「こんばんは」
その夜、その時、氷河の店にいた客たちは全員が初見の客ではなかった――全員が 一度は この店で瞬の姿を見たことのある程度には 常連の客ばかりだった。
そして、氷河の店は、客からの要望がない限り、音楽の類は流さない。
酒井氏と馬殿氏は 決して大きな声で話をしていたわけではなかったのだが、その会話の内容は 店にいる客全員に聞こえていた。
盗み聞きの趣味はなくても、自分が美味いと感じる酒を 不味いと断じる人物の考えは気になるもの。
酒の味がわかる人間が もっと美味な酒があるという意味で『不味い』と言ったのか、あるいは それは 酒の味が わからない人間の言いがかりなのか。
そういったことを気にする客が、その夜は揃っていたのだ。
服田女史のように、氷河や瞬個人に興味を抱いている客もいた。
その客たちは、だから、いつもなら 気持ちが凪ぐ瞬の やわらかい声を聞き、その姿を見て、尋常ならざる緊張を強いられることになったのである。
彼等は もちろん、馬殿氏の瞬への感謝の気持ちを恋と決めつけていた。
当然である。
酒井氏が言うように、美味い酒が飲めるバーには ロマンスの香りが よく似合う――のだ。

テーブル席に移動していた馬殿氏が、瞬の来店に気付くと、いたたまれないような様子で 顔を背け、 そんな馬殿氏を 氷河が一瞥、氷河の一瞬の視線の流れを瞬が見逃すはずはなく、瞬は氷河の視線の先にいる人物に気付いた。
「馬殿さん?」
20人ほどで満席になる店のフロアで、瞬が馬殿氏の存在に気付かずにいることは そもそも無理なことだったろうが、瞬に見付かってしまった馬殿氏は、やはり少し――否、かなり――気まずそうな顔になった。
「瞬先生……」
「知っているのか」
氷河としては、(馬殿氏のために)馬殿氏の話が聞こえていなかった振りをして、瞬に尋ねないわけにはいかなかった。
瞬が暫時 迷ったような素振りを見せてから、
「僕の患者さん」
と言って、氷河に頷く。

「おまえの? 病人なのか」
「1年半ほど前に 僕の病院にいらして、しばらく入院していただいたの。今も月に1度、予後の健診は続けてもらってるけど、もう現場に復帰してらっしゃると――」
「現場?」
瞬が暫時 迷う素振りを見せたのは、そこで氷河に答えることが医者の守秘義務に反する可能性を案じたのではなく、彼が ここにいる理由を あれこれ考えたせい――酒井氏と同じことを考えたせいだったらしい。
瞬は、
「お忍びですか」
と馬殿氏に尋ね、彼が横に首を振るのを確かめてから、気を安んじたように肩から力を抜いた。
そして、氷河の方に向き直る。

「馬殿さんは、氷河の同業者で、僕の同業者だよ。3年前まで、Tホテルのオールド・インペリアルバーのチーフバーテンダーさんだったの。日本ホテルバーメンズ協会の副会長さんを務めてらしたこともある、氷河の大先輩」
「なに……?」
酒井氏と馬殿氏の会話から、馬殿氏がバーテンダーらしいことは わかっていたが、その詳しい経歴については二人は語っていなかった。
氷河が ぴくりと片眉を微動させる。
その様を見て、瞬は誤解したようだった。

ホテルのバーと街場のバーはあまり 反りがよくない。
今は さほどでもないが、戦前 美味い酒を飲み慣れた裕福な外国人旅行者を主な客として発展してきたホテルのバーと、焼け野原から すべてを失った日本人を主な客として発展してきた街場のバーとでは、バーテンダーの立ち位置と格が違うのだ。
今でも、ホテルのバーに勤めていたバーテンダーが 街場にバーを開いたり、街場のバーに勤め始めることを『街場に下りる』と言うほどである。
ホテルのバーのバーテンダーは、上質の客に上等の酒を提供してきたという自負があり、街場のバーのバーテンダーには、質の劣る酒を美味い酒として客に供するために工夫と苦心を重ねてきたという自負がある。
まして氷河は、権威を嫌い、バーテンダー協会にも属さず、一匹狼として 自分の店を営んでいる男。
同じ仕事に就いている者同士であっても、和気あいあいと親しみ合うわけにはいかないのが、ホテルのバーのバーテンダーと 街場のバーのバーテンダーなのだ。

