「氷河ーっ! おまえ、瞬に何をしたんだよっ !! 」
星矢が氷河の部屋のドアを破壊せずに、その室内に飛び込んでいったのは、ほとんど奇跡。
星矢にも僅少ながら理性が残っているようだと、星矢の器物損壊行為を阻止するために 彼を追ってきた紫龍は、安堵の胸を撫で下ろしたのである。
あとは、星矢が 怒りに任せて人間を損壊する事態を防ぐだけで済みそうだ――と。
が、幸いなことに、紫龍が危惧していた破壊行為は為されなかった。

「瞬が何をしてもいいと言ってくれたんだ。だから、俺は、瞬に惚れている男が すべきことを、瞬にした」
ともすれば 冷蔵庫から取り出した夏場のバターのように 融けてしまいそうになる顔を 必死に引き締め、人の顔としての体裁を保とうとしている氷河に、真面目な(?)答えを返されて、一瞬間 言葉に詰まったのが、星矢の敗因だった。
氷河が 馬鹿のように浮かれているか、狡猾な悪党の態度を示してくれれば、星矢も、怒りの小宇宙満載の拳を氷河に向けて放つことができていただろう。
しかし、今の氷河は、突如 我が身に降りかかってきた幸運に耐えることに、持てる力のすべてを回している――ように見える。
つまり、この事態は、氷河の意図したものではなかった――氷河は ただ、向こうから跳び込んできた幸運の神を神妙に(?)受けとめ、受け入れたにすぎないのだ。
氷河は、なぜ自分が こんな幸運に見舞われることになったのか、その事情も理由も わかっていないようだった。

となれば、今 ここで、瞬の仲間である天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士がすべきことは、瞬が幸運の神に変身することになった そもそもの原因究明――ということになる。
その作業に紫龍が取りかかったのは、彼が 現在の星矢の体調と精神状態を慮ったからだったろう。
アテナの聖闘士が、邪神との戦いではなく 脳内出血で死傷するようなことにでもなったら、それは あまりに外聞が悪すぎる。
「氷河。瞬は、ここのところ おまえが ずっと自分の部屋に閉じこもって独り言を言っている――誰もいない部屋で、誰かと話していることを心配していたんだが」
「部屋に閉じこもって独り言? ああ、それは――」
それは、氷河にとっては、何としても秘匿しなければならない重要な秘密というわけではなかったらしい。
存外に軽い乗りで 事情を説明しようとした氷河は、だが、ふと何かを思い直したように、発しかけていた言葉を飲み込んだ。
そして、ごく短く小さな口笛を室内に響かせる。

すると、どこからともなく、氷河の足元めがけて、10円玉が床を転がってきた――と、星矢と紫龍は思った。
次に 彼等は、その10円玉の正体を 台所にいる黒い昆虫――G――だと思った。
最後に、それが10円玉でも Gでもないことを認識するに至り、それきり。
その物体の全容を見ても、星矢と紫龍には それが何であるのかが わからなかったのである。
氷河が腰をかがめ、その物体の前に、手の平を上にして指を差し出す。
その物体は氷河に馴れて(?)いるらしく、氷河の人差し指の腹に よちよちと よじ登った。

「そ……それ、何だ? 動物……なのか?」
「チビトガリネズミだ。より正確に言うなら、チビトガリネズミの亜種のトウキョウトガリネズミ。世界最小の哺乳類らしいな。梅雨入り前に、城戸邸の脇のアスファルト道で、暑さでぐったりしているのを見付けて、ここに連れてきたんだ。チビトガリネズミは シベリアでは よく見掛けたんだが、日本で見たのは、こいつが初めてだ」
「ネズミーっ !? 」

氷河がネズミだといったモノは、氷河の人差し指の先で、落ち着きなく もぞもぞと身体を動かしていた。
全長2センチほどの身体には体毛があり、体長と同じほどの長さの尻尾があり、ゴマ粒ほどの手足があり――それは 確かに昆虫ではなく哺乳類の姿をしていた。
「トウキョウトガリネズミという名前は、発見者のイギリス人が蝦夷と江戸を間違えたせいで つけられた名前なんだそうだ。名前はトウキョウだが、実は 日本では北海道にしか生息していない。暑さに弱いんだ。この部屋を俺の小宇宙で冷やして飼っていた。ほとんど死にかけていたのが 復活したのはいいんだが、元気になったら、やたらと ちょこまか動き回ってな」

