まもなく冬が終わる――ギリシャに春が来ようとしている。 昨夜は 珍しく、テッサリアの野に雪が降った。 まるで、冬という季節が、自分はまだ ここにいるぞと言い張っているかのように。 例年 この時季のテッサリアには、神々の住まうオリュンポス山の頂に雪が残るのみで、平地に雪が降り積もることはない。 テッサリアの者たちは、今年の冬は往生際が悪いと呆れているだろう――。 そんなことを、氷河は考えていた。 テッサリアの野にうっすらと積もった雪の上に仰臥して。 虫も獣も花々も、まだ眠っていていい。 いずれ ここにも賑やかな春がやってきて、否が応でも おまえたちは目覚めなければならなくなる。 それまでは 静かに眠っていろ。 そんなことを思いながら、氷河は雪の上で目を閉じていたのである。 その雪の上を歩く足音が一つ。 それは ゆっくりと静かに、氷河のいる方に近付いていた。 人間のものにしては小さいが、獣のそれではない。 氷河が気付かぬ振りをしていると、その足音は 氷河の傍らで止まった。 やはり人間のようである。 彼(彼女)は、雪の上に膝をつき、そして、氷河の顔を覗き込んできた。 周囲の空気が冷たく張り詰めているせいか、触れてもいないのに、氷河は その温かさを感じることができた。 声を出さずにいるのは、今がまだ早朝といえる時間だから――というわけではなさそうだった。 それは 明らかに戸惑っている。 雪の残る早朝、人間が野に横たわっているのだ。 それも無理からぬことだと、目を閉じたままで氷河は思った。 氷河が目を開けずにいたのは、ここで突然 自分が目覚めたら、その小さな人間を驚かせてしまうかもしれないと、それを懸念したから。 だが、その小さな人間が手をのばし、自分の頬に触れようとする気配を感じて、氷河は眠っている振りを続けているわけにはいかなくなったのである。 他人に触れられることを、氷河は好まなかった。 野盗や追い剥ぎの類なら、こんなふうに恐る恐る、いかにも当惑した様子で 他人の身体に触れようとはしないだろう。 無辜の人間を驚かせるようなことは あまりしたくないのだが 致し方ない。 「俺に触れるな」 氷河は、その人間の手が自分の頬に触れる直前に 目を開けた。 そうして驚くことになったのは、その小さな人間ではなく、氷河の方だった。 少し不安そうに揺れている澄んだ瞳。 この世に 真に清らかなもの、真に汚れのないものは、生き物が生きていられないほどの凍気の中にしか存在しないという氷河の信条を、それは一瞬で覆してくれた。 その小さな生き物の瞳は、一粒の砂ほどの汚れもたたえていなかったのに、温かかったのだ。 まるで春のように――春そのもののように、澄み切った その瞳は温かかった。 だから氷河は驚いたのである。 その瞳の持ち主の方も、驚きはしたようだったが。 氷河の頬に触れようとしていた手を 慌てて引っ込め、氷河の上に傾けていた上体を後方に引き、その生き物は 二度三度 小さく首を横に振った。 「ご……ごめんなさい。死んでいるのじゃないかと――いえ、どこか具合いが悪いのかと思って……」 その小さな生き物は、大人になり切れていない人間の子供だった。 そして、その子供が足音を忍ばせて氷河に近付いてきたのは、その子供が、雪の上に横たわっている男を死人かもしれないと疑っていたからだったらしい。 考えてみれば、それは 至って自然な疑念である。 自分が生きていることを知っているがゆえに、その可能性に思い至らずにいた自分自身に、氷河は胸中で短く苦笑した。 そして、上体を起こす。 この人間の澄んだ瞳を、氷河は もっと近くで見たかった。 「具合いが悪い? 俺が? まさか」 「まさか……って、でも、こんなところで倒れていたら――」 「倒れていたわけではない。