。 「おまえは、どうして聖闘士ってのに なったんだ?」 「僕は――苛酷で理不尽な運命のせいで不幸になる子供たちをなくしたいと思ったから、聖闘士になったんだよ。君みたいな子を作らないために」 ああ、でも、僕も 偉そうなことは言えない。 僕の聖闘士になるための10年間の修行は、そう思えるようになるための10年だった。 憎しみではなく、他者への思い遣りや愛や優しさを力にして戦うことを学ぶための時間だった。 「そのためには、身勝手で横暴な神を倒すしかないじゃないか」 そうだね。 でも、そうじゃない。 僕は 首を横に振った。 「聖闘士は、人の命や幸福を守るために存在する。そのために戦うんだ。仇を討ちたいなんていう理由で なれるものじゃないんだよ。仇を討ったら、君は そのあとはどうするの」 「そのあとは死んでもいい!」 ああ。やっぱり。 でも、駄目だよ。 僕の氷河と同じ色の髪と瞳を持つ君に、そんな生き方はさせられない。 「そんなの駄目だよ。君のマーマは君を庇って命を落としたと言っていたよね。マーマは 君に生きていてほしかったんだよ。だから、自分の命をかけて君を守ったんだ。それは わかるでしょう?」「でも、マーマがいないのに生きてたって何にもならない」 「お父さんはいないの?」 「俺が生まれてすぐに死んだ」 「そう……」 じゃあ、この子には、本当に お母さん一人きりだったんだ。 愛情のすべてを お母さんに注ぎ、お母さんも 我が子を深く愛していた。 その お母さんを、神々は理不尽に、突然、この子から奪った。 この子が神を憎むのは当然だ。 でもね。 人間は、憎いもののためより、大好きな人のために生きる方が幸せなんだよ。 そして、結局は、憎しみより愛の方が、人を強くする。 「生きていても無意味と思うなら、その命を 人々の幸せを守るために使ってもいいじゃないかな。今 死んでもマーマは君を褒めてくれないよ」 そんな説得で この子が すぐに考えを改めてくれるとは思えなかったんだけど、僕はそう言ってみた。 そしたら。 この子のお母さんは、本当に この子を心から愛していたんだ。 その愛に育まれて、この子も素直で優しい子に育った。 僕は泣きたくなった。 あれほど 神々への憎しみに囚われていた子が、 「俺、マーマに褒めてほしい」 って、素直な答えを口にするのを聞いて。 とても激しいけど、とても優しい子なんだ、この子は。 「じゃあ、マーマの喜ぶことをしようよ。君のマーマは優しかった?」 「うん、すごく」 「君にだけ?」 「みんなに優しかった。みんながマーマを綺麗で優しいって言ってた」 そんなマーマが大好きだったんだね、君は。 そんな得意そうな顔をして。 「じゃあ、君のマーマの望みは、君と君以外の人たちが幸せになることだったんだ。君は、マーマの望みを叶えるために生きなくちゃ。そうして一生懸命に生きて――いつか死んで、マーマに会うのは その時の方がいいよ。その方がマーマに たくさん褒めてもらえるから。ちゃんと自分の命を生き抜いたんだねって、マーマは きっと 君を誇らしく思って、君を いっぱい褒めてくれるよ」 愛情深い母親に愛されて、まっすぐに育った優しい子。 僕は、誰よりも君に幸せになってほしい。 そのために、僕は戦う。 そのために、僕はアテナの聖闘士になったんだ。 そう思ったら――そう思えたら、僕は胸がいっぱいになってきて――それだけで僕の胸はいっぱいだったのに、その子は、 「俺がマーマと みんなのために一生懸命 生きたら、おまえも俺を褒めてくれるか」 なんて、素直で 可愛らしいことを更に言い募って。 「もちろんだよ」 「なら、俺、聖闘士になる」 えっ。 僕の胸の中に降り積もっていた感動の雪が、その言葉で瞬時に止む。 その決意の言葉に、僕は少し慌てた――ううん。すごく慌てた。 聖闘士になるなんて、あっさり言うけど、それは そんなに簡単なことじゃないんだよ。 「マーマの望みは、聖闘士にならなくても叶えられると思うけど――」 「俺は、おまえみたいに強くなりたいんだ」 「あ……でも、でもね。聖闘士になるには、とっても つらい修行を積まなきゃならないんだよ」 「マーマとおまえに褒めてもらうためなら、俺、頑張る。駄目か?」 「駄目っていうことはないけど……」 こんなに素直で綺麗で優しい子、聖闘士にならなくても、もっと楽に幸せになれるのに。 僕は軽率に この子にアテナの聖闘士の話をしてしまったことを悔やんで、でも一度 話してしまった言葉をなかったことにもできなくて 困ってしまった。 でも、この子なら もしかして――とも思う。 もしかしたら 乗り越えてくれるかもしれない。この子なら。 僕だって 聖闘士になれたんだし、もしかしたら、もしかしなくても。 そう考えて、僕は短い息を洩らした。 |