誓いの前夜






刺客として送り込まれている白銀聖闘士たちを ことごとく――だが、かろうじて――撃退して わかったことは、聖域に巣食う邪悪の根源を排除しない限り、アテナとアテナの聖闘士たちが その正しい役目を果たすことはできない――ということだった。
地上世界の支配や粛清を企み、そこに生きる人間たちを滅ぼそうとする神々から 人間界を守る戦いを戦うためには、まず 人間によって為されている聖域の不正を正さなければならない。
そのためには、白銀聖闘士たちより はるかに強大な力を有する黄金聖闘士たちと戦い、勝利し、アテナがアテナであることを 彼等に示さなければならない。

格下の青銅聖闘士の身で白銀聖闘士を打ち破ることができたのだから、それは不可能なことではないと考えるべきか、白銀聖闘士との戦いですら 紙一重の勝利をしか得られなかったのだから、黄金聖闘士に勝つことは到底 不可能と考えるべきなのかを、瞬は迷っていた。
その どちらが正しいのだとしても、自分たちが聖域に赴き、聖域を 誤った方向に導いている教皇を倒さなければならないのだということだけは、瞬にもわかっていたのだが。
アテナとアテナの聖闘士たちは、ともかく聖域に向かうしかないのだ――ということだけは。

その決意を為したばかりの時だった。
アテナと 彼女に従う青銅聖闘士たちの許に、その声が届けられたのは。

城戸邸の庭。
午後の いちばん明るい時刻だというのに、突然 周囲が薄闇に覆われ、庭の木々や花々を揺らしていた微風が不自然に止む。
それは若い男の声のようだった。
瞬たちに接してきたそれは、姿のない声だけだったので、声の主が 事実 若いのかどうかは、瞬たちには確かめるべくもなかったのだが、それは大した問題ではない。
その声は、自らを神と称した。
神ならば、千年の時を知っていても、若い姿を保つことは可能だろう。

その声は、
『アンドロメダを生贄に捧げよ』
と、瞬たちに命じた。
『さすれば、神である余が、偽りの教皇を排除し、あの者に従っている黄金聖闘士たちに真実を知らせ、アテナがアテナであることを示してやろう。アテナがアテナであることを保証する者として、神以上に ふさわしい存在はあるまい。神の言葉ほど重いものはない。余の言葉には、黄金聖闘士たちも抵抗なく従うだろう』
と。
『もし 人間である そなたたちの力で、アテナをアテナと示そうとすれば、多くの犠牲が出ること必至。最下位の青銅聖闘士とはいえ、アテナの加護を受けた者。黄金聖闘士とも互角に戦うことはできるだろうが、それでは そなたたちはアテナに従う聖闘士同士で傷付け合うことになる』

だが、アンドロメダの聖闘士を生贄として 神(その声の主)に捧げれば、聖闘士の犠牲を一人も出すことなく、聖域は かくあるべき正しい姿を取り戻す――と、声の主はアテナとアテナの聖闘士たちに告げた。
そして、彼は、もし その言に従わなければ 聖域がどのような犠牲を払うことになるのかを、瞬たちに示してみせたのである。
すなわち、アテナの加護を受けた青銅聖闘士たちに敗北し 命を落とす黄金聖闘士たちの姿を。
声の主が瞬たちに見せた幻影は、決して確実に訪れる未来の光景というわけではなかっただろう。
それは、アンドロメダ座の聖闘士を生贄として神に捧げれば そんなことにはならないという、“IF”で作られた未来の様子なのだから。

仮定形でしかない その幻影の中で、瞬自身は会ったこともない黄金聖闘士たちが倒れていく。
青銅聖闘士にすぎない自分たちが 本当に幾人もの黄金聖闘士を倒すことができるのか――と、瞬は その幻影を にわかには信じることができなかったのである。
これは むしろ、青銅聖闘士たちを油断させようという神の罠なのではないかとさえ、瞬は思った。
――が。

「カミュ……」
一人の黄金聖闘士が 凍気のために命を落としていく。
彼が誰に倒されたのかは、考えるまでもなく明らかなことだった。
その黄金聖闘士を倒すことになる氷河が、その黄金聖闘士の名らしきものを呟く。
氷河の頬は蒼白だった。
「そうか。聖域の不正を正すということは、師を倒すということなのか……」
それは、氷河の師が 彼の育てた者に命を奪われる光景だったらしい。
氷河の仲間たちは、氷河の その低い声によって、自分たちが これから為そうとしていることの意味を、初めて実感として理解したのである。
それは、本来 アテナのために共に戦う同志を倒すことなのだ――と。

