ついに巡り会えた同朋と共にいられる時間は短いかもしれない。氷河は すぐに彼の求める地を目指して旅立ってしまうかもしれない――という瞬の懸念は杞憂だった。
氷河の旅には 具体的な目的地も、いつまでに そこに辿り着きたいという、はっきりした目標もなかったらしい。
彼は、支障なく暮らすことのできる“家”があるなら、そこを去る必要はないという考えでいてくれるようだった。
あるいは、彼も瞬同様、何よりも“孤独でなくなること”を求めていたのかもしれない。
瞬にとっては嬉しいことに、氷河は 瞬の家を、当座の宿ではなく、彼の生活の場としてくれた。

氷河といれば、誰にも知られてはならない秘密は 秘密でなくなる。
それだけでも 瞬の心の負担は大きく軽減されるのに、氷河といれば、瞬は一人ではなくなった――自分を孤独な人間だと思わずに済んだ。
その上、氷河の力は、狩りにも漁にも大いに役立つ力だった。
どこからともなくやってきた風来坊が瞬の家に住みついたことを怪しみ、心配してもいるようだった村人たちも、氷河の狩りの成果の獣肉や (すなど)ることの難しい大型の魚の分け前にあずかると、さほどの抵抗もなく、氷河を村の一員として受け入れてくれたのである。
「働き手が増えることは、小さな村には有難いことだ」
と言って。
税の取り立ての厳しい地から農民や漁民が逃げてくることは、さして珍しいことではなかったせいもあっただろう。
氷河と瞬の二人暮らしは、極めて平和裏に村の皆に受け入れられたのだった。


「僕の兄さんにも力があったんだ。兄さんは、2年くらい前に ふいに村から姿を消してしまった。きっと力のことを誰かに知られたせいで 災厄に見舞われたんだと思う。村の人たちは、トルコかイギリスあたりの軍隊に さらわれたんだろうって思ってるみたいだけど……」
窓の向こうでは、風よけのために植えてあるニセアカシアの木の枝が揺れている。
木々の枝の隙間に少しだけ 望むことのできる夜の海。
その夜、瞬が氷河に兄のことを語ったのは、窓辺に置いたランタンの灯のせいだった。
炎は、瞬に 兄を思い起こさせるものだったから。

昼間 吹いていた海風は、夜になって陸風に変わっていた。
一人でいた頃は――風を操る力を持つ者だというのに――瞬は、夜の風の音が恐かった。
風の音や 夜の闇に呑まれてしまうような不安に襲われ、就寝時にランタンの灯を消すことを躊躇することも しばしば。
兄を思い起こさせる灯りを消してしまいたくなかったのだ。一人でいた頃は。
だが、今は二人なので――不安や恐怖を紛らせるためではなく、兄が生きている可能性を 氷河が示唆してくれないかと、それを期待して、瞬は兄のことを氷河に語ったのである。
が、氷河は瞬の意図とは違う箇所に引っかかりを覚えたらしい。
なめし皮の手入れを中断し、氷河は 窓際の椅子に腰を下ろしている瞬の側にやってきた。

「さらわれた?」
瞬が口にした その言葉を反復して、氷河が 何やら考え込む素振りを見せる。
しばらくしてから、氷河は険しい顔で瞬に注意を喚起してきた。
「おまえくらい綺麗だと、そういう危険もあるな。気をつけろ。世の中には、綺麗な女子供をさらって金持ちや権力者に売りつける人さらいというのもいるんだ」
「……」
瞬が聞きたかったのは そういう言葉ではなかったのだが、氷河が至って真顔なので、がっかりした様子を あからさまにするわけにもいかず、瞬は氷河の顔を見上げ 僅かに首をかしげることだけをしたのである。

「おまえときたら、毎日 手足を剥き出しにして 浜や山を駆け回っているっていうのに、肌は白いわ、手足は細いわ、おまけに その可愛らしい顔立ち、何より その目。人さらいには垂涎ものの獲物だぞ」
「……」
氷河は いったい何を心配しているのか。
本気で そんなことを心配しているのなら、氷河は自分のことを知らなさすぎる――と、瞬は思った。
「僕のことなんかより、氷河は自分の心配した方がいいよ。僕より氷河の方が危険でしょう。氷河の方が、僕なんかより ずっと綺麗なんだから」
「俺は面構えに可愛げがないから、そういう人さらいに さらわれる心配はない。力も強いし」
「僕だって強いよ。僕、すごく力持ちなんだ。風の力をうまく使えば、重いものも簡単に運べる。それに、もし僕に危害を加えようとする人がいたって、風の力で追い払えるから。そんな人は どこかに吹き飛ばしちゃうよ」

