アテナの聖闘士の育て方






アテナは、どう話を切り出すべきかを迷っているようだった。
ということは、アテナが これから俺たちに話そうとしていることは、十中八九、面倒事だ。
それも、アテナにとってではなく、俺たちにとって。
要するに、アテナは 俺たちに面倒事を押しつけるために どういう説得の仕方をしようかと、それを考えているんだ。

アテナ神殿の玉座の間に呼び出された俺たち――白鳥座の聖闘士である俺と、天馬座の聖闘士である星矢、龍座の聖闘士である紫龍――は、そうと悟ると、瞬時に心身を緊張させた。
そんな つもりはなかったが、多少は 顔も引きつってしまったかもしれない。
なにしろ、こういう時、期待している通りに会話が進まないと、アテナは途端に機嫌を悪くする。
アテナに上機嫌でいてもらうために、俺たちは、彼女の言葉に対して、彼女の望む通りの答えを返さなければならないんだ。
面倒事を押しつけられるのは俺たちの方だっていうのに。

だが、これも宮仕えの身の悲しさだ。致し方ない。
彼女は神。
俺たちは人間。しかも、彼女の聖闘士。それも、しがない青銅聖闘士。
俺たちは、彼女の命令には逆らえない哀れな存在なんだから。

思案顔だったアテナが、やっと――“ついに”と言うべきか――顔を上げる。
どうやら 説得の方針が決まったらしい。
アテナは、俺たちの顔を ひと渡り眺め、その後、
「やっぱり、氷河かしら……」
と呟いた。
どうやら、俺をご指名らしい。
最悪だな。
俺は、思い切り派手に舌打ちをした。
もちろん、胸中で。
アテナの前で堂々と舌打ちをするほど、俺は命知らずじゃない。

「氷河。あなた、アトスを知っている?」
来た来た来た。
俺は一瞬、俺の横に立つ星矢と紫龍の上に視線を走らせてから、アテナの質問に答えたんだ。
「アトス? アトス山のことですか」
と。
アテナが、聖闘士の目でなければ見極められないほど 微かに唇の端に力を入れる。
まずい。
俺は 答えを間違えてしまったらしい。
だが、アトスの名を冠するものを、俺は アトス山しか知らないぞ。
他に何があるっていうんだ?

「氷河。あなた、読書はしないの」
機嫌を損ねたであろうアテナが、重ねて俺に尋ねてくる。
それだけの やりとりで、俺はもう 自分がアテナの望む通りの会話を形作れる気がしなくなった。
読書。
それは地上の平和を守ることを第一義とするアテナの聖闘士に必要な仕事か?
「は?」
「ギリシャ語やロシア語にはまだ翻訳されていないはずだけど――あなた、フランス語は堪能よね」
「それなりに」

俺は、アテナの期待に沿うことができそうにない時には、極力 口にする言葉を減らすことにしている。
余計なことを言って、藪蛇の事態を招かないために。
余計な言葉で、更に彼女の機嫌を損ねることがないように。
俺は彼女に短く曖昧な答えを返し、頷いた。
俺が生まれたロシアの宮廷の公用語はフランス語だし、俺の師はフランス人。
読み書き話すことは、“それなりに”できる。
それが、アテナが俺を指名した理由か、もしかして。
だが、フランス語なら、紫龍や星矢も“それなりに”できるぞ。
先日 紫龍がロシュフコーの箴言集を読んでいるのを見た。

「昨年 フランスで発表されたデュマ・ペールの『三銃士』は読んでいないの?」
アテナの声音は、“ご機嫌斜め”モード。
『三銃士』? 何だ、それは。
いや、『三銃士』は知っているが、それが世界の平和を守るために命をかけて戦うアテナの聖闘士と どう関係があるんだ?
「紫龍が、星矢好みの小説だと言って 読むように薦めていたので、あらすじだけは聞いていますが……。確か、リシュリュー枢機卿の時代のフランスを舞台にした冒険剣劇だと」
俺が 戒めを破って、少し長めの答えをアテナに返したのは、その情報を彼女に与えることによって、面倒事を紫龍か星矢に押しつけられるのではないかと考えたからだ。
俺の企みに気付いた紫龍と星矢が、俺の横で眉をしかめる。

