「俺の店だと、俺が話をしていられなくなるからな」 と言って、紫龍が 瞬と 衣類を身に着けた氷河を連れていったのは、都内某所にある中華料理店だった。 氷河が身仕舞いを整える間ずっと、苦虫を噛み潰したような顔をしていた紫龍。 紫龍に、お楽しみの時間を放棄するよう 言われてからずっと、憤然たる面持ちを維持継続中の氷河。 その二人の間で、瞬は ひたすら身体を縮こまらせていることしかできずにいた。 個室に、大きめの円卓。 そこには ジュネとフレアがいて、彼女等は、瞬と氷河の姿を認めると、 「ふん。やっぱり そういうところに落ち着いちまったのかい」 「もしかしたら 氷河を私のものにできるかもしれないと思っていたのに、残念だわ」 と、それぞれのコメントを投げてきた。 彼女等が ここにいることに困惑し 部屋の入口に立ち尽くしていた瞬を弾き飛ばす勢いで、もう一人の招待客(?)が 室内に飛び込んでくる。 円卓に用意されている椅子の数から察するに、この会合の参加メンバーは、それで全員揃ったようだった。 最後に どすどすと威勢のいい足取りで登場してきたのは、恰幅のいい身体を黒い革のドレスで包んだ化粧の濃い男性(女性)で、室内を 一渡り見まわした彼(彼女)の第一声は、 「いや〜ん、一輝ちゃンは来てないのぉ !? 」 だった。 「こんな不愉快な場に、一輝が来るはずがないでしょう」 「それは そうでしょうけどぉ。――ここの支払いは、氷河ちゃンと瞬ちゃン持ちなのよね? 今、フカヒレの上湯煮込みとアワビのステーキと北京ダックを人数分、頼んできたわよ」 「それで結構です。紹興酒は頼んであります」 そう言いながら、紫龍が 最後に登場した黒衣の男性(女性)に上座の席を勧め、その後、投げ遣りに顎をしゃくって、下座への着席を氷河に促す。 そうしてから、紫龍は、ジュネとフレアに、 「瞬と氷河の記憶を戻してくれ。その方が、いちいち経緯を説明するより手っ取り早い」 と告げた。 「仕方ないねえ」 「ほんと、癪」 『経緯を説明するより、記憶を戻した方が』 紫龍の その言葉を聞いただけで、経緯を思い出す前に、瞬は 自分の記憶の一部が 外部からの力で意図的にロックされていた事実を知ることになった。 そして、ジュネとフレアが口にした記憶域ロック解除のキーワードを聞いた瞬間、自分と氷河に それをした人間が誰なのかということをも、瞬は知ったのである。 ジュネが瞬に告げたキーワードは、 「この兄不幸者」 フレアが氷河に告げたキーワードは、 「マザコン、くたばれ」 だったから。 記憶の封印。 記憶が欠如した部分に埋め込まれた偽の記憶。 自分の兄でなければ設定しないだろう記憶解放のキーワードを聞かされて、瞬は すべてを思い出し、瞬の記憶は 再び一本のまっすぐな道を進み始めたのだった。 ひとつ所に落ち着くことをしない兄が、久し振りに弟の許に帰ってきた――仲間たちの前に姿を現わした――のが、そもそもの発端だった。 兄の帰還を喜ぶ瞬に機嫌を悪くした氷河が、兄の前で やたらと 彼の弟と自分の親密振りを誇示し、そんな氷河の振舞いに、瞬の兄もまた、氷河以上に機嫌を悪くした。 『兄のいない隙を衝いて、瞬の愛情を搾取する悪党め』 と、一輝は氷河を責め、 『そんなに大切な弟を放っておく方が悪いんだ』 と、氷河は一輝を なじった。 二人の間に 険悪な空気が漂い、まさに一触即発状態。 そんな二人の間で、瞬は どちらに味方することもできず、紫龍はといえば、どれほど歳を経ても大人になることができずにいる二人の友に呆れ顔。 彼は、子供じみた口喧嘩を続ける二人を止めようともしなかった。 『血のつながった実の兄弟の絆に勝るものなし』 と言い募る一輝に、氷河が、 『血縁がどれほどのものだというんだ。