侍従長の不安は的中しました。
氷河王子は、瞬を失って、自暴自棄になってしまったのでしょうか。
突然、
「他国を侵略して国土を拡大するために、南方遠征に出る。他国の者を我が国の奴隷にして、国民の苦役はみな、奴隷たちに従事させるんだ。すべては、我が国の益のため、俺の愛しい国民のためだ」
などということを言い出したのです。
「出立は春。雪が消えるのを待って、春分の朝に発つ。ただちに志願兵を募れ。18歳から35歳までの健康な男子を、とりあえず10万」
軍務大臣が そんなことは不可能だと言えば、不可能を可能にする方策を提示して、軍務大臣を論破し、産業大臣が 春に男手を奪われたら農作業が立ち行かなくなると言えば、女子供や老人で男手不足を補える論拠を述べ立てて、産業大臣を退け――へたに為政者としての知識があるせいで、誰も氷河王子の計画の無謀を無謀と説き伏せることができないのです。

止められるのは瞬しかいない――と、その場にいた氷河王子の家臣たちの誰もが思いました。
けれど瞬は天に昇ったか、地に潜ったか――国中に捜索の手をのばしても、彼等は瞬を見付け出すことはできませんでした。
そうしている間にも、氷河は着々と南征の準備を進めていきます。
強制的な徴兵ではないのだから とても集まるまいという軍務大臣の目論みは外れました。
氷河王子のそれまでの善政(?)が ものを言ったのか、氷河王子が『兵士募集』の おふれを出しますと、国中から若い男たちが 続々と都に集まってきたのです。
彼等の ほとんどは氷河王子が何を計画しているのか、正確なところは何も知らず、英邁で慈悲深い王子様が都に来いと言っているのだから来た――という、ある意味、実に のんきな青年たちでした。

彼等の宿舎と食料確保をするのに、総理大臣と産業大臣と厚生大臣は右往左往。
これ以上、たった一人でも都の人口が増えたら、翌日から餓死者が出始めるだろうという日の午後。
最後の一人として都に入ってきたのは瞬でした。
氷河王子の家臣たちが、神の救いの手を見る思いで、瞬をお城に――氷河王子の許に連れていったのは言うまでもありません。

「やっと来たか」
一ヶ月振りに瞬の姿を見て、氷河王子は にこりともせず――かといって腹を立てているようでもありませんでしたが――平然と 短く そう言いました。
瞬は、けれど、氷河王子のように落ち着いてはいられなかったのです。
「み……南の国に、氷河の国が侵略計画を立てているっていう噂が流れてきて、ぼ……僕、慌てて――」
「よほど 慌てたらしいな。顔も髪も服も靴も 埃だらけ。せっかくの可愛い顔が台無しだ」
「氷河っ。僕は、氷河に こんなことをしてほしくて、身を切られる思いで 氷河の許を去ったんじゃないよっ!」
「ああ。おまえが聞いた噂は おまえを 呼び戻すために流した嘘の噂だ。これくらいのことをしなければ、おまえは俺の許に戻ってきてくれないと思ったんでな」
都を こんな窮地に追い込んでおいて、氷河が しれっとした顔で言ってのけます。

「う……嘘?」
僕を呼び戻すためだけに こんなことをしたのかと、瞬は氷河王子を責めようとしたのです。
けれど、瞬が そうする前に、瞬の身体は氷河王子の腕と胸にしっかりと抱きしめられていました。
氷河王子に抱きしめられて、瞬は何も言えなくなってしまったのです。
瞬は、望んで氷河王子の側を去ったのではありませんでしたから。
できることなら いつまでも、瞬は氷河に抱きしめていてほしかったのですから。
「俺の側にいてくれ」
「氷河……でも、それは――」
「俺は俺の価値観を変えることはできない。俺は、どうしてもどうしても、俺が愛する人のためにしか生きられない。その人のためでなれば、何もする気になれない。喜びも感じることができない」
「氷河……」
「一国の王子というのは、国民のために生き、国民のために働くべきだというのなら、俺にはそれはできない。俺はおまえのためだけに生きたい」
「氷河。王子様が そんなんじゃ駄目なんだよ」

どうして氷河は わかってくれないのか。
いいえ、氷河に それがわかっていないはずはないのに、どうして わかっていない振りをするのか――。
身を切られる思いで 氷河の許を去った、あの時の苦しみ、悲しみ。
それを氷河は無に帰せというのか――。
瞬は、泣きたい気持ちになりました。
けれど、氷河王子は、瞬の気持ちがわかっていないわけでも、わかっていない振りをしているわけでもなかったのです。
そうではなかったようでした。
『王子様が そんなんじゃ駄目なんだよ』
氷河王子は、瞬の その言葉に浅く素直に頷きました。