「ええ。そう。その『三銃士』よ」
「それが?」
まさか、まだ翻訳されていない その『三銃士』とやらをギリシャ語に翻訳しろとでもいうんじゃないだろうな。
デュマ・ペールといえば、フランスの流行作家。
その作品を翻訳して売り出したら、このギリシャでも売れることは売れるだろうが、それで 地上世界に害を為そうとしている邪神が大人しくなってくれるとは思えないぞ。

「主人公の名前は、ダルタニャン。タイトルロールの三銃士の名前は」
そう問われて、アテナが望んでいた答えが やっとわかった。
そのアトスか。
アテナが期待していた答えは、山の名ではなく、小説の登場人物の名前だったんだ。
「アトス、ポルトス、アラミス――と、聞いています」
「その通り。そのアトスはどういう男?」
「三銃士のリーダー格で大酒飲み……だったかな」
「それだけじゃないでしょう」
「確か、大変な女嫌い」
「そう。一度 結婚で失敗して、それ以降 女性を寄せつけなくなった。ちなみに、アトスというのは偽名。で、その偽名の由来はアトス山」

なんだ。
やっぱり、アトス山でよかったんじゃないか。
どうして アテナは そういう無意味な回り道をしたがるんだ!
――とは、もちろん言わない。
そんなことを言ってしまったら、アテナは更に臍を曲げるからな。
俺は、アテナの言に感心した顔を作って、彼女の続く言葉を待った。

「アトス山には、猫以外は 家畜ですら女人禁制のアトス自治修道士共和国があるから、三銃士のアトスは、自らを戒めるために、特に その名を選んで 自らの名としたのでしょうね」
「はあ」
我ながら間の抜けた合いの手だ。
しかし、それ以外の どんなコメントも思いつかん。
俺は『三銃士』を読んでいない。
本当に、紫龍から あらすじを聞いただけなんだ。
そんな俺に、アテナは、
「そこに潜入してほしいのよ」
と、にこやかに依頼してきた。
無論、この場合の“依頼”は“命令”と同義だ。

だが、まあ、かなり今更という気はしたが、アテナが そういう会話の流れを望んでいたのだということだけは わかった。
三銃士のアトス、アトスは女嫌い、女人禁制のアトス山、アトス自治修道士共和国への潜入。
最初から アトス自治修道士共和国に直行すればいいのに、アテナは どうしてもフランスに寄り道をしたかったらしい。
そういえば、そのフランスも、最近また きな臭いことになっているようだがな。
ナポレオンが没落して王政復古を果たしたのが30年ほど前。
あの国では、また革命が起きそうだと聞いている。

それはともかく。
アテナの希望通りの会話を成り立たせることは 最初から無理だったのだということがわかって、俺は少し気が楽になった。
それは、どう考えても無理な話だろう。
このギリシャで――今はオスマン帝国の支配下にあるが――『アトス』と言ったら、フランスで発表されたばかりの小説の登場人物の名前より、アトス山の方が はるかに著名な人気キャラクター(?)だ。

「そのアトス自治修道士共和国に潜入して、俺に何をしろというんです」
面倒事を押しつけられるのは嫌だが、これ以上の回り道は 御免被りたい。
自分の墓穴を掘る気分で、俺はアテナに尋ねたんだ。
もしかしたら、アテナの回り道の目的は、俺に自発的に墓穴を掘らせることだったのかもしれない。
俺に そう問われると、アテナは少なからず機嫌を直したようだったから。
そうして 瞳を輝かせ、アテナは、アトス自治修道士共和国潜入の目的を 俺たちに語り始めた。






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