俺と瞬は血とは違うもので結ばれている。俺と瞬は運命で結ばれているんだ。俺は、生まれ変わっても 必ず瞬を見付け、愛する』 と真顔で応じ、そんな氷河の言を一輝が、 『何が運命だ。生まれ変わっても 必ず瞬を見付け出す? ふん。言うだけなら、誰でもできる』 と断じる。 まさに 売り言葉に買い言葉。 そんな 刺々しい言葉の応酬の果てに、二人の言い争いは、 『ならば、試してみようじゃないか』 というところに着地してしまったのだ。 すべては、“試す”力を持っている男に対して意地を張った氷河の自業自得なのだが、その いさかいの とばっちりを食うことになってしまった瞬は たまったものではない。 一輝は、氷河と瞬の 互いに関する記憶を封印し、奪った記憶のスペースを別の偽の記憶で埋めることをした。 氷河と瞬が、勤務先を移すことになったのは、埋め込まれた偽の記憶に整合性を持たせるためで、瞬の患者や同僚、氷河の店の客たち――これまでの二人を知っている人間全員に根回しをするのは、一輝の力をもってしても不可能なことだったから。 氷河の雇い主には 事情を話して協力を仰ぎ、彼(彼女)に裏から手をまわしてもらって、瞬が期限付き出向をせざるを得ない状況を作った――のだ。 すべてを思い出した瞬は、そんなことは いっそ永遠に忘れていたかったと、己れの運命を恨んでしまったのである。 そんなことのために、ジュネやフレアまでを巻き込んで、これほど大掛かりな茶番の舞台を用意することはないではないか。 瞬は 何より、自分がアテナの聖闘士であることを忘れさせられていたことに愕然とした。 意地っ張りな子供のような二人。 そんな子供じみた人間が、尋常の大人には持ち得ない力を その身に備えていることの危険。 偽の記憶を事実と信じ込んだ者たちが、そのまま二度と巡り会うことができなかったなら、自分たちは どうなっていたのか――。 考えただけで、瞬は――否、瞬は、恐くて 考えることもできなかった。 「一輝が瞬のところに帰ってくるのは たまのことなんだから、一輝を立てておいてやればよかったのに、おまえも一輝も大人げがなさすぎるんだ。いい歳をして」 すべてを思い出した氷河に、呆れた顔と口調で、紫龍が今更なことを言う。 「成人している弟の生き方に、あれこれ口出しする兄貴が気に入らなかったんだ」 氷河は、自分の子供じみた振舞いを 全く反省していないらしい。 反省するどころか。 しおれる瞬や呆れる紫龍とは対照的に、この茶番劇で勝利を手に入れた氷河は、自らが手にした勝利に 大いに満足しているようだった。 「ママ、ありがとう。ママが俺に健康診断に行くように言ってくれたのは、俺と瞬を会わせようとしてのことだったんだな」 「お礼を言われるほどのことじゃないわ。従業員に健康診断を受けさせるのは 雇用者の義務だし、一輝ちゃンが、氷河ちゃンと瞬ちゃンの仲を反対している急先鋒だって聞いて、ここは 私が 一肌脱がなきゃって思ったのよぉ」 自分に親切を示してくれた人間に素直に感謝の念を示すことはできるのに、弟の幸福を願う兄の気持ちは、氷河は どうあっても認めることができないらしい。 「反対しているのは、奴だけだ」 忌々しげな口調で、氷河は、吐き出すように そう言った。 「一輝以外の者が 皆、おまえの恋を応援しているわけではないぞ。一輝以外の者は、おまえには何を言っても無駄だと諦めているだけだ」 紫龍が、速攻で氷河の認識の誤りを訂正する。 氷河は むっとして、紫龍を睨みつけた。 たとえ それが真実であっても――言わずにいれば波風を立てずに済むことを、言わずにいることができないあたり、紫龍もまた 大人になりきれていない男なのかもしれなかった。 