馬殿氏の権威や経験に 氷河が引け目を感じたり 物怖じしたりすることはないだろうが、不快に思うことはあるかもしれないと、瞬は それを案じたようだった。
もちろん、氷河が、自分の感じた不快を いちいち態度や表情に出すほど親切で律儀な男でないことは、瞬も承知していただろうが。
そして、馬殿氏が 自身の経歴や経験を ひけらかすような人物でないことも、瞬は承知していたのだろう。
実際 馬殿氏は、良識ある大人の対応をしてくれた。
彼は、瞬はもちろん氷河に対しても驕った態度は見せず、掛けていた椅子から立ち上がって、丁寧に瞬に一礼した。

「すべて、瞬先生のおかげです。あのまま 間違った治療を続けていたら、私は二度と仕事には戻れなかった。今頃は、夢も希望もなくして、自分の命を絶っていたことでしょう」
それは大袈裟な誇張でも何でもなく――実際に その可能性があったのだろう。
馬殿氏の感謝の言葉を大仰に退けることなく、瞬は やわらかく微笑んで、
「お元気になられて、本当によかった」
と、馬殿氏に告げた。

「それで、おまえの同業者とは どういうことだ」
氷河に問われた瞬が、医師らしく 優しく温かだった微笑を、いたずらっぽい笑みに変える。
「馬殿さんはね。カウンターを挟んで、ずっと人の相手をし続けることがバーテンダーの仕事で、それは お酒を飲みにやってくる お客様の心に向き合い、その心を癒す 医者のようなものだという お考えで、ずっとバーテンダーのお仕事をしてらしたの。お酒は そのための薬で、バーの客とバーテンダーをつなぐもやい。だから、人を好きでないと、バーテンダーの仕事は務まらないとも おっしゃってた。氷河みたいに無愛想なバーテンダーは、落第点をつけられちゃうよ」
「――」

瞬に楽しそうに そう言われて 氷河が黙り込んだのは、輝かしい経歴の持ち主に落第点をつけられることを 恐れたからではなかった。
そうではなく――そんな考えでいるバーテンダーが、不味い酒を求めるほど――馬殿氏ふうに言うなら、“効かない薬”、“病を悪化させるような薬”を求めるほど――その心を乱していたこと。
そんな彼の心が察するに余りあるものだったから。
命をかけた戦いを共に戦ってきた瞬が、自分の知らないところで、戦いの“た”の字も知らないような若造と親しくしていることを知らされたら、自分は その男を殺すことまではしないが、『死ねばいい』くらいのことは思うだろう。
氷河には 馬殿氏の心を察することが、容易すぎるほど容易だったのだ。

勘がいいのか悪いのか――瞬は、氷河が前日 言っていた奇妙な客の正体に気付いたようだった。
「もしかして、不味い お酒を飲みたがった お客様っていうのは、馬殿さんだったの?」
『なぜ?』と瞬に問われたら、馬殿氏は返答に窮する。
最悪の場合、馬殿氏の感謝の気持ち――彼の恋――が、悪質な癌細胞や凶悪なウイルスのように“よくないもの”と見なされてしまう。
おそらく そう考えたのだろう。
馬殿氏の代わりに口を開いたのは、酒井氏だった。

「馬殿さんは、瞬さんに深く感謝して、ぜひ恩返しをしたいと思っていたんですよ。自分の作ったお酒を 瞬さんに振舞うことで。ですが、瞬さんは お酒が飲めない。それでずっと 瞬さんに恩返しすることを諦めていたんだそうです。ところが、お酒が飲めないはずの瞬さんが、バーに通っていると聞いた。自分のバーには来てくれないのに、他の店には通っている。それで 敵情視察に来てみたら、その店のバーテンダーは、男も羨むほどの いい男だった。瞬さんに恋していた馬殿さんは 瞬さんが面食いだったことに大変なショックを受けて、氷河くんを いじめたくなったのだそうです。今、氷河くんを 本気で やり込めたいのなら、不味い酒を作ることを要求するより、馬殿さんが作る美味を彼に味わわせてやる方が ずっと効果的だと、説得していたところです」

にこやかに そう告げた酒井氏の“恋”を、瞬は いわゆる大人の洒落たジョークだと思ったのだろう。
酒井氏は いかにも洒脱な大人のジョークを言いそうな粋でスマートな紳士だったし、瞬は呆れるほど 驕りや うぬぼれというものを持っていない人間で、自分が不特定多数の人間に好意を抱かれる可能性になど 思いを至らせることのない人間だった。
「面食いだなんて、僕は そんなんじゃないですよ。面食いだったら 誰だって、馬殿さんの優しい面立ちの方に惹かれるに決まっています。氷河の容貌は そういう言葉で語れるような次元のものじゃないですし――。氷河は僕の幼馴染みなんです。本当に小さな子供の頃からの付き合いで――僕は カクテルはジュースレベルのものしか飲めないので、氷河は不満たらたらみたいだけど……。でも、どんなカクテルでも、僕バージョンを作ってくれて、僕、氷河の作るものなら 何とか飲めるようになってきたんです。そんなレベルの客では、馬殿さんを失望させるだけだろうと――」
恋かもしれない。
恋ではないかもしれない。
それは馬殿氏自身にも わかっていないことなのかもしれなかった。