もちろん、力は慎重に 注意深く使わなければならないが、それにしても氷河の心配は的外れである。
彼の目の前にいる 一見脆弱な子供の力を知らない人間なら いざ知らず、氷河は その力を誰よりも よく知っている人間――否、その力を知る ただ一人の人間ではないか。
人さらいに10人がかりで襲いかかられても、瞬は彼等の手に落ちない自信があった。
氷河も それは知っているはずなのに、彼は本気で その事態を憂慮しているらしい。
厳しい顔つきのまま、にこりともせずに、氷河が瞬を見詰めてくる。
見詰めたまま、氷河は瞬に頼んできた。
「俺は吹き飛ばさないでくれ」
「僕が、氷河を……?」

真顔で、氷河は いったい何を案じているのか――と、瞬の疑念は更に深まったのである。
僕が氷河に そんなことをするはずがないのに。
たとえ そんなことができたとしても、しないのに。
そう、瞬は思った。
もしかしたら 氷河は、二人が喧嘩をしてしまった時のことでも案じているのだろうか。
だとしたら、それは全く無意味な危惧である。
できる限り長く――可能なら、いつまでも――氷河が ここに留まっていることを望んでいる人間に、氷河と喧嘩をすることなどできるわけがない。

「僕が氷河に そんなことするわけないでしょう」
微笑して、瞬は氷河に そう告げたのである。
氷河が、そんな あり得ない事態を憂うのをやめて、一緒に笑ってくれればいいと思いながら。
だが 氷河は、瞬の願いを叶えてはくれなかった。
険しい表情のまま、
「俺に何をされても?」
と尋ねてくる。
「え……?」
質問の意図が わからず、氷河の顔を覗き込んだ瞬の頬に、氷河が その右の手で触れてくる。
「瞬。おまえは綺麗だ」
そのまま上体を傾け、氷河は瞬の唇に彼の唇を重ねてきた。

身体が微かに震える。
膝の上に置かれていた瞬の手が、自分はどうすべきなのかと、瞬に尋ねてくる。
そんなことを尋ねられても、瞬には その答えはわからなかった。
だから、『じっとしていて』と、瞬は 自分の手に命じたのである。
『答えがわからないから、じっとしてて』と。

ゆっくりと、氷河の唇が瞬の唇から離れていく。
そうしてから、その唇は、
「吹き飛ばされることを覚悟していたんだが」
という音を作った。
「氷河に、そんなことしないよ、僕……」
そんなことをされると、氷河は 本気で案じていたのだろうか。
だとしたら、氷河の懸念が、瞬は不思議だった。
そんなことがあるはずがないのに。
「よかった」
氷河が安堵したように、微かな微笑を目許に浮かべる。

窓の外にあるのは夜の闇。
闇の中で陸風を受け 揺れるニセアカシアの枝の影。
一人でいた頃には、その風が作る ざわめきも恐かった。
だが、今はもう恐くない。
今 瞬の前にあるのは夜の闇ではなく、温かいランタンの灯。
寒々しい風と 木々のざわめきではなく、氷河の声。
頼りなく不安げに揺れる黒い木の枝ではなく、氷河の青い空の色をした瞳。輝くような金色の髪。
恐いものは何一つない。

「ずっと一緒にいよう。きっと、こんな力を持っているのは俺たち二人きりだ。こんな力を授かったことを ずっと恨んでいたが、この力は、きっと俺たちが巡り会うために 天が授けてくれたものだったんだ」
「僕たちが巡り会うために……?」
そのために、天が与えてくれた力。
では、氷河の声も、瞳も、髪も、唇も、腕も、二人が巡り会うために、天が与えてくれたものなのだろうか――。

「僕も、こんな力があることを ずっと悲しんでいたけど、これが 氷河に会うために与えられたものなのなら――この力が、僕と氷河が運命で結びつけられている証なら、嬉しい」
「きっと そうだったんだ」
氷河に そう言われると、そうだったに違いないと思えてくる。
そうでないはずがなかった。
「あ……」
氷河の腕と胸が 瞬を抱きしめる。
氷河の唇が、再び 瞬の唇に触れる。
氷河の声が瞬の名を呼び、氷河の髪が瞬の頬を撫でる。
目を閉じていても、自分が氷河の青い瞳に見詰められていることを感じる。

氷河は本当に 風を操る力を持った彼の恋人に吹き飛ばされることを案じていたのだろうかと、氷河の身体の温もりの中で、瞬は疑ったのである。
もし そうだったなら、おかしい。
もちろん 瞬は、瞬は氷河を吹き飛ばしたりなどしなかった。






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