氷河が その城に単身で乗り込んできたのは、それから まもなくのことだった。
常に 薄明るい その城の中で、瞬は 自分がどれほどの時間を過ごしたのかを 把握できていなかったので、それが10日後のことだったのか、半日後のことだったのかは わからなかったのだが、ともかく 氷河はやってきた。
漆黒の神が現われ消える城――つまりは、神の支配力が及んでいる城、人間が侵入できるはずのない城に。
「瞬!」

その時 瞬は、薄明るい部屋の寝台で、一人 まどろんでいた。
いつも城内にあると感じていたパンドラの気配が ふいに消えたような気がして、閉じた目を開けた時、まさに その瞬間、氷河が 瞬のいる部屋に飛び込んできたのである。
「氷河……」
生きている瞬の姿を認め、氷河の瞳が明るく輝く。
その青い瞳に出会った瞬が最初に考えたのは、なぜ氷河が この城に入ってくることができたのかということだった。
あの漆黒の神が許さない限り、それは人間には不可能なことなのではないか――と、瞬は訝ったのである。

「瞬、無事か!」
「氷河、どうしてここに……」
「アテナが、俺を運んでくれたんだ」
「アテナが?」
アテナの力をもってすれば、それは可能なことだったのだろうか。
可能なのかもしれない。
だが、それは容易なことではないはずだった。
あの漆黒の神は、アテナの許から アテナの聖闘士を さらうことができるほどの力を持つ神なのだ。
瞬には、あの漆黒の男が――神が――あえて 氷河の侵入を許したのだとしか思えなかった。
もしかしたら あの漆黒の神は、最初から そのつもりだったのかもしれない。

『まだ時は満ちておらぬから』
瞬の前から その姿を消す時、あの漆黒の神は いつも、そんな言葉を呟いていた。
アンドロメダ座の聖闘士が彼の生贄になるまでの時は、実は まだ満ちておらず、彼は それを承知していたのではないか――。
瞬には、そうとしか思えなかった。
あの神は、最初から、彼の生贄に 何もする気がなかったのだ――今は。
瞬は、そう確信した。
とはいえ、城内からパンドラの気配は消え、アテナの聖闘士が侵入したというのに、漆黒の神も姿を現わさない。
瞬には、事実を確かめる術はなかった。

アテナの力を信じ、自分が この城の内に侵入できたことに疑念を抱いていないらしい氷河が、仲間の救援を喜んでくれない仲間に焦れたように、瞬の身体を抱きしめてくる。
そして、彼は 苦しげな声で 瞬に訴えてきた。
「瞬。俺のためなら、やめてくれ。俺は俺の運命に立ち向かい、戦う。おまえに誓う。だから――」
「氷河……」
氷河は、アンドロメダ座の聖闘士が なぜ ここにいるのか、なぜ ここに来ることになったのかが わかっているらしい。
それが わかっているから、アテナも氷河を――他の誰かではなく氷河を――この城に運んだのだろう。
氷河の訴えが、瞬は切なかった。

不安定で優しく、健気で弱く、だからこそ美しく、人に愛される能力に恵まれている氷河。
彼の力は、瞬には、神の力より脅威、そして 驚異だった。
誰も、その力には抗えない。
氷河は、全く無自覚に 自分の力を知っているらしく――瞬が自分の訴えを()れると信じ、そうなることを全く疑っていないようだった。
彼は、二人が共にアテナの許に戻ると、瞬の返事を手に入れる前から知っているようだった。
彼は、自分以外の人間を 自分の意に従えることに慣れきっている。
瞬は――瞬もまた、氷河の意に従うしかなかった。
氷河が、二人でアテナの許に帰る――帰りたいと 言っているのだ。
氷河の望みを叶えること以外、瞬に できることはない。

氷河が、瞬を抱きしめていた腕を解き、気遣わしげに――否、不安そうに――瞬の姿を その視界に収める。
「あの声の男に何か――傷付けられたり、痛めつけられたりは――」
「そんなことはなかったよ。話をしただけ」
「話? 本当にそれだけか?」
自らの力の強大さを意識せずに 信じきっている氷河が、そんなことにだけ疑り深い。
彼は、瞬の言葉を すぐには信じてくれなかった。
「なぜ そんなことを訊くの。どうして そんなことを気にするの」
「いや、その……普通、おまえみたいに綺麗な人間を 脅して手に入れようとするような奴の目的は――邪恋というか、邪まな――」
そんなことを言い募っている自分自身に、氷河は腹を立てているようだった。
氷雪の聖闘士は、その声も、その手も、その眼差しも熱い。
氷河は、今は、その小宇宙すら熱かった。
瞬が、『恋とは こういうものだ』と思う熱。

「そんなことはないよ。何もされてない。あの神は――地上世界や そこに生きている人間を守るために戦うことは無意味だと言って、僕をアテナから離反させようとした。あの神の目的は、僕たちの団結を崩すことだったんじゃないかな。きっと、僕が いちばん(くみ)しやすいと思ったんでしょう」
「馬鹿な。地上の平和や 人々の幸福を願うことで、おまえほど強固な意思を持った人間はいないだろうに」
瞬が さらわれたことを――事実は、瞬が 自分の意思で ここに来ることを選んだのだが――、アテナに敵対する神の人選ミスと断じた氷河は、『それが あの声の主の目的だったのなら、奴は 俺を選ぶべきだった』と言おうとした――ようだった。
直前で、その言葉を発することを思いとどまり、氷河は自嘲することだけをした。
すぐに その苦い笑いを消し去り、彼の“力”を用いず、言葉で瞬を諭してくる。

「俺たち一人一人は――おそらく弱い存在なんだろう。だが、皆で力を会わせれば 何かができる。自分一人で解決しようとしないでくれ。これは、アテナの聖闘士全員、人類全体のことだ。おまえ一人でどうにかなってしまったら、人間は他者に守られることしか学ばない。自分一人が犠牲になって 皆を助けようとする おまえの決意は尊いものだが、おまえは間違っている」
「氷河……」

それが、人間のあるべき姿、正しい対応なのだということは、瞬とて わかっている。
しかし、人類の大半は、戦う術どころか、我が身を守る力さえ持っていない。
それゆえ、アテナの聖闘士は 彼等の代わりに――彼等を守って戦う。
それは、アテナの聖闘士が人類のために、人類の犠牲になっていることと同義ではないか。
それが許されるなら、仲間を守るためにアンドロメダ座の聖闘士が生贄になることも許されていいのではないか。
“瞬”は、犠牲的精神から そうするのではない。
そうしたいから、そうするのだ。
アテナの聖闘士たちが犠牲的精神から戦うのではなく――誰かに戦いを強いられたから戦うのではなく――自分の意思で戦うことを選び、実際に 戦い続けるように。

知恵の女神が、その事実を わかっていないはずがない。
しかし、彼女は、それをアンドロメダ座の聖闘士に許す気はないようだった。
「アテナも同じ考えでいる。だから、必ず おまえを連れ戻してこいと言われた。そのために 俺はここに――」
アテナが そう言ったのは事実だろう。
だが、アテナが氷河を ここに運んだのは、“人類が採るべき正しい道を守るため”ではない。
氷河も、それは承知しているようだった。
一度 言葉を途切らせてから、氷河は ご立派な建前を語るのをやめた。

「おまえが 俺のために犠牲になるのは間違っている」
「氷河……」
「敵が我が師でも、俺は ためらわずに戦う。神に誓う。だから、こんなことは やめてくれ」
「……」
アテナの聖闘士が人類の犠牲になって戦うことを認めるアテナ。
にもかかわらず、瞬 一人が犠牲になることは許さないアテナ。
彼女が その矛盾を承知の上で 瞬の犠牲だけを許さないのは、人類のためではなく、彼女の聖闘士のため――氷河のため。
彼女は、彼女の聖闘士が 仲間に守られるだけの弱く愚かな人間になり、後悔に満ちた生を生きる事態を、白鳥座の聖闘士のため、アンドロメダ座の聖闘士のために、回避したいのだ。
人類のために 自らを犠牲にして戦うアテナの聖闘士たちの幸福を、彼女は願っている。

彼女は、何と人間らしい神であることか。
彼女は まるで、我が子を戦場に送り出す母親のようである。
アテナの気持ちがわかるから――瞬は、氷河に頷くしかなかったのである。
氷河が師と戦うという誓いを破り、結局は 彼も自分を犠牲にするだろう道を選ぶだろうことが わかっていながら。
では、自分は その時に――今ではなく、その時に――氷河を守るしかない。
その時 必ず氷河は立ち直り 蘇ってくれることを信じて、瞬は氷河に頷くしかなかった。
彼の母親も、彼の師も、アテナも、そして自分も、そんな氷河を愛しているのだ。

「ごめんね、氷河。うん。一緒に戦おうね」
聞き分けのいい子供の振りをして、瞬は 氷河は首肯した。
氷河が 嬉しそうに、ぱっと その顔を明るくする。
(たち)が悪いほど 美しく、素直で、可愛らしい子供。
可愛らしくて――瞬は、少し 意地の悪い気持ちになった。

「氷河。僕、本当は あの人に何かされたの」
嘘といえば嘘。事実といえば事実。
瞬の言う“何か”を何だと思ったのか、氷河は ひどく深刻な顔になった。
「……何があっても、おまえはおまえのままだ」
重く苦しげに沈んだ氷河の声。
可愛くて――瞬は、結局 それ以上、氷河をいじめ続けることができなかったのである。
「一度だけ、キスされた」
「なに……?」
本当に、氷河は何を考えていたのか。
彼は、あからさまに 気が抜けたような顔になった。

「子供の頃、氷河に教えてもらった時以来だったから、びっくりした」
綺麗で傍迷惑な子供は 瞬の告白に嬉しそうに瞳を輝かせ、瞬の肩を抱き寄せるなり、瞬の唇に 自らの唇を重ねてきた。
「これで同じだ」
「何が同じなの」
「さあ」

氷河は、とにかく それで気が済んだらしい。
綺麗で傍迷惑な上に、負けず嫌い。
彼の母、彼の師、そして、アテナと アテナの聖闘士たち。
皆が 氷河を愛する気持ちが わかるような気がする。
だから、彼の師も、おそらく氷河に出会えたことを幸福に思い、そして 後悔なく、氷河に倒されてくれるだろう。
瞬は そう信じて、仲間たちの許に戻ることにしたのである。
瞬の手を握りしめる氷河の手は、今日も恐いほど熱かった。






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