「なんで瞬なんだよ!」
と、声の主に問うたのは星矢だった。
神だという男の声が、その声を低く不愉快なそれに変える。
『人間の分際で、神である余に問うか。人は神の言には 疑いを持たずに従うものだ』
「そんなことは訊いてねーぜ。俺は、なんで瞬なんだって訊いたんだよ!」
答えになっていない彼の答えに、星矢が再度――苛立ったように問いを重ねる。
神を自称する声もまた、答えになっていない答えを再度 星矢に返してきた。
『神話の時代から、生贄に捧げられるのは アンドロメダと決まっておろう』
「そんな勝手な理屈があるかよ!」
『うるさい人間だ。そなたは、神への畏敬の念というものを持っていないのか。瞬。己れの採るべき道を決めたなら、余を呼ぶがいい』

「あなたは誰」
生贄を求める神が いかなる名を持つ神であるのかがわかれば、その道を採っていいのか否かを判断する材料になる。
だから 瞬は 彼に名を問うたのだが、声の主は 瞬の問いに答えを返してこなかった。
まるで、生贄になるべき者は 生贄を求める者が誰なのかを知る必要はないし、知って 自らの採るべき道を考える必要もない――とでも言うかのように。
生贄を求める者が誰であっても、アンドロメダ座の聖闘士は 我が身を生贄とするだろうと、彼は決めつけているようだった。

答えを返さないまま、ふいに声の気配が その場から消える。
同時に、世界は 元の光を取り戻し、城戸邸の庭を遊び場にしていた暖かい微風たちも、再び 自らの遊戯を始めた。
声の気配があった場所を、星矢が 挑むような目で睨みつけている。
呆然と虚空を見詰めている瞬に、言葉を――おそらくは、正しい忠告を――投げかけてきたのは紫龍だった。
「瞬。詰まらんことは考えるなよ。今の声の主が本当に神かどうかもわからない。神だとしても、人間に好意的な神だとは思い難い。むしろ 人間を軽侮しているような声だった。少なくとも、聖域の不正を正すことは、奴の真の目的ではないだろう。奴の提案には、どう考えても、何らかの他意がある」
「紫龍の言う通りです。瞬。行ってはなりません。これは罠です。わかっていますね」

アテナも紫龍と同意見のようだった。
二人の言うことは、おそらく正しい。
彼等の言葉に従うべきだということは、瞬にも わかっていた。
わかってはいたのだが。
「でも、僕一人の命で、他に多くの犠牲を出すことなく 聖域の不正を正すことができるのなら――」
それは、青銅聖闘士に倒される(ことになるらしい)黄金聖闘士たちの命を救うだけでなく、黄金聖闘士と戦って無傷ではいられないだろう青銅聖闘士たちの命を救うことでもあるのかもしれない。
瞬は、自分一人の命で それが実現できるなら、そうしたかった。
しかし、“正しい”アテナが首を横に振る。

「今ここで 私たちが あなたを失うことになれば、おそらく そのために もっと大きな犠牲が求められる時が、必ず来ます」
「……」
そうなのかもしれない。
おそらく そうなのだろう。
アテナは正しい。
彼女が正しいのだろうことは わかるのだ。
――しかし。
「どんな犠牲を払うことになっても――人の世を守るための戦いは、人の力で為されなければなりません。神の力に頼れば、人の世は 人のものではなくなる。神に支配されるものになる。であればこそ、私は、自分では戦わず、人間である あなたたち聖闘士に苛酷な戦いを強いるのです。人間の世界は人間たちのもの。神に頼ってはなりません」

沙織の言葉――神であるアテナの言葉は、厳しく苦い。
けれど、だからこそ それは『人間と 人間が生きている世界を無条件で守ってやろう』という甘い言葉より、よほど信じられるものだった。
彼女は、人間の力を信じている。
彼女は、人間である聖闘士たちの力を信じている。
自分たちが 彼女に信じてもらえているのだということは、瞬にも強く感じ取ることができた。
――だが。

「きついけど、沙織さんの言う通りだぜ」
星矢もまた、瞬が考えてはならぬことを、瞬に考えさせまいとする。
そして、氷河だけが無言だった。
瞬と視線を会わせようとせず、氷河だけが。
アテナが、紫龍が、星矢が――彼等が口にする幾つもの正しい言葉より、その沈黙こそが 瞬の心を大きく揺らしたのである。

氷河は、彼の師を愛しているのだ。
未熟な子供だった自分を 聖闘士に育てあげてくれた大恩ある師。
氷河の中にある師への敬愛の気持ちは、瞬にもわかった。
瞬が 聖域に向かう決意をしたのは、もちろん アテナのため、人間の世界を守るため。
しかし、瞬に戦いを決意させたのは、それだけではなかったから。
瞬自身もまた、自分の師のために 聖域に向かうことを決意したのだったから。






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