テッサリアはもうずっと、冬でも春でもない気候が続いていた。
まるで 春の神が眠りから目覚めるのを忘れてしまったかのように。
春の神は、すべての生き物の目覚めを誘う神だというのに。

「氷河は どこから来たの」
冬でも春でもないテッサリアの野。
晴れて青いのに 冬空の灰色も帯びている空を 心許なげに見詰めながら、瞬が氷河に そう尋ねてきたのは、氷河が瞬の神殿に滞在するようになってから ひと月近くが過ぎた、ある日の午後のことだった。
「北からだ」
憂いの色を帯びている瞬の横顔を見詰めながら、氷河は答えた。
漠然としすぎて、答えになっていない答え。
瞬が その答えに不服を感じた様子を見せなかったのは、瞬が本当に知りたいことは、
「どこに行くの」
という問い掛けの答えの方だったかららしい。

「当てはないんだ。特段の目的があって旅をしているわけではない。目的を探すための旅をしていると言った方がいいかもしれん」
「じゃあ、ずっとここにいればいい。ここが氷河の目的の地だったことにすればいい。アテナは、この神殿のことは、すべて僕に任せてくれているの。氷河が ずっとここにいても、誰も何も言いません」
瞬の瞳が『ずっと ここにいて』と訴えている。
できることなら、氷河とて そうしたかった。
だが、それは――。

「おまえに、この神殿のこと すべてを?」
瞬のその言葉を聞いた氷河が 僅かに眉をひそめたのは、瞬の言葉を怪訝に思ったからだったが、それ以上に、『だが、それは』の続きを考えることを避けたかったからだったかもしれない。
その どちらであっても、瞬が告げた言葉は奇妙なことだった。
瞬が“普通の人間”には持ち得ない――神にも持ち得ない――清らかさ 美しさを備えていることは 容易に見てとれるが、それでも 瞬が15、6歳の人間の子供であることに変わりはない。
そして、瞬は 戦いの女神が特別の恩寵を与えるほど、戦いに向いた性質を持っているようにも見えない。
瞬は、神経が細やかで機転もきくが、それは アテナが司る知恵とは趣を異にするものである。
アテナが司る知恵は、戦いの場で役立つ知略、野蛮を支配する理性。
つまり、優しさや思い遣りではなく、敵に打ち勝つための強さなのだ。
そういう意味では、瞬は、アテナの好みの対極に位置する人間だった。
瞬は、戦いを厭い、穏やかで やわらかで 優しい。

とはいえ、アテナ神殿にいる巫女たちに、彼女等より若年の瞬を格下に見ている様子がないのも厳然たる事実。
彼女等は、氷河のように恋に囚われて瞬を愛しんでいるのではないように見える。
では、彼女等やアテナが瞬を特別扱いするのには、どういう事情があるのか。
氷河には、それがわからなかったのである。
「おまえには、美しさや清らかさの他に、何か特別の才があるのか? 言ってはなんだが、おまえは歴戦の勇士には見えない。武器を作る術を心得ているようにも見えないし、知略に長けているとも思えん。戦いの女神アテナが おまえに特に目をかける理由が、俺には思いつかないんだ」

瞬が 暫時 瞼を伏せたのは、話を逸らされたと思ったせいだったのか、あるいは、それが触れたくない話題だったからなのか。
氷河には その判断を為すことはできなかった。
瞬が すぐに顔を上げ、探るような目を氷河に向けてくる。
「この外見ですから、男子なのに側近くに仕えさせやすいというのはあるかもしれません」
氷河が声を失う様を見て、瞬は 微かな笑い声を作った。
笑いながら、瞬が氷河に尋ねてくる。