「まあまあ。紫龍ちゃン、せっかく大団円を迎えようとしているところで、そんな 野暮なことは言わないの」 室内に漂い始めた険悪な空気を吹き飛ばしてくれたのは、氷河の雇い主であるところの蘭子ママだった。 亀の甲より年の功。 彼(彼女)は伊達に歳をとってはいないらしい。 とはいえ、人生経験を積んだ分別ある大人が 騒動を引き起こすことはないかといえば、決して そんなことはないのだが。 「にしても、一輝ちゃンって、いろんな意味でヤバい男よね。人間の精神や記憶を操れるなんて。そんなヤバさもひっくるめて、超アタシ好み。だから、アタシ、何としても一輝ちゃンのブラコンを治してあげなくちゃって思ったのよ」 「なに?」 「ああん、氷河ちゃン。そんな顔しないで。氷河ちゃンも もちろん可愛いわよ。でも、一輝ちゃンはそれ以上だわぁ。あの素直じゃないところが、たまらないのぉ」 「ら……蘭子さん……」 それは どういう意味なのかと問おうとした瞬を、氷河は素早く遮った。 「一輝は、瞬の兄だけあって、いい男だ。ママは趣味がいい」 「そうなの。アタシ、自分の趣味のよさには絶対の自信があるの。一輝ちゃン、逃がさないわよぉ」 口調は軽いが、蘭子の目は笑っていない。 彼(彼女)に猛攻されたら、あの兄はどうなってしまうのか。 この場合 問題なのは、蘭子が ただ者ではないにしても 一般人であるということだった。 つまり、兄は、聖闘士の力で彼(彼女)を撃退することはできないのだ。 その時、兄は いったいどういう行動に出るのか。 どれほど楽観的に考えようとしても、楽しい展開を思いつけない。 瞬の背筋は 冷たく凍りついた。 「氷河……」 「そんな不安そうな顔をすることはあるまい。蘭子ママはいい人だぞ」 「それは わかってるけど……」 それは わかっているが、これは そういう問題ではないのだ。 とはいえ、まさか 蘭子の前で、『蘭子さんは 兄のいちばん苦手なタイプです』などということを言うわけにはいかず――瞬は結局 口をつぐむことになった。 「一輝は、なんだかんだ言いながら、あのデストールとも気が合っていた。一輝は絶対に認めないだろうが、奴は ああいうタイプに好かれるようにできている男なんだ。これは一輝の宿命だな。俺とおまえが出会ったように、避けようのない運命なんだ」 自分に火の粉が 降りかかってくることがないのなら、氷河は どこで どんな爆発事件や炎上事件が起きても 一向に構わないらしい。 自分の恋に都合がよければ、そのために、誰が どこで どんな目に会っても構わないというスタンスでいるらしい。 その事実を隠そうともしない氷河に、ジュネたちは 眉をひそめた。 「瞬の兄さんが、瞬から この男を引き離したいと思う気持ちが 痛いほどわかるよ」 「もしかしたら氷河の心を私の方に向けられるかもしれないと思っていたけど、そんなことにならなくて、かえってよかったのかもしれないわね」 「友を窮地に追いやって喜ぶような卑劣漢が 俺の仲間だとは」 常識人たちの常識的な意見は、非常識な人間の耳には届かないようにできている。 あるいは、氷河は、聞こえているのに、その声を無視した。 「一輝ちゃン、絶対 アタシのものにするわよーっ!」 「ママ。俺にできることがあったら、何でも言ってくれ。ママは俺の恋と命の恩人だ。俺の全身全霊をかけて、俺はママの恋を応援するぞ」 「氷河……」 蘭子はどこまで本気なのか。 それ以上に、氷河は どこまで本気なのか。 二人の本気度が わからないことが、瞬を不安にしていた。 Fin.
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