「週末――今週の土曜、ロミオとジュリエットを観にいく。渋谷Bホール、19時 開演。予定を空けておけ」
「え」
氷河が突然 瞬に命じてきたのは、瞬がミッチーのストーキングを公認してから半月後の水曜日。
店の奥のテーブル席にはミッチーがいて、台本の読み込み中。
カウンター席には、瞬目当ての服田女史。
瞬が毎水曜日に来店するという情報が行き渡っているせいか、時刻はまだ8時をまわったばかりだというのに、店の席は 9割埋まっていた。

「花形さんの劇団の公演は、まだ先ですよね」
氷河は なぜ急に そんなことを言い出したのか。
瞬は訝ってミッチーに確認を入れたのだが、答えは、瞬を誘った男から帰ってきた。
「俺がストーカー女の舞台など観にいくか」
たとえ それが本音で事実だったとしても、ミッチー本人のいるところで そんなことを明言するのは、あまりに心ない行為である。
氷河が、結果的に冷酷になることはあっても、意識して人に意地の悪いことをするような人間ではないことを知っている瞬は、そんな氷河の人となりを知らないミッチーが、氷河の言葉に傷付くことがないようにと、言葉にはせず胸中で願った。
ミッチーの様子を気にしながら、では、いかなるロミオとジュリエットへの お誘いなのかと、氷河に尋ねる。

「どこの劇団? ストレートプレイ? オペラ? ミュージカル?」
昨今、正統ストレートプレイの公演は少ないが、大衆受けする作品だけあって、『ロミオとジュリエット』は、グノーのオペラ、ベルリオーズのオペラ、ジェラール・プレスギュルヴィックのミュージカル等、様々のプログラムがある。
いずれにしても、それは あまり氷河の好むものではない。
氷河は、そもそも『ロミオとジュリエット』という演目に登場するロミオとジュリエットというキャラクターが嫌いなのだ。
『どちらも馬鹿で軽率すぎる』という理由で。
だから、
「バレエだ。英国のロイヤル・バレエ団が来日している」
という氷河の答えを聞いて、瞬は腑に落ちた。
バレエ『ロミオとジュリエット』の作曲を手掛けたのは、20世紀前半に活躍したロシア人作曲家セルゲイ・プロコフィエフ。
氷河の好きな――というより“嫌いではない”作曲家の一人だった。

「ロイヤル・バレエ団? それって、チケット取るのが 相当 難しいんじゃないの?」
瞬をミッチーに独占させてなるかと言わんばかりの勢いで その手を引き、瞬を自分の隣りのカウンター席に着かせた服田女史が、氷河と瞬の間に割り込んでくる。
犬のロミオに ちなんだわけでもないだろうが、彼女が飲んでいるのはソルティドッグ。
瞬でも知っているカクテルだった。
「手配済みだ」
氷河が、カウンター内側の可動棚から一通の封筒を取り出し、瞬に手渡す。
中には、氷河の言った通りの公演のチケットが2枚と 三つ折りになったチラシが1枚 入っていた。
瞬の手にあるものを横から覗き込んだ服田女史が、プリンシパルの名ではなく 金額に驚いて、非難の(?)声をあげる。

「うわ。S席3万円って、なに、この暴利! 芸能人を何十人も呼んだ、この間のトーキョー・コレクションの1日フリーチケットでも6千円ぽっきりだったのに。氷河、そんなに儲かってるの、この店」
「白百合の花に群がる蜂が多数いる おかげでな」
珍しく 氷河が、服田女史の さほど重要でもない質問に 親切に答えを返している。
氷河が、意味も目的もなく、そんなものを用意するわけがない。
その意味と目的は わからなかったが、意味や目的があることだけは わかっていたので、公演の日、氷河が バレエ観賞の約束を忘れたように、店を通常営業していることには、瞬はあまり驚かなかったのである。
否――通常営業ではなかった。
どういう根回しをしたのか、氷河の店には、“通常”なら まだ開店前の時刻だというのに 既に相当数の客が来ていたのだ。
その客の中には、ミッチーも服田女史もいる。

「客が来てしまっている。店を閉めるわけにはいかない」
「うん、そうだね」
「そこの地味な女。おまえ、俺の代わりに瞬とバレエを観てこい」
「え」
氷河に指名されたミッチーは、困惑したように、いつものテーブル席のソファから腰を浮かせた。
「私は、今日 早目に ここに来れば、余所行きスーツの瞬先生を見れるって言われて――」
「見れただろう」
氷河は、そういうエサでミッチーを 彼の店に呼びつけていたものらしい。
余所行きというほど改まった身なりをしていなかった瞬は、段取りがいいのか悪いのか わからない氷河の やりように、胸中で短く吐息した。

ともあれ、今回のバレエへの お誘いは、ミッチーのためのものだったのだろう。
もっとも、『ミッチーのため』と言うと、氷河は、『これは、おまえをストーカー女から解放するための画策だ』と言って、断固 否定しそうだったが。
「そんな……私、こんな普段着なのに」
「瞬が隣りにいたら、誰も おまえなど見ない」
“華”を求めている人間に対して 随分と辛辣な物言いだが、氷河は 優しいから辛辣なのだということを、瞬は知っていた。
「デニムで来るような人も いますから、大丈夫ですよ」
氷河の辛辣な言葉を 少しでも優しく やわらかく言い換えるのが、瞬の務め。
そんな瞬の気遣いが わかっていても、木で鼻をくくったような態度を貫くのが、氷河の務めなのだ。

「男を代理に立てるのは不本意だ。おまえしか いないだろう」
そこで、『なら、私が』と言い出さないところが、氷河が服田女史を仕切り癖を許容している理由である。
服田女史は、『なら、私が』と言う代わりに、
「氷河でも焼きもちを焼くの」
と、興味深げに氷河に尋ねた。
「俺は嫉妬の塊りだ」
「そこいらへんに転がっている並の男が 瞬せんせの心を射止められるなんて思っていないくせに」
「油断はできない。瞬は誰にでも親身になるから、瞬の親切を好意だと誤解する者は少なくない。勘違いをした奴が、瞬に何をするかわからん。男は皆、俺の敵だ」
「あら、大変。でも、それは、誰もが心惹かれる花を我が物にした幸運な男の宿命と思って、諦めるしかないわね」

『男は駄目だが、女なら構わない』
氷河と服田女史の会話は、何かが――というより、何もかもが――根本的に間違っていると、成人男子であるところの瞬は思った。
思って、だが、思ったことを言葉にはしなかった。
それはおかしいと言ったところで、氷河と服田女史にタッグを組まれたら、常識人の瞬には勝ち目はない。
瞬にできることは ただ、氷河の無言の命令に従って、尻込みしているミッチーの手を取ることだけだった。






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