寝ていただけだ」 「寝ていた? どうして、こんなところで眠ってらしたんですか? 普通の人間なら 凍えて死んでしまいます」 『普通の人間なら そうかもしれないが』という言葉を喉の奥に押しやって、氷河は、 「寒いのは平気なんだ」 とだけ言った。 その返答を聞いた澄んだ瞳の普通の人間の心配顔に、懐疑の表情が浮かぶ。 雪の降った夜に野外で眠っているのは、“普通の人間”どころか、すべての人間の可能性の範疇を超えたことであるらしい。 “普通の人間”の範疇を超えて澄んだ瞳の持ち主に、“普通の人間”だと思われていたかった氷河は、慌てて、 「いや、さすがに 寒くて凍えていた」 と告げて、前言を撤回した。 澄んだ瞳の普通の人間の眼差しから 懐疑の色が消え、代わりに そこに安堵の色が浮かんでくる。 「本当に……凍え死なずに済んだのは 奇跡です。春には まだ間があるのに、こんなところで夜を明かすなんて。よろしければ 僕の神殿――僕が暮らしてる神殿にいらっしゃいませんか。僕、瞬といいます」 「瞬……瞬か。俺は氷河だ。おまえの神は誰だ。おまえは誰に仕えている?」 見たところ、瞬の年齢は15、6。 普通の人間にしては、瞳が澄みすぎている――否、神でも こんな瞳の持ち主はいない。 面差しは やわらかく優しげ。 その印象は、春に咲く可憐で小さな花。 冬場の着衣にしては薄すぎる短衣で覆いきれていない手足は白く なめらかで、農作業に従事している者のそれではない。 十中八九、いずれかの神に巫者か侍者として仕えている者である。 華奢な肢体は、まだ愛欲に身を任せたことのない子供のそれで、清潔そのもの。 この種の無垢な人間を好む神というと、誰がいるか。 瞬が仕えている神によっては――氷河はその神殿に足を踏み入れるわけにはいかなかったのである。 氷河には 相性の悪い神が多かった。 「あの……アテナです」 知恵と戦いの女神アテナ。 その名に、氷河は、少なくとも嫌悪や不快は覚えなかった。 苦手な神ではない。 だが、だから気軽に その神殿を訪問できるかというと、そういうわけにはいかなかった。 「アテナ? アテナは処女神だろう。その神殿に 俺のような男が足を踏み入れたなんてことを知ったら、アテナは激怒するのではないか?」 氷河の言葉に、瞬は 何か思うところがあるかのような顔になり、二度ほど不自然な瞬きをした。 が、すぐに屈託のない笑顔に戻る。 「まさか。アテナは戦いの女神。健康で強い男性は大歓迎です。粗野な乱暴者は お嫌いだけど、あなたのように美しい方なら ご心配には及びません。それに、アテナは、アテナイの本神殿やオリュンポスの神殿ほどには、こちらの神殿には お見えにならないんです。僕も滅多に お会いしたことはないの。アテナは もう半年以上 こちらには いらしてなくて――夏のパンアテナイア祭の直前に ちょっと こちらに立ち寄られたきり……かな」 「そうか」 アテナが歓迎するかどうかは ともかく、アテナと顔を会わせることがないのなら、男が彼女の神殿に入っても問題にはならないだろう。 まだ春とは言い難い この時季に“普通の人間”を野に転がしておくことはできないと思っているらしい瞬のために、氷河は 瞬の申し出を受け入れることにした。 言葉ではなく、その場に立ちあがることで、その意を瞬に伝える。 瞬は嬉しそうに、それでなくても春めいていた表情を 更に温かく やわらかなものにした。 春の暖かさ、春の色は、それを どれほど強く 濃くしても、夏のそれになるわけではないらしい。 そんなふうな――これまで考えたこともなかったことを考えながら、氷河は 瞬と共に 瞬の仕える神の神殿に向かったのだった。 |