服田女史が、
「なんだ。やっぱり、私の舌は優秀だったんじゃないの。それも、かなり!」
と、店内に大声を響かせたのは、馬殿氏のご招待を受けられなかった理由を 多くの言葉を費やして――つまりは、言い訳がましく――語る瞬を見詰める馬殿氏の眼差しが あまりに切なげで 見ていられなくなったから――のようだった。
「なぜ、そういう結論になるんだ」
口をきかずにいられるのなら 極力そうしていたい氷河が、あえて服田女史に突っ込みを入れたのは、彼が服田女史と同じ思いを抱いたから。
それが恋か恋でないのかは どうでもよかった。
氷河は ただ、理性と分別を持ち合わせている大人が、初恋の少女を見詰める少年のような目で 瞬を見詰めている その場面が不快――否、そんな場面を見ていたくなかったのだ。
服田女史が、そんなこともわからないのかと言わんばかりの目を、氷河に向ける。

「だって、そうでしょ。言っちゃ何だけど、こんな小さな店に、Tホテルのオールド・インペリアルバーのチーフバーテンダーと、日本で三指に入る洋酒メーカーの会長さんが揃ってるなんて、すごいことよ。その店が 私の行きつけのバーだってことは、私の舌が 素晴らしく優秀ってことよね」
「日本で三指に入る洋酒メーカーの会長? 何だ、それは」
氷河が服田女史に問うと、彼女は、
「やっぱり知らなかったのね」
と呆れたように言い、酒井氏は、
「私は、このバーで、名前はともかく、そういったことを口にしたことはなかったはずですが」
と言って、困惑の目を服田女史に向けた。
酒井氏が そんな野暮なことをするような人間でないことは、服田女史は――氷河も――承知していた。
そんな野暮をするのは服田女史とて不本意なこと。
服田女史は、この店の客にヒエラルキーを築きたいのではなく、あくまでも自分の舌の優秀さを確信するために酒井氏の権威を利用させてもらおうという心積もりでいたらしい。

「酒井さんが ご自分から名乗らなくても、普通は知ってますよ。スターリカー社の創業者にして 現会長。立志伝中の人物として、何度も 雑誌やテレビで お顔を拝見しましたもの。でも、言えなかったの。この店、酒井さんの会社のウィスキーを使ってないから」
「ははははは」
服田女史の思い遣りに、酒井氏が 明朗な笑い声を響かせる。
その声は、馬殿氏の恋の行方を固唾を呑んで見守っていた他の客たちの緊張を和らげた。
この店の主にとって瞬が特別な存在であることを知っていた彼等は、基本的に無表情で無愛想で無感動な氷河が、(恋敵かもしれない)馬殿氏に無慈悲なことをするのではないかと、それを恐れていたのだ。

だが、まだ油断はならない。
服田女史が、
「Tホテルのオールド・インペリアルバーのチーフバーテンダーってことは、馬殿さんは この世界の第一人者ってことよね。氷河とは全く違うタイプのカクテルを作りそう。ぜひとも飲み比べてみたいところだけど、さすがにそれは無理かしら……」
そう言って ちらりと氷河に意味ありげな視線を投げたのは、彼女と この店にいる客たちが 完全に安心できるようになるため。
馬殿氏の恋の件を、氷河に忘れさせるためだった。
服田女史は本当に 氷河と馬殿氏のカクテルの飲み比べができると考えていたわけではなかったのである。
であればこそ、氷河の、
「構わんが」
という答えに、服田女史は驚いたのである。
驚いたのは、服田女史だけではなく、他の客たちも瞬も同様だった。

「氷河、カウンターは俺の聖域だって言って、僕にも入ることを許してくれないのに……」
「おまえを入れるわけにはいかん。俺の大事な酒たちを皆 甘く変えられてしまったら、俺は商売ができなくなる」
その言葉通り、この店のカウンターは、氷河の大事な酒が置かれている彼の聖域である。
氷河の店では、客より酒の方が地位も身分も上だった。
酒を劣化させないために、冬場は暖房の温度も抑えてある――人間が快いと感じる温度ではなく、酒の保存に最適な温度が設定されているほど。
その聖域に 自分以外の人間が入ることを 氷河が許すなど、あり得ないことだった。
ぽかんとしている瞬に、氷河は瞬時 ためらってから、低い声で語り始めた。






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