「俺もそう思う」
「えっ」
「そこで、おまえに提案があるんだが」
「提案?」
「おまえ、俺の代わりに、この国の王子になれ。俺は、王子の身分を捨てて、おまえの家臣になる。ただ一人の人のために生きることが許される身分になる。おまえは この国の王子として 国の民のことを考え、俺は そんなおまえの手足となって、おまえのために務める」
「は?」
「王子というのは、おまえのように、民のために生きたい者がなるべきだ」
「氷河……そんなこと、できるわけが――」
「できる。王や皇帝が 自分の血縁ではなく有徳の士に地位を譲る、いわゆる禅譲というやつだな。過去に例はいくらでもある」

氷河王子は急に いったい何を言い出したのでしょう。
氷河王子の目が真剣そのもので、少しも笑っていないので、瞬は恐くなってしまいました。
「そんなこと、できるわけないでしょう! 僕には、氷河みたいに国の為政者としての知識も判断力も行動力も何もないんだから!」
「それは、俺が、おまえの家臣として おまえに提供する。知識や行動力がなくても、おまえには一国の王子に ふさわしい心がある」
氷河王子は本気のようでした。
本気で、この国の王子の地位を瞬に譲るつもりでいるようでした。
あまりのことに、暫時――いいえ、かなり長い間――ぽかんとしていた瞬は、やがて はっと我にかえり、そして、氷河王子の家臣たちの方を振り返ったのです。

「何とか言ってください、皆さん!」
氷河が 人に何か言われて聞く耳を持っている人間なら、家臣たちも“何とか言って”いたでしょう。
けれど、彼等には、氷河王子には何を言っても無駄だということが わかっていましたからね。
そして、彼等は、今は とにかく、氷河王子の南征計画を取りやめさせ、都の食糧不足をどうにかすることこそが急務だったのです。
つまり、氷河王子の家臣たちは、氷河王子の提案を受け入れてしまったのです。
「氷河王子様が そうしたいのなら、我等は従うまでです」
「瞬さん――いいえ、瞬様なら、誰よりも国民の幸福を願う、立派な王子様になられることでしょう」
と言って。

「そんな、無理……」
半分 泣いているような瞬の声を、皆は聞こえていない振りをしました。
「さて。瞬王子様の最初の仕事は 都に集まった志願兵たちの対応ということになるわけだが、民の役に立ちたい おまえならどうする? どんな命令でも、俺が遂行してやるぞ」
にこやかに、瞬王子に命令を求める氷河王子 改め 瞬王子の家臣の氷河。
『この国のために、氷河王子 改め ただの氷河に逆らわないでくれ』と、無言で、その視線で訴えてくる、元氷河王子の家臣たち。
瞬は、もはや 折れるしかなかったのです。


ただの瞬 改め 瞬王子は、泣く泣く(?)、都に集まっていた志願兵たちを 可能な限り迅速に都から退去させるための仕事に取りかかりました。
彼等を招集したのは 禅譲の告知と青年たちの健康診断をするためだったことにして、希望者には 都の外で計画中だった灌漑工事の仕事と賃金を与え、意欲のあるものには 都の学校に入学する許可を与え、家族の許に帰る者たちには 薬草の苗や それぞれの地方に向いた穀物の種を 土産として持たせ、誰にも不満が残らないように。
その手配を、氷河は その宣言通り、持ち前の手腕で見事に遂行してのけたのです。

最初は、英邁で慈悲深い王子様が なぜ禅譲などということをしなければならないのかと訝っていた民たちも、氷河と瞬王子が並んで 民のために務めている姿を見ると、それだけで納得してくれました。
王子様の心を持った瞬と、王子様の能力を持った氷河。
二人は、いかにも二人が あるべき場所にあるように、互いの傍らにありましたから。
そうして、二人は二人三脚で、互いに支え合い、仲良く平和に豊かに 二人の国を治めていったのです。


一人で成し遂げようとすると どこかに無理が生じることも、二人でやれば どうにかなるものです。
神様は、だから 人間を不完全なものとして創ったのかもしれません。
自分に欠けているものを 他者の力で補い、互いに支え合って生きていけるように。
そして、だから きっと、神様は 人間を一人だけでは生きていけないものに創ったのでしょう。
人間が 互いに愛し合うことで、幸福になれるように。






Fin.






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