十二宮の戦いは終わり、聖域は そのあるべき姿を取り戻した。
死の淵から甦ったアテナ。
アテナに従う黄金聖闘士たち。
春の風。正義の輝き。
聖域には ついに 希望の光が戻ったのである。


「ごめん! 悪かった。本当に すまん。何もかも 俺が悪い。許してくれ!」
「星矢……?」
瞬は、なぜ 自分が星矢に謝られるのかが まるでわかっていないらしい顔で平謝りに謝ってくる天馬座の聖闘士を見詰め返していた。
星矢の横で、紫龍が苦笑している。

戦いを終えて帰ってきた日本にも、聖域と同じ光があふれていた。
城戸邸のラウンジには、庭に向かって大きく取られている窓から射し込んでくる明るく暖かい春の陽光が満ちている。
平身低頭の仲間を困惑したような目で見詰めている瞬の表情は、その春の風情に似て暖かく、やわらかい。
厳しい戦いを戦い抜いた あとの穏やかさは、十二宮の戦いに臨む前の瞬のそれとは異なるものだったかもしれないが、確かに、星矢が慣れ親しんできた仲間のそれだった。

「星矢、いったい何を謝ってるの」
「あ、いや、その……」
改まって問われると、実に答えにくい。
星矢は 自分の誤解を瞬に謝り、瞬に許してもらいたかったが、自分が どんな誤解をしていたのかということは、できれば瞬に知らせたくなかった。
『俺は、おまえが氷河の命を奪うべく、虎視眈々と その機会を狙っているのだと思っていたんだ』という事実は、春そのままの笑顔を浮かべている瞬には、非常に告白しにくい事実だったから。
親切心からか、友情からか、あるいは罪悪感からなのか、星矢に代わって、その辺りの事情を瞬に説明してくれたのは、星矢の隣りで苦笑していた紫龍だった。

「星矢を責めないでやってくれ。元はと言えば、俺のせいなんだから。瞬は兄の名誉を守るためなら、氷河の命を奪うくらいのことは、どんな障害があっても、どれほど時間がかかっても やり遂げると、俺が星矢に吹き込んだんだ。おまえが氷河を見詰めているのを、星矢が誤解していて、その誤解が あまりに星矢らしくて、おかし――いや、微笑ましくて、つい からかってやりたくなった」
「僕が氷河の命を奪う……?」
「瞬が 氷河を見詰めているのを、俺が誤解?」
紫龍の説明には、瞬が初めて知ることと 星矢が初めて知ることが含まれていた。
瞬と星矢は二人共、その意味するところを すぐには理解できずにいたのだが、紫龍の言葉の意味を理解するのは、星矢より 瞬の方が 少しばかり早かった。

「もしかして、星矢、僕が氷河に 兄さんの復讐をしようとしてるって思ってたの? ずっと? 十二宮戦の間、ずっと?」
「ずっとじゃねーって! 天秤宮で、おまえが 自分の命をかけて氷河の命を救った時、誤解だったって わかったんだ」
“ずっと”ではなく“半分だけ”。
それが情状酌量の根拠になり得るのかどうかは さておいて、その補足説明によって、星矢は 瞬の前で 自分の罪を是認することになった。
瞬が、暫時 呆けたような顔になり、すぐに我にかえる。

「僕が そんなことするわけないでしょう! 氷河が僕のために わざと あんなふうに言ってくれたことくらい、僕、わかってるよ! 氷河が、僕を殺そうとした一輝兄さんから 僕を守るために――僕のために、一輝兄さんを倒そうとしたこともわかってる。その上、僕が 罪悪感を抱くことにならないように、わざと自分を悪者にして――」
“単純”でない瞬は、人の言葉や行動の裏にある思い遣りや優しさを感じ取ることのできる人間である。
まして、それが同じ境遇、同じ試練を耐えてきた仲間のことであるのなら。
なぜ そんなことを忘れていたのか――星矢は 今となっては、忘れていられた自分が不思議でならなかった。

「兄さんの復讐をするなら、僕は僕自身を倒すべきだったんだ。兄さんがデスクイーン島へ送られたのも、そこで悲しい思いをしたのも――それは みんな、僕が弱かったせいなんだから。なのに、僕は自分の命を消し去ることができなかった……」
星矢が忘れていたことは、他にも いくつもあった。
瞬は 人を責める代わりに自分を責める人間だということ、瞬が 人を恨むより信じようとする人間だということ、瞬が 人を憎むより 許そうとする人間だということ。
そして、すべての原因は――星矢に それらのことを忘れさせ、誤解させたのは、瞬の あの目――憤っているような、憎んでいるような、悲しんでいるような、微笑んでいるような、あの眼差し――だった。

「復讐なんて――それが無意味な行為だってことは、僕だって わかってるよ。そんなことをしても、亡くなった人は帰ってこないし、復讐を果たした人間の胸にも空しい思いが残るだけだって。だから、僕は本当は アフロディーテも……ううん」
アフロディーテも、本当は倒したくなかったのだろう。
だが、それは、今更 言っても詮無いことである。

「僕は……氷河が、僕に、兄の仇を討てって言ってくれた時――僕のために、氷河が そう言ってくれた時、氷河が優しすぎて、泣きたくなった。涙を こらえるのに必死だった。氷河に あんなことを言わせてしまった自分に腹が立って、自分の弱さが憎くて――悲しいのと嬉しいのと、自分への怒りと――ありとあらゆる感情が 僕の中で渦巻いて、そして、気が付いたら、僕、氷河が好きになってたんだ……」
「は?」
瞬が、何か とんでもないことを言ったような気がする。
瞬の告白に あっけにとられたのは、今度は星矢の方だった。

一輝の命を奪った男への復讐を果たすことによってのみ 一輝の名誉は回復されると、氷河が瞬を挑発した時、瞬がみせた怒り。
あれは、氷河ではなく、瞬自身に向けられた怒りだったのだ。
憎しみも 悲しみも、瞬自身の 愚かさ弱さに向けられたもの。
そして、氷河を無言で凝視している――睨んでいる――と星矢が思っていたものは、あろうことか、瞬が自分の好きな人を見詰めている眼差しだったのだ。
ならば、その眼差しに 強い熱がこもっていても、それは ごく自然なことだった――のかもしれない。
まさか そんなことがあるとは思っていなかったから、氷河を見詰めている瞬の眼差しが 星矢の見知っている瞬のそれとは思えぬほど強く熱いものだったから、星矢は すっかり、瞬は自分の兄の仇を睨んでいるのだと思い込んでしまっていたのだ。

「いや、おまえの誤解が あまりに おまえらしくて、俺は 本当のことを教えてやる気になれなかったんだ。おまえの 極めてユニークな誤解と 頓珍漢な行動は、打ち続く命がけの戦いの中で、一服の清涼剤のように 心潤うものだったぞ」
紫龍が 何やら ふざけたことを言っていたが、星矢には もはや、このふざけた仲間に腹を立てる気力さえ 湧いてこなかったのである。
あまりに自分が間抜けすぎて。

運命の神が、そんな星矢に、更に追い打ちをかけてくる。
運命の神の導きで 星矢の前に登場したのは、某白鳥座の聖闘士だった。
もっとも彼は、その視界に 星矢の姿など映してもいないようだったが。






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