「氷河も、僕のことを女の子だと思ってました?」
どんな答えを返しても、瞬を喜ばせることはできないような気がして、氷河は、
「どんな花より可憐だとは思っていた」
と答えた。
瞬が 重ねて笑い声を洩らす。
「それで、うまく言い逃れたつもりでいます?」
「すまん。本当に考えたことがなかった。意識していなかった。男子でも女子でも、そんなことに大した意味はないだろう。男子としても、女子としても、この地上にいる者の中で、おまえは最も清らかで美しい」
それは決して嘘ではなかった。
氷河は、春の野に咲く可憐な花の姿をした瞬が 男子だったことに驚いたのではなく、むしろ 瞬に性別があったことに驚いたのだ。
だが、男子が 他人に男子として見てもらえないことは、女子が 他人に女子として見てもらえないこと同様、その当人にとっては侮辱であるに違いない。
そういう意味で、氷河は瞬に申し訳ないと思った。

「それは違います」
笑みを浮かべたまま、実は瞬は立腹しているのだろうか。
瞬は、氷河の言に異を唱えてきた。
「おまえより美しい人間など、俺には想像できん」
「想像なんかしなくても――ヘリコン山にある泉にでも行って、そこに映る自分の顔を見ればいい」
ヘリコン山には、ナルキッソスが自分自身への恋に落ちた泉がある。
さすがに氷河は、自らを そんな愚か者に重ねて語られることは不愉快だった。
「そんな馬鹿者と一緒にするな。自分の顔は 自分の目で直接見ることはできない。本当に美しいのかどうか 自分の目で確かめられないものに、俺は興味を抱けない。俺の目に映るものの中で、おまえが いちばん綺麗だ」
「本当に そう思ってる?」
「こんなことで嘘をついて どうなる」
「じゃあ、ずっと、ここにいて」
「それは――」

瞬は知略に長けている。
結局 瞬は、瞬が意図していた目的地に氷河を辿り着かせてしまった。
アテナが瞬に目をかける理由が、氷河は わかったような気がしたのである。
瞬は 武器に頼らず、腕力に頼らず、優美に穏やかに、その戦いに勝利するのだ。
返事ができず 黙り込んでしまった氷河を見詰め、勝利者であるはずの瞬が 悲しげに眉を曇らせる。
瞬は、自らの戦いに、ついに武器を持ち出した。
瞬が、澄んだ瞳に 澄んだ涙を たたえ始める。

「少しでも、氷河に好かれていると うぬぼれていた自分が愚かでした」
アテナが瞬を厚遇する理由が わからずにいた自分こそが愚かだった。
そう、氷河は思ったのである。
瞳を涙で潤ませて そんなことを言う瞬に、いったい どんな豪傑になら太刀打ちできるというのか。
少なくとも 氷河には、瞬を打ち負かすことはおろか、瞬と戦うための気力を奮い起こすことすらできなかった。
氷河は、瞬の誤解を解き、瞬の涙を止めるために努めることを余儀なくされてしまったのである。
誤解させておいた方がいいのだということは わかっていたのに。

「うぬぼれじゃない。俺の目に、おまえが 地上世界の誰よりも 何よりも美しく映るということの意味くらい わかってくれ。おまえは もう少し賢いと思っていた」
なぜ 自分は そんな言い方をしてしまうのか――そんな言い方しかできないのか。
氷河は、自分で自分を殴り倒してしまいたい衝動に駆られたのである。
氷河にとっては幸いなことに、聡明で賢明な瞬は 氷河の拙劣な言動に呆れた様子は見せず、氷河の下手な告白を正しく理解してくれたが。
「僕は そんな英明な人間じゃないんです。そんなの、わかるわけない。言葉で言ってくれなきゃ」
「俺に 気の利いた言葉を期待しないでくれ。俺は 全く能弁な男じゃない」

瞬を うっとりさせるような美辞麗句を、瞬の上に雨あられと降り注ぐことができるような弁舌の才があったら どんなにいいだろうかと、氷河は、自分の不器用に苛立ちを禁じ得なかった。
だが、恋をしたからといって、不器用な男が 突然 器用な男に生まれ変われるはずもない。
おそらく ここで、『好きだ』とか『愛している』とか、そういう言葉を囁けばいいのだということはわかるのだが、なぜか それもできない。
不器用な自分を変えることができず、そんな自分に焦れて――最後に氷河が採った方法は、言葉で思いを伝えるのではなく、瞬に 唇で直接 それを訴えることだった。

瞬の華奢な身体を抱きしめ、その唇を奪う。
戦巧者に思われた瞬は、氷河の不意打ちに驚き、応戦できず、ただ 氷河の腕の中で 身体を硬くしているばかり。
瞬は緊張しているだけで、決して それを不快に感じているわけではないと――瞬は氷河に抗する素振りは全く見せずに 大人しくしていたので――氷河は、ひとまず 安堵することになったのである。
瞬に とんでもない誤解をされることだけは、何とか回避することができたようだ――と。

言葉を用いなくても これで わかってもらえるのなら、氷河の唇は いくらでも雄弁になることができた。
不慣れで不器用な瞬の唇が、むしろ愛しく 可愛らしい。
氷河は すっかり調子に乗り、唇だけでなく、瞬の頬や瞼、果ては首筋にまで、雄弁に 自分の思いを刻み続けたのである。
そんな氷河に自重を促してくれたのは、テッサリアの野の上空で歌を歌い出した一羽のヒバリだった。
春というには気温が低すぎるので、その囀りには 今ひとつ伸びやかさに欠けている。
そして、そのヒバリがふいに鳴き出したのは、巣の近くに人間が近付いてきたせいだったらしい。

「あちらも 逢引きのようだ」
氷河の低い囁きに、瞬が真っ赤になったのは、氷河に そう言われて初めて、自分たちがしていることが“逢引き”という行為だと自覚したからのようだった。
あとからテッサリアの野にやってきた恋人たちの目から逃れるように、瞬が氷河の胸に顔を埋める。
氷河と瞬のキスを中断させた二人は、自分たちが 自分たち以外の恋人たちの邪魔をしたことに気付いていないらしく、辺りに笑い声を響かせながらヒバリの巣探しを始めた。
その声で、彼等に自らの存在を意識されていないことに気付いたのか、瞬が恐る恐る顔を上げる。

「瞬……?」
騒がしい恋人たちの姿を見詰める瞬の眼差しは、なぜか 遣る瀬なげで、どこか寂しげなものだった。
愛の行為の邪魔をされて憤るなら、その気持ちは氷河にもわかるのだが、どう見ても、瞬の眼差しは 怒りではなく寂寥でできている。
瞬の そんな眼差しを、氷河は訝った。
「神殿に戻ろう。ここは、静かに恋を語るには不向きな場所のようだ」
「あ……うん、そうだね……」
不粋な闖入者のせいで、瞬が 恋の夢から すっかり覚めてしまうことを 氷河は恐れていたのだが、瞬は それで氷河との間に再び距離を置こうとすることはしなかった。
瞬が 氷河の胸に ぴたりと身体を寄り添わせたまま――氷河に その肩を抱くことを許したまま――小さな声で ぽつりと呟く。

「人間って、いつかは死んでしまうのに、どうして あんなに幸せそうなんだろう」
まるで自分は人間ではないような言葉、声。
氷河が、
「愛する者と共にいられるからだろう」
と言うと、瞬は顔を上げて、氷河の瞳を覗き込んできた。
「春が来ても……僕、氷河とずっと一緒にいたい」
瞬が恐れているのは、旅人が この地を去ることではなく、瞬自身が 恋人の許を去ることなのではないか。
瞬の力ない声が作る呟きは、氷河の耳には なぜか そう聞こえた。
自分が この地を去ることしか考えていなかった氷河は、瞬の その呟きに 不安――むしろ、不吉めいた何か――を覚えてしまったのである。

「おまえは、春になったら どこかに行くのか」
「え? ううん。春になると、花の お祭りが多くなるから、花を摘んだり 飾ったりするので 忙しくなるなあ……って思っただけ」
氷河が尋ねても、瞬からは 曖昧な答えが返ってくるばかり。
その日、神殿に戻る道すがら、瞬の頬が 恋のために再び上気することはなく、それは ずっと青ざめたままだった。






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