『大人しくしていろ』
『ここから出るな』
『外に出たら死ぬぞ』
『雨に打たれるのは危険だと言ったろう。今日の雨は今のところはこぬか雨だが、もし強い雨になったら、俺は おまえの命の保障はしないぞ』
『おまえは、おまえが生きて存在することの意味を考えたことがあるのか』
氷河が 話しかけていたのは、イマジナリーフレンドなどではなく、世界最小の哺乳類だったらしい。
要するに、超小型のハムスターを躾けていたようなもの。
極小すぎて、氷河の仲間たちは誰も、その存在に気付かなかったのだ。

そして、
『このままでは俺も死ぬしかない』
『それも本望だ』
『ここに瞬を連れてくるとか、俺の望みを瞬に伝えるとか、それくらいの芸をしてみせてくれたら、俺も、おまえという存在には意味と意義があるんだと認めてやるのに』
等の独り言は、氷河が世界最小の哺乳類に、自らの深刻な恋煩いの症状を訴えるものだった――独り言ではなかった――らしい。
氷河は、自分の中の空想の友だちではなく、彼とは別の命を持ったひとつの個体に向かって、その言葉を発していたのだ。

「この部屋で飼っていた……って、こんなの飼えるのかよ。てゆーか、本来は北海道にしかいない動物が東京にいたってんなら、そいつは 人間の手で北海道から本州に運ばれてきたんだろ? 飼い主がいるんじゃないのか? 飼い主は探したのかよ」
「こいつは絶滅危惧種だ。環境省のレッドデータブックに載っている。個人で飼うことは法律で禁じられているんだ。関東では、T動物園に2匹いるだけ。T動物園に確認したが、登録数のネズミがちゃんといた。こいつは、何者かが違法に飼っていたんだろう。いずれにしても、せっかく自由を手に入れたんだ。本格的な夏が来る前に シベリアに連れていって、放してやろうと思っていた」
「動物を国外に連れていくのは無理だろう」
「なら、北海道に――そうだな。チビを帰郷させるついでに、梅雨のない北海道に、瞬と一緒に旅行というのもいいな」

その計画が、氷河は気に入ったらしい。
氷河の口許が 僅かに緩む。
氷河が何を考えて やにさがっているのか、おおよそ察しはついたのだが、今は そんなことを咎めだてしている場合ではない。
今、他の何をおいても片付けなければならない問題は、氷河にはイマジナリーフレンドなどというものはいなかったということ。
氷河は孤独に苛まれ 精神に支障をきたしていたのではなかった――という事実だった。

瞬に本当のことを言うわけにはいかない――と、星矢は思ったのである。
言えるわけがないではないか。
氷河にイマジナリーフレンドはいなかった。
氷河には ちゃんと、氷河とは別の命と身体を持った“フレンド”がいた。
氷河は孤独で寂しい男ではなかった。
氷河は、ネズミに恋の相談をするような、ただの暗い男だったのだ――とは。
それは、絶対に瞬に知らせてはならないことだった。

だから。
気温の低い床にトウキョウトガリネズミを戻した氷河に、星矢は (まなじり)を吊り上げて、厳命したのである。
「いいか。おまえは、マーマを亡くし、師匠を亡くし、そのせいで 孤独に苛まれていたんだ。その喪失感のせいで、精神に異常をきたしかけていた。そうだな?」
「……それは何の冗談だ」
これが冗談だったら、どんなによかったか。
不審な顔で問い返してくる氷河の頭を、許されるなら、星矢は力いっぱい蹴りつけてやりたかった。

「いいから、そういうことにするんだ! おまえは孤独な男だった! けど、その孤独や寂しさや痛みを、瞬の優しさによって癒された。瞬の愛によって、おまえの傷付いた心は 生き返ることができたんだ!」
「100パーセント 事実に相違しているとは言わんが、それは 90パーセントくらいは 事実に反しているぞ。そもそも 俺は、瞬と再会を果たして以降、孤独など見たことも食ったこともない」
「いいから、そういうことにするんだよ! おまえは ともかく、俺はな! そんなチビのネズミのせいで男と寝る羽目になったなんて、とてもじゃないけど、瞬に本当のことは言えないんだよ!」
「……」

星矢は、氷河に『孤独な男になれ』と言うばかりで、なぜ白鳥座の聖闘士が 孤独な男にならなければならないのか、その理由までは語らなかった。
氷河に そんな親切心を示してやる気にはなれなかったし、それ以上に、その“理由”を口にしたくなかったから。
が、氷河は、星矢の断片的な怒声を繋ぎ合わせて、大方の事情を察したらしく、特に異議も反論も申し立ててはこなかった。
彼にとって重要なことは、理由や経緯ではなく、その理由や経緯が導いた結果であるらしい。
“結果”。
その結果が、星矢には、腹立たしく、受け入れ難く、認めたくないものだったのだが。

「つーか、おまえ、ほんとにやっちまったのかよ」
「やった」
「瞬は、抵抗なく、すんなり、おまえに やらせてくれたのか」
「やらせてくれた」
「そ……そっか……」
ならば少なくとも、瞬は氷河を嫌ってはおらず、氷河との行為に嫌悪めいたものを抱くこともなかったのだろう。
星矢には、それが救いといえば救いだった――かなり憤りと疲労感を伴う救いだったが。

「瞬は、俺を信じているから、俺の前に どんな無防備な姿もさらすことができると言ってくれた」
「で、おまえは、おまえを信じて おまえの前に無防備な姿をさらした瞬に 無体なことをしたわけだ」
「人聞きの悪いことを言うな。俺は ちゃんと瞬も気持ちよくしてやった。瞬も嬉しそうだったし、これからも 俺がそうしたい時には いつでも一緒に眠ると言ってくれたぞ」
「へえへえ。そいつはよかったな」
何かもう、真面目に聞いてるのが馬鹿馬鹿しくなる。
ネズミで恋を成就させる男がいるのだ。
モグラが地上の平和を守ることもあるかもしれない。
かなり 投げ遣りな気分で、星矢は そんなことを考えた。

「つまり、これは、暑さで死にかけていたところを氷河に助けられたネズミの恩返しだったんだな。氷河に、瞬との恋が実らなければ死ぬしかないと訴えられたネズミが、氷河の欲しいものを氷河の許に運んできたんだ」
もしかしたら紫龍は、この成り行きに どうにも合点がいかず、この結末を どうしても素直に喜べずにいる星矢のために、この事態を そういうふうに総括してくれたのだったかもしれない。
視点を変えれば、これは美しい予定調和の具現――おとぎ話によくある動物報恩譚の一つなのだと。
そんな予定調和は、星矢には やはり受け入れ難く認められないものだったが。
「氷河は正直じいさんかよ。その配役、どう考えても間違ってるだろ!」
そして結末も間違っている。
だが。
だが、その間違った結末を正すわけにはいかないのだ。
事実を瞬に知らせても、瞬は幸せにはなれない――誰も幸せになれないのだから。
誰も幸せになれない真実より、誰もが幸せになれる偽りを、瞬を傷付けないために、星矢は選ぶしかなかったのである。

「とにかく、絶対に、あのネズミのことは瞬には言うな。おまえは 瞬に 深い孤独を癒してもらった男なんだ。そういうことにするんだ!」
「俺は、これからも瞬が俺の側にいてくれるのであれば、他のことはどうでもいいが」
「なら、それで決まりだ」
人生における最優先事項が明白明確な人間は、問題解決の方法も単純なもので済む。
氷河は、いちばん欲しいものが手に入りさえすれば それで満足し、あれもこれもと望む男ではない。
更なる何かを求めるようなことはしないのだ。
最も欲しいものが、唯一 欲しいもの。
それが、氷河という男だった。

かくして、氷河に命を救われた世界最小の哺乳類による“ネズミの恩返し”物語は 闇に葬られ、それは、孤独だった一人の男が 愛によって生きる希望を取り戻すヒューマンストーリーへの変貌を遂げることになったのである。
物語の冒頭から結末まで、孤独な男など、実は どこにもいなかったというのに。

生きている人間が孤独であるということは、大抵は 当人の思い込みである。
もしくは、周囲の人間の誤認である。
人間は 一人では生きることのできない存在。
時には、ネズミさえ、人間を幸福にするために その力を貸してくれる。
だから、生きている時点で、その人間が 真に孤独であることはあり得ないのだ。






Fin.






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