明日の外来診療は午後からになる。 今夜は 多少 帰宅が遅くなっても、あるいは 朝まで氷河と一緒にいても、明日の仕事に支障は出ないだろう。 氷河の店の閉店時間は あってないようなもので、深夜0時以降、最後の客が帰るまで。 ねばる客がいなければいいのだが――と願いながら、瞬が氷河の店のドアを開けたのは、夜の10時半を数分 過ぎた頃だった。 20席ほどある席は7割方、埋まっている。 愛想というものを全く持ち合わせていないバーテンダーが仕切っている店では、客たちは それぞれのスタイルで、バーという空間にいる自分というものを楽しんでいるようだった。 しみじみした様子で酒を味わっている者、本を読んでいる者、カウンターの酒棚に並んでいる酒の壜を眺めるともなく眺めている者、連れがいる者は 連れと酒談義をしている。 普通のバーは どうなのか知らなかったが――氷河のバーが“普通”なのかどうかも、瞬は知らなかった――不思議なことにモバイル機器の類をいじっている者はいない。 今時の飲食店で これは珍しいことなのではないかと、瞬は思った。 客の半数以上は 見知った顔である。 バーに来る人間というものは、好みの店を見付けると、そこを自分の“行きつけ”にするのが好きらしく、氷河のバーは同じ客との再会率が極めて高かった。 客の話し相手になろうともしないバーテンダーでも構わないと思うほど 氷河の提供する酒が美味なのか、むしろ 世の喧騒の外に我が身を置きたいと考える人間が好む雰囲気があるのか、氷河の店は、俗に言う“お一人様”の常連客が多い。 もちろん 店を選んでいるのは客の方なのだろうが、氷河の店は バーテンダーも客を選んでいると思える節があった。 氷河は、彼にとって不快な客には、無愛想を通り越して 積極的に冷淡に振舞い、客が不快を覚えるように仕向け、無言のうちに その客の再度の来店を拒むのだ。 氷河の睥睨に出会ったら、大抵の人間は震えあがって、再び この店のドアを開ける勇気は持てないだろう。 この店の酒が気に入り、この店で酒を飲みたいと思うのなら、その客は 氷河に気に入られる必要があった。 とはいえ、客商売。 『迷惑行為をせず、うるさすぎず、馬鹿でない客は、極力 受け入れる方針でいるぞ』と、氷河は いつも言い訳のように瞬に言っていた。 一度、何を間違ったのか、かなり泥酔した客がやってきて 店内に支離滅裂な大声を響かせている場面に出くわしたことがあるが、氷河は 見事に無表情で(迷惑顔も作らず)一言も言葉を発することなく、その男を店の外に摘み出した。 泥酔客は 氷河に向かって 何かわめこうとして、だが、氷河の睥睨に出会い、きゃんきゃんと鳴くこともせず逃げていった。 人事不省になるほど酔った客も、一瞬で 酔いが吹き飛ぶほどの氷河の冷淡。 あの酔客は、これから しばらく 人と接することに恐怖感を抱くことになるのではないかと、瞬は彼に同情してしまったのである。 そういうわけで、氷河の店は 静かな客が多い――より正確に言うと、必要な時には沈黙を守り、静寂を作ることのできる客が多かった。 『行く』と言っていたわけではないが、ドアを開ける前から、氷河は瞬の気配に気付いていたのだろう。 店の入り口に瞬の姿を認めた氷河は、瞬でなければ わからないほど ごく薄い微笑を、瞬に向けてきた。 氷河に微笑を返して、瞬は、今夜は どの席に落ち着こうかと、店内を見まわしたのである。 席に余裕があるなら、氷河との会話をスムーズに行なえるカウンター席に着きたい。 だが、カウンター席は 他の客に譲りたい――とも思う。 今夜の込み具合いは、実に微妙だった。 5つある二人掛けのテーブル席は3つが埋まっていて、10席あるカウンター席の空きは2つ。 どうしたものかと迷ったのは一瞬。 いちばん奥のテーブル席に着いている客に気付き、瞬は反射的に 店の外に出るべく、身体の向きを反転させていた。 瞬の その振舞いを 氷河は訝ったようだったが、彼は 声に出して瞬を引き止めようとはしなかった。 カウンター席に着いていた 顔馴染みの女性客が、氷河の代わりに(?)、店を出る態勢に入った瞬を呼び止めてくる。 「瞬せんせ。なに、なに、何なの。それって、どういう態度?」 おそらく、氷河の店の常連の中で 最もにぎやかな客。 氷河の許容のボーダーラインの まさに線上にいる彼女の来店を 氷河が許しているのは、彼女が にぎやかになるのは、その必要がある時だけだから。 そして、その にぎやかさが重宝することが多いから。 ――そう、瞬は察していた。 にぎやかな、その彼女が、腰掛けていた席から立ち上がり、ドアを外に向かって開けようとしていた瞬を店内に引き戻す。 おそらく、氷河がそうしたかったことを、彼女はした。 もちろん、氷河が それを望んでいることを承知の上で。 彼女の気の利いた振舞いに、胸中では困惑しつつ、氷河が彼女を自分の店の常連客として受け入れているのは当然のことだと、瞬は改めて思ったのである。 「バーテンダーの無愛想を我慢して、私がこの店に通っているのは、第一に、氷河が出してくれる お酒がおいしいから。第二に、無愛想を補って余りあるバーテンダーの美貌を鑑賞するため。第三に、運がよければ 瞬せんせに会えるからなのよ。そうして、私は 目の保養をして、心を豊かにするの。せっかく その三つの条件が揃ったのに、瞬せんせったら、私に肩すかしを食わせるつもりなの」 彼女は、10代の頃から雑誌やショーのモデルをしていたという経歴も さもありなんと納得できる、顔立ちの はっきりした姿勢のいい女性だった。 25歳の時にモデルを続けることに限界を感じ、服を着せられる側から 服を作る側に転身するための勉強を開始。 30でモデルクラブを出て、服飾デザイナーとして独立。 現在は ささやかな個人事業主にすぎないが、いずれは知らぬ者のいないブランドを確立する予定――とのこと。 計画性・実行力に恵まれ、独立心旺盛な彼女は、人見知りというものを全くせず、遠慮・物怖じという単語を 自分の辞書から排斥している女性だった。 出しゃばりといっていい自分の性格が、氷河の好みでないこと、瞬とは正反対であることを自覚していて、引き際の判断も的確。 どこまで本気なのかは、瞬には判断できなかったが、やたらと瞬を自分の作品のモデルに起用したがることだけが困りもの――というひと。 彼女が軽い口調で、だが 探るように、 「まさか、私がいるから逃げようとしたんじゃないわよね?」 と、瞬に問うてくる。 瞬は、彼女の懸念を すぐに否定した。 「違います。服田さんじゃなく――」 「私じゃない、別の誰かから逃げようとしたの?」 服田女史は、ちょっとした失言も聞き逃さず、言葉の微妙なニュアンスも鋭敏に正確に読み取る。 服田女史に 鋭く突っ込まれた瞬は、彼女の追求を逃れることは無理そうだと判断、もはや観念するしかないと思うことになったのだった。 「いえ、あの、ちょっと……」 口ごもりながら、“別の誰か”に ちらりと視線を投げる。 さほど広くない店の いちばん奥の二人用テーブル席にいる、長い黒髪の女性。 それが、瞬に この場からの逃亡を計らせた“別の誰か”だった。 「あの子がどうかしたの」 服田女史が、声をひそめて瞬に尋ねてくる。 服田女史が、“別の誰か”を『あの子』呼ばわりしたのは、“あの子”が飲酒の許されるようになってから2、3年が過ぎたばかりの年齢に見えたからだったろう。 30を超えている服田女史には、十分に“あの子”呼ばわりしていい相手なのだ。 二人用のテーブルといっても、何からの作業をするためのものではないので、さほど大きいものではない。 “あの子”は、そのテーブルにB5サイズの本を広げ、それを熱心に読んでいた。 装丁の しっかりした市販のものではない本。 その本に、時折 手にしたペンで 何やら書き込みを入れている。 連れがいるわけでもないのにカウンター席ではなくテーブル席に着いているのは、おそらく、テーブルごとに設置されている照明目当て。 そして、読んでいる本を 隣りの席の客に覗き込まれる事態を避けたいから――のようだった。 「今夜が初めてじゃないわね。先週も見掛けたわ。やっぱり あの席に着いて、本を読んでた。何者? 瞬せんせが恐れを成して逃げ出さなきゃならないような子なの?」 服田女史が、大いに興味をそそられた様子で、その視線を“あの子”の上に据える。 何と答えたものかを迷い、適切な答えを思いつけず、瞬は結局 服田女史に倣って 視線を彼女に向けることだけをしたのだった。 瞬と服田女史が視線を投じた女性客の上に、成り行き上、他の客と氷河の視線までが注がれる。 熱心に本を読んでいた その女性客は、その段になって やっと、自分に注がれている複数の視線と、そこに瞬がいることに気付いたらしい。 瞬の身体の向きが、店に入ってくる者のそれではなく、出ていこうとしている者のそれであることを見てとったのだろう。 彼女は、掛けていた椅子から 腰を浮かせ、 「逃げないでください!」 と、瞬に訴えてきた。 好奇心で、服田女史の目が爛々と輝く。 「てっきり 氷河目当てなんだと思ってたのに、彼女の お目当ては瞬せんせ?」 服田女史は、もう声のボリュームを抑えようともしなかった。 “にぎやか”を身上にしている服田女史が 氷河の店では(基本的に)静かにしているのは、騒がしいことが嫌いなバーテンダーに 店から追い出されてしまわないためである。 だが、これは、バーテンダーも事情を知りたいと思う案件。 バーテンダー当人に改めて確かめなくても、彼は瞬を店内に引きとめたいと思っているに決まっているし、瞬が逃亡を計った訳を知りたいと思ってもいるはず。 “この店の主のために、瞬を引きとめる”という大義名分を得た服田女史は、遠慮なく、かつ 速やかに、本来の お祭り好きの性格を発動させて、場を仕切り始めた。 「あなた、あなた。こっちに来て 事情を説明して。瞬せんせも 帰っちゃ駄目よ。瞬せんせが帰っちゃったら、この店のバーテンダーが機嫌を損ねて、仕事をしなくなるわ」 そんなことを言いながら、服田女史が 問題の人物をカウンター席に移動させたのは、現況の事情説明は この店の主の前で為されなければならないと考えたからだったろう。 服田女史は、問題の女性客と瞬を並べてカウンター席に着かせ、彼女自身は瞬の隣りの席に腰を下ろした。 もちろん、カウンター内、瞬の正面には、この店の主である金髪のバーテンダーがいる。 「で?」 評議の場のセッティングが完了すると、服田女史――今は服田議長と呼ぶべきか――は、全身に好奇心を みなぎらせて、瞬に発言を促してきた。 こうなると 何をしても――黙秘権を行使しようとしても――無駄な抵抗である。 服田女史が興味を持ってしまい、顔を合わせたくなかった人からは 逃げ損ない、何より、氷河が 服田女史の振舞いを止めようとせずにいる――氷河も 事情を知りたがっている――のだ。 瞬は腹を くくるしかなかった。 溜め息を一つ つくらいのことは許されるだろうと思い、短い吐息を洩らし、そうしてから 瞬は、氷河と服田女史に 問題の女性を紹介したのである。 「こちらの方は、花形さんといって、氷河の一夜だけの恋人――」 「えっ」 言おうとした言葉を 瞬が最後まで言い終える前に、服田女史が驚きの声をあげる。 カウンターに立つ氷河は無言だったが、それは彼が 瞬の発言に驚いていないからではなかっただろう。 氷河にも、それは初めて聞く事実のはずだったから。 氷河が僅かに眉を ひそめる様を見て、瞬は急いで 続く言葉を吐き出した。 「の振りをした人です」 「はあ !? 」 己が身に 氷河の分の驚きも引き受け、己が身で 氷河の分の反応をも示そうとしたかのように、服田女史の声が大きくなり、リアクションが大仰になる。 氷河の反応の薄さも、服田女史の驚き振りも、当然のものだと、瞬は思った――思わないわけにはいかなかった。 それは、事情を知っている瞬自身、何かの冗談であってほしいと思うほど、珍妙な事情だったのだ。 |