- 2杯目 ミント・ジュレップ -






味覚障害なのか、新しいバーの出店を目論むバーテンダーもしくは経営者なのか。
5日の間を置いて、その男は再び 氷河の店に姿を現わした。
時刻は8時前。
店の席は7割方 埋まっている。
氷河の店はテーブル席を入れても、20人ほどで満席状態になるのだが、それでも、開店から間もない時刻に 氷河の店に それだけの客が入っていることが、彼には意外なことだったらしい。
そういう目で、彼は店内を見まわした。

ハンサムなおじ様の 今夜のオーダーはミント・ジュレップ。
彼の悪意は継続中。
温厚な紳士然とした様子も、先日と変わらない。
そして、『この男は不味い酒を飲みたがっている』と感じる氷河の感覚もまた、先日と変わらなかった。

グラスにミントの葉と砂糖、水を入れ、砂糖を溶かしながら、ミントを潰す。
本来なら、そのグラスにクラッシュド・アイスを詰めて、バーボンを注ぎ、グラスの表面に霜がつくほどに ステアする――のが、ミント・ジュレップの標準的な作り方である。
しかし、氷河は、クラッシュド・アイスを入れる前にバーボンを注ぎ、それを 一度 濾してから、クラッシュド・アイスを入れ、ステア――という作り方を採っていた。
その方が、ミントの香りは そのままに、ミントの葉の残骸が混じらない美しい姿をしたカクテルができるのだ。
それを不味く。

人類は その誕生の時から、飽くことなく美味を追及してきた。
美味の追求は おそらく、人類が滅亡する時まで永遠に続く長く厳しい道だろう。
だが、美味の追求など、不味さの追求に比べたら、どれほど容易な作業であることか。
しかも、材料が限られている場合には なおさら。
氷河はミントの葉を通常より潰しすぎることで なんとか、その難題をクリアした。

「相変わらず、不味い。手順は間違っていないのに、これほど不味いカクテルを作り出せるのは、もはや才能だ」
「どうも」
おじ様は、褒めたつもりはなかったらしい。
しかし、彼の言葉は、今の氷河には 十分に讃辞だった。
どうにかして 不味いカクテルを作ろうとした努力が認められたのだ。
氷河の応答に 嫌味の響きのないことが、彼は意外だったらしい。
奇妙な客は 僅かに眉をひそめた。
にもかかわらず、彼の表情に 邪悪めいたものは感じられない。

邪ま や卑しさ、意地の悪さや卑劣、野卑――そういったものは全く感じられないのに、むしろ誠意と善良が感じられるのに、強く激しい悪意だけは感じ取れるのである。
一人の人間が こういう心境になるのは、いったい どういう場合か。
奇妙な客の上に 無遠慮な視線を据えて、氷河は考えていた。
奇妙な客が、
「君、何か面白い話はないか」
と、この店のバーテンダーに告げたのは、彼が氷河の視線に いたたまれなくなったから――ではなかっただろう。
普通の人間が 氷河の凝視(むしろ睥睨)を受けることになったなら、彼(彼女)は、その冷たい眼差しに震えあがるか、もじもじと挙動不審状態になるのが一般的。
が、奇妙な客は そういう反応を示さなかった。
彼は人に見られることに慣れている人間なのだと、氷河は推察した。

“面白い話”。
他の店なら いざ知らず、この店に慣れている者は、滅多に氷河にそんなことを求めない。
そんなことを求めても、氷河からは『ない』の一言しか帰ってこないことを、常連客たちは知っているのだ。
そして、初めての客は、そんな無謀に及ぶ前に、氷河の美貌や 彼の表情や所作が かもし出す冷たい空気に気後れして、軽口を叩ける状態ではなくなる。
その夜、氷河が いつも通りに『ない』で済ませなかったのは、彼自身が 自分の苦労の理由を知りたかったから。
そして、先日 瞬に意見を求めた成り行き上、事の真相を突きとめて 瞬に報告しなければならないと、氷河が思っていたからだった。

「初見の客が、不味い酒を飲みたがっていた。俺は希望通りの酒を出した。当然、客は不味いと言う。そのやりとりを見ていた別の客が、そのことを ある医者に言ったら、医者は、その客が味覚障害を患っている可能性を指摘した。俺には真否はわからん。俺は、その客が不味い酒を飲みたがっていた理由を知りたい。その医者が――案じていたんだ。味覚障害は つらい病気だと。そうではなかったと、医者に報告できれば 有難い」
「……」

温厚で善良そうな面差しに 悪意を見え隠れさせている奇妙な紳士は、氷河が提供した“面白い話”に 明らかに動揺していた。
“不味い酒を飲みたかった理由”は告げず、かといって、“不味い酒が飲みたかった”ことを否定することもせず――どこか慌てた様子で、彼は 氷河が出した不味いミント・ジュレップを 先日同様 律儀にすべて飲み干した。
そのまま、嫌味の一つ、捨てゼリフの一つも残さず、店を出ていく。
店に入ってきた時には 感じ取ろうとしなくても感じ取れていた彼の悪意は、彼が一杯のミント・ジュレップを飲み終えるまでの間に すっかり消え去ってしまっていた。

彼の悪意が消えた理由が、“彼が不味い酒を飲みたがっていたことを バーテンダーに看破されたから”だったとは、氷河には思えなかったのである。
では、いったいなぜ。
氷河は、たった今 自分が彼に語った“面白い話”の内容を反芻し、途轍もなく嫌な予感を覚えることになったのだった。






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