「結局、戦うことも、勝つことも、おまえは おまえの力で成し遂げて、俺は おまえのために何をしてやることもできないんだな。俺は いつまで経っても、弱く、愚かだ」
その上、ずっと その事実に気付かずにいたのだから、救いようがない。
やっと自分に腹を立てる余裕を持つことができるようになった氷河は、瞬の身体――瞬のものに戻った瞬の身体――を抱き起し、瞬に謝罪した。
「すまん」
そんなことをするつもりはなかったとはいえ、結果的に 氷河が瞬にしたことは、恋を仕掛けるだけ仕掛けて すべてを放り出すという、人として 不実極まりない行為だったのだ。

「氷河は、すぐ諦めてしまう僕の中に、戦うための力を生ませてくれるよ」
「瞬……」
瞬が そう言ってくれるのは、白鳥座の聖闘士が自分自身を責めることがないようにするためである。
でなければ、瞬は『それくらい、白鳥座の聖闘士は面倒で 手がかかる』と言っているのだ。
事実なだけに、弁明もできない。
沈黙した氷河に困ったように、瞬は微笑を作った。
「僕、自分のために こんなの怒ったのは、生まれて初めてだったかもしれない」
「自分のため?」

氷河は、瞬の その言葉を 言葉通りに受け入れることができなかった。
ハーデスと白鳥座の聖闘士の取り引きで最も傷付いたのは、確かに瞬だったろうが――傷付いたのは、瞬一人だけだったろうが――瞬が本気で怒ったのは、“いちばん 大切なもの”を奪われたのが自分以外の人間だったからで、その内容が たまたま瞬に関わるものだっただけのことにすぎない。
氷河が瞬への恋を自覚する前――氷河の“いちばん 大切なもの”が母との思い出だった頃に、氷河がハーデスにそれを奪われていたなら、瞬はやはり 白鳥座の聖闘士のために本気で怒っていただろう。
瞬は、白鳥座の聖闘士が 自分自身を責めることがないように、わざと そんなことを言ってくれているのだ。
それが わからないほど、氷河は――今の氷河は――愚かな男ではなかった。
どうしても自分を責めずにいられないでいる氷河を見て、瞬が 一度だけ ゆっくりと瞬きをする。
瞬は、氷河の自責をやめさせるには、自分が氷河を責めてやるしかないのだと悟ったようだった。

「聖域での戦いが終わっても、氷河が何も言ってくれないから、僕は、氷河は僕と あんな約束をしたことを後悔しているのだと――僕を嫌いになってしまったのだと思った。だから、氷河は僕を慇懃に無視しているのだと、僕は思った」
「そんなことがあるはずがないだろう……!」
やっと自分を弁護できる。
『そんなことがあるはずがないだろう』――その一言を吐き出すだけで、氷河の心は随分と軽くなった。
その一言を言わせてくれた瞬に、感謝の気持ちが湧いてくる。
こういう時、氷河は、瞬の賢明と聡明は 瞬の優しさが生むものなのだと思うのだった。
だから、この人を、好きにならずにいられないのだと。

「氷河が 僕のために あんなことをしてくれていたなんて知らなかったから、僕は ずっと悲しかった。何も知らずに、ごめんなさい」
「どうして 俺が おまえに あんなことをしたのか、教えてやる。約束より かなり――遅くなってしまったが」
ここがどこで、今が どういう時なのかを、氷河は決して忘れていたわけではなかった。
微かにではあったが、一応 ちゃんと認識していた。
だが、『この戦いが終わったら』などと言って悠長に構えていると ろくなことにならないということを、氷河は たった今 学習したばかりだったのである。
だから、氷河は 今すぐ ここで――聖戦のクライマックス、冥界のど真ん中、背後に瞬の兄や仲間たちがいる状況を承知の上で、瞬に そう告げた。

それまで(おそらくは 瞬のために)モブキャラに徹していた紫龍が、さすがに これ以上 白鳥座の聖闘士の好き勝手を許していられなくなったのか、わざとらしく氷河の肩を軽く叩く。
「氷河。おまえの言う“あんなこと”が どんなことなのかは知らんが、その前に、俺たちアテナの聖闘士たちには 為すべきことがあるのではないか。ハーデスの魂がどこかに向かった。あれを 真に消滅させなければ、地上の平和と安寧は守られない」
「貴様、今 すぐ ここで死んだ方がいいほど 不粋な男だな」
ハーデスの生死と 瞬の優しさに報いることの どちらが より重要なことなのか。
龍座の聖闘士には そんなこともわからないのかと いうように むっとして、氷河は紫龍を睨みつけた。
が、紫龍には 紫龍の都合というものがあったらしい。
彼は、不粋の汚名を甘んじて受け入れてみせた。

「不粋でも何でも――今のおまえは、地上の平和を守るアテナの聖闘士としての役目を果たすことを優先させるべきなんだ。でないと、おまえはハーデスとの決戦を前に、一輝と戦わなければならなくなる」
「む……」
紫龍の目配せを受けて 背後を振り返ると、そこには ハーデスの傲慢の100倍ほど激しい怒りの小宇宙を燃やしている一輝の姿があった。
瞬の兄との戦いに比べたら、ハーデスとの聖戦など 些細なアクシデントにすぎないと断言できるほど―― 一輝が恐るべき強敵だということは わかっていたのだが、それすらも 瞬の優しさの前には 春の夜の塵レベル。
氷河は あえて、紫龍の忠告を無視した。

「俺はアテナの聖闘士である前に、一人の人間の男なんだ」
白鳥座の聖闘士の決意を見てとった星矢が、
「瞬〜っ!」
悲痛な雄叫びをあげて、瞬に泣きつく。
優しく賢明で聡明な瞬は、すぐに自分の為すべきことが何であるのかを理解し、速やかに 自分が為すべきことを為した。

「氷河」
瞬が 氷河の唇に、自分の唇で触れる。
そうしてから、氷河に支えられていた身体を起こし、自らの足で その場に立つと、瞬は氷河に右の手を差しのべ、にこやかに告げたのである。
「どうして 僕が氷河に こんなことをするのか、この戦いが終わったら教えてあげるね」
一輝の憤怒の小宇宙が、今にも爆発しそうになる。

広大無辺の冥界を覆い尽くそうかという勢いで燃え盛る一輝の小宇宙を、氷河は なぜ無視してしまえるのか。
それが、星矢と紫龍には さっぱり わからなかったのだが、氷河が一輝の憤怒の小宇宙を、いっそ 爽やかといっていいほど あっさりと無視してのけたのは、紛う方なき事実なのだから仕様がない。
瞬に 優しく微笑まれた氷河は、他のすべて――これまでに起こった すべてのことを、瞬時に忘れてしまったようだった。

「よし。ハーデスを追うぞ! そして、一刻も早く、奴を倒す。星矢、紫龍、一輝、おまえ等、何をぐずぐずしているんだ!」
「氷河、おまえなー……」
そんなセリフを、白鳥座の聖闘士が どのツラ下げて口にするのか。
そう思った星矢、紫龍、一輝は、すぐに 問題の“氷河のツラ”に視線を投じたのだが、氷河のツラは 完全に真剣で、完璧に真面目で、しかも 本気そのものだった。
彼の仲間たちは、氷河に文句を言う気力を奮い起こすことさえできなかったのである。

氷河の戦い方と戦いの動機は、だが、間違いなく正しい。
人は、自分が幸福になるために――つまりは、自分の愛する人を幸福にするために――命をかけて、あらゆる試練に立ち向かうのだ。
その真実を、まさに全身全霊かつ全力で悟ったばかりの男に、ただの常識人が逆らえるわけがない。
恋に逸って駆け出した白鳥座の聖闘士のあとを、星矢たちは慌てて追いかけたのである。
その先に待つものが、氷河の恋の成就という勝利なのだと思うと、星矢たちの足取りは、どうしても重くならざるを得なかったのであるが